第23話:『武』の召喚獣(前編)
「ポラジット!」
ポラジットの返事はない。
その時だった。土煙の中から女郎蜘蛛がハルカめがけて飛び出してきた。
「くっ!」
女郎蜘蛛の鎌が振り下ろされる。
ハルカは左方向に避け、その攻撃を交わそうとした。が、女郎蜘蛛の脚がハルカの行く手を遮る。
完全に鎌を避けきれなかったハルカは右足を斬られた。鎌はその勢いのまま地面をえぐる。欠けた石片が辺りに飛び散った。
ハルカの体に傷をつけた女郎蜘蛛は満足げに笑った――貴婦人のように上品に。その一方で目は狩人のそれだ。
傷は浅い。ズボンは破れてしまったが、さっきの一撃はハルカの足をかすめる程度のものだった。ハルカは剣の柄をぐっと握る。
女郎蜘蛛は建物の三階ほどある高さの天井に向け、口から糸を吐いた。糸の先端が女神の顔を汚す。女郎蜘蛛はその糸を伝い、天井まで一息で上昇した。女神が描かれている場所に、女郎蜘蛛が張り付く。
逆さになった女郎蜘蛛の黒髪が、通風孔から吹きつける風に揺れていた。目はハルカを視界にとらえたままだ。
身を隠すことは、ハルカにはできなかった。少なくとも、ポラジットの安否を確認するまでは動けない。
女郎蜘蛛が初めの一撃を加えた場所は、だいぶ視界が開けてきていた。砂埃は次第に薄らぎ、ぼんやりとだが、物の輪郭くらいなら見てとれる。
終の間の入口はすっかり瓦礫の山で塞がれてしまっていた。脱出することも、応援を呼ぶこともできない。つまり、ハルカとポラジット二人であの女郎蜘蛛を相手しなければならないということだ。……もちろん、ポラジットが無事であったらの話だが。
本当はポラジットをすぐにでも探しにいきたかった。だが、ハルカが今背を向ければ、二人とも女郎蜘蛛の餌食になってしまうだろう。それだけは避けなければならない。
「ウフフ……」
女郎蜘蛛の口が再び開いた。口中で細い糸が絡み合う。女郎蜘蛛はその糸を恐るべき速さで射出した。
「簡単に捕まるかっての!」
糸は意志を持っているように見えた。糸を一本避けたかと思えば、すぐさま次の糸が襲い来る。糸はハルカとポラジットの間に割って入り、二人をを引き離そうとした。そうさせまいと、ハルカは最小限の動きで糸をかわす。
「しまっ……」
同時に二本の糸が迫る。
糸の一本がハルカの右腕を絡め取った。粘着質なそれはいくら振り払っても切れない。ハルカがもたついている隙に、女郎蜘蛛はハルカの左腕と左足に糸を放った。糸に引っ張られ、ハルカは膝をついた。体に糸が巻きつき、思うように身動きが取れない。
女郎蜘蛛は鎌を使い、器用に糸を手繰り寄せた。ぐん、と両腕が持ち上がる。じりじりとハルカの体は女郎蜘蛛に引き寄せられていった。
じたばたともがくも、余計に糸の縛りがきつくなるだけだった。女郎蜘蛛の八つ目がハルカを見つめている。
ハルカの足が地面から離れたその刹那。
「キキィッ!」
ハルカの目の前を光が横切った。
蜘蛛の糸が切れ、ハルカはドサリと尻餅をついた。張力を失った糸ははらりと地面に落ちる。
ハルカの前に立っていたのは、リーフィを肩に従え、レイピアを構えたデュロイ家の使用人ーーカナンだった。
「カナン、リーフィ!」
「あなたを援護しなさいと……マスターの命令ですので」
(マスター? じゃあポラジットは……。)
ハルカは瓦礫の山に目をやった。砂煙の向こうに緑色の光に包まれた人影が見えた。
「ポラジット!」
青の瞳と視線が交わる。無事が分かり、ハルカは思わず笑みをこぼした。ハルカの姿を認めたポラジットは不敵に微笑む。
「あの程度で、私はやられはしませんよ」
ポラジットは目を細め、女郎蜘蛛を見つめる。女郎蜘蛛は自慢の糸を切られ、困惑していた。
「あれは、カティア教官の試験召喚獣……『武』の召喚獣です。カティア教官から熱量供給を受けているのが分かります」
「え……あれが?」
ポラジットたち召喚士には、ある程度召喚獣の主を判別する能力がある。そう言うであれば、間違いないのだろう。
「ですが、様子が変です。私たちに対する……異常な敵意を感じます。凶暴さといい、何者かに操られているのかもしれません」
「じゃあ……その操っているやつってのがシャイナたちを襲ったのか」
(要するに、この試験召喚獣を倒し、そいつを引きずり出せばいいんだな)
ハルカはグロテスクな女郎蜘蛛の体躯を見すえる。
「ハルカ、あなたは下がっていなさい。緊急事態です。私が対処……っ」
一歩前に進み出ようとしたポラジットがふらりとよろめいた。
「マスター!」
カナンが駆け寄り、ポラジットを抱き止める。ポラジットