第25話:『武』の召喚獣(後編)
貫かれたカナンの肩から透明な血液が溢れ出した。それは発酵した樹液のような甘酸っぱい芳香を放ち、地面をしとどと濡らす。
その臭いを嗅いだ女郎蜘蛛は、ふいに攻撃の手を緩めた。おそるおそる鎌で液に触れ、それを鼻先に運ぶ。鼻腔を突き抜ける香りに、女郎蜘蛛は束の間、陶酔した表情を浮かべた。
「ハルカ! 今です!」
苦痛に顔を歪めながら、女郎蜘蛛の脚元でカナンが叫んだ。
しかしカナンの呼び声より早く、ハルカはすでに剣を構えていた。女郎蜘蛛の背後から、ハルカが狙いを定める。
言われなくても分かってる! この隙を逃すなっていうことだよな! ハルカは不敵な笑みを浮かべた。
「無刃・飛燕!」
ハルカは右手の白剣を女郎蜘蛛めがけて放った。白銀の軌跡を描き、剣は空気を斬り裂いた。
「キィィィィィ!」
放たれた剣は吸い込まれるように、女郎蜘蛛の左腕に突き刺さる。女郎蜘蛛は剣を抜こうと必死にもがくも、鎌状の手ではそれもできなかった。
剣が刺さったまま、女郎蜘蛛は憤怒の形相でハルカに向き直った。とらえていたカナンから前脚を引き抜き、視界にハルカをおさめる。髪の先から脚の先端まで、すべての神経を研ぎすませ、女郎蜘蛛はハルカに怒りの矛先を向けた。
「俺がいること、忘れてただろ?」
ハルカは女郎蜘蛛を挑発する。
確かに、カナンの体液に気を取られ、女郎蜘蛛には隙ができた。元々は木であったカナン……彼女の血液は樹液と似た成分のものだった。女郎蜘蛛の隙を作るための手段になり得るかもしれないが、倒すための決定打ではない。ハルカは冷静に分析する。
もう少し自分が矢面に立ち、カナンに時間を与えなければいけない。そう思い、ハルカは左手の黒剣を右手に持ち直す。
女郎蜘蛛に突き刺した白剣を回収することは難しいだろう。一本の剣でどこまで女郎蜘蛛とやりあえるだろうか。
それでも、やるしかない。
「いく!」
鎌を頭上高くにあげ、威嚇する女郎蜘蛛。ハルカは正面から食ってかかった。
*****
「リーフィ、もう我慢がなりません。この魔法陣を解除してください! 私も行きます!」
ポラジットは自分の真上を舞うリーフィに命じた。しかし、リーフィは首を縦に振ろうとしない。
リーフィの中では、ポラジットの命令よりもカナンのそれが上位にあった。確かにカナンとリーフィをアイルディアに召喚したのはポラジットであり、ポラジットが「主人」であることは間違いないが、リーフィにとって、カナンは「母」であった。
カナンがポラジットを守るために作った白い花びらの魔法陣ーーポラジットはその中で身動きが取れず、もどかしさを感じていた。
ハルカたちを援護しようと、円の外へ足を踏み出そうとするも、白い花びらがポラジットの体にまとわりつき、無理矢理魔法陣の中へと押し戻してしまうのだ。では魔法陣の中から、と杖を構え、魔法を発動させても、白い花びらはその魔力の全てを吸い取ってしまう。もうポラジットにはリーフィに懇願する意外、術はなかった。
私は召喚獣を支配しきれていないーーポラジットは歯噛みする。カナンとリーフィ、どちらも主に忠誠を誓う余り、かえって主の支配を振り切り、自らの意志で行動してしまっていた。
ハルカがこの世界に来る前はそのようなことはなかったのに。これは究極召喚獣の力と何か関係があるのだろうか……?
戦う二人の姿を目で追うポラジットの脳裏に、そんな考えがちらついた。
*****
カナンは細剣の切っ先に全ての力を集中させた。
目の前では女郎蜘蛛とハルカが死闘を繰り広げている。金属の触れ合う硬い音、荒い息遣い、その間に時折聞こえる女郎蜘蛛の怒声とハルカのうめき声。そのような雑音が、逆に心地よい。カナンの意識はどんどん高められていった。
二度目はない。チャンスは一度きり――。
女郎蜘蛛に組み敷かれた時、カナンは確かにその目で女郎蜘蛛の「弱点」を見た。しかし、それは針の穴を通すように小さなものだった。
女郎蜘蛛の「弱点」を知ったと気付かれていない今しか勝機はない。ハルカが女郎蜘蛛の動きを止めることができれば、その一瞬に決着はつく。カナンの額から汗が伝い落ちた。汗の冷たさに、カナンはぞくりと身震いした。
女郎蜘蛛の体を刺し貫き、それからマスターを安全な場所へお連れするーーそれが私の使命なのだから。
視界の隅に映るポラジットの姿を、カナンは胸に刻み込んだ。
*****
体力は限界を迎えつつあった。
息はあがり、心臓は爆発しそうな勢いで鼓動を刻む。剣を握る手は痺れ、足はもつれた。
ハルカはそれでも後には引けなかった。
女郎蜘蛛の斬撃を、黒剣で受ける。攻撃を、流した矢先に別の角度から鎌がハルカの体を狙った。
このままじゃ埒があかねえ。カナンの援護はまだなのか……?
女郎蜘蛛の背後で細剣を片手にうずくまるカナンを、ハルカはちらと一瞥した。
ーーその時、ハルカの足元が崩れた。
ハルカを捉え損ねた前脚が、ハルカの足元の床を抉ったのだ。崩れた床に右足をとられ、ハルカの体が傾ぐ。
バランスを崩したハルカの頭上から、容赦ない女郎蜘蛛の一撃が襲い来る。
「ウフ……フフフヒヒヒヒヒッ!」
「……っ! こ、の、野郎……っ!」
右手は黒剣の柄を、左手は刀身を。ハルカは両手で黒剣を掲げ、女郎蜘蛛の鎌を受け止めた。不自然な体勢で攻撃を食らったハルカは、ひび割れた床に右足をつく。
女郎蜘蛛は前のめりになり、ハルカの剣を押し返した。爪で金属を引っ掻くような音が、ハルカの背筋を震わせた。ハルカの眼前に鎌の先端が迫る。
「くっそ……」
鎌の切っ先が眉間にちり、と触れた……その刹那。
「フヒッ?」
ハルカの視界に影がよぎる。影は女郎蜘蛛の脚の下に潜り込むと、ピタリと動きを止めた。――カナンだ。
女郎蜘蛛は危険を察知したのか、鎌を引き、その場を離れようとしたが、カナンの細剣の動きが勝った。
「チェックメイト、でございます」
とん、とカナンの細剣が女郎蜘蛛の腹部をつついた。さして強くもない攻撃であったが、女郎蜘蛛を震撼させるには十分だったようだ。
女郎蜘蛛は脚を曲げ、大きく跳躍する。カナンの頭上でくるりとその巨体を一回転させ、ハルカとカナンから距離を取った。
女郎蜘蛛の脚が床に触れたその時、あたりに無数の金属片が飛び散った。
「なっ……!?」
その光景にハルカは息を呑む。
女郎蜘蛛の脚を覆っていた鎧が、粉々に霧散していたのだ。黄と黒の縞模様をした筋肉質な脚が露わになる。
カナンはすかさず地を蹴った。一気に女郎蜘蛛との距離が縮まり、自身の間合いにとらえる。
追い詰められた女郎蜘蛛は半狂乱になりながらわめき散らした。口から泡を吹きながら、両の鎌を振り回す。
カナンは細剣でその攻撃を受け流し、華麗にかわす。まるで、演武のように。
一歩一歩、女郎蜘蛛ににじり寄り、丹田に力を込め、細剣で一閃した。
「ヒアアアアアアッ!」
先刻、カナンを貫いた二本の前脚が、カナンの手によって斬られた。体から分断された前脚は、体を探すかのごとくしばし跳ね、そのまま動かなくなった。
前脚を失った女郎蜘蛛は、体を支える力を失い、地面に崩れ落ちる。
直後、女郎蜘蛛の体の下から、木の根が伸びた。その根は女郎蜘蛛の腹部から胸までを一気に貫く。女郎蜘蛛の豊かな胸の谷間から突き出た根が、カサカサとうねった。
「あるべき姿に……還りなさい」
カナンは一言、そう告げた。
「ギ……グフ……」
女郎蜘蛛の鎌が力なく垂れ下がった。口から血を流し、八つ目から生命の光が消えた。
「カナン、お前、一体何を……?」
あまりにも一瞬のことに、ハルカは眼前で起こったことを理解できずにいた。
「先程……肩を貫かれた際、蜘蛛の腹部に鎧の継ぎ目と思われる箇所を見つけたのです。そこは一点だけ、身が剥き出しになっておりました。そこにわずかでも衝撃を加えることができれば、脚の装甲が剥がれるのではないかと……。推測は当たったようでございますね」
ふ、とカナンは強張った表情を緩める。細剣が繊維状に解け、カナンの体内へと吸収された。
「マスター、ご無事で……」
カナンは壁際のポラジットへ視線を向け、駆け寄ろうとした……。
「カナン! まだだ!」
女郎蜘蛛が蠢く。
ハルカとカナンの目の前で女郎蜘蛛が起き上がったのだ。
確かにカナンは心臓を貫いていたはずなのに……なぜ!?
女郎蜘蛛は生気の無い、虚ろな瞳でハルカとカナンを見つめた。




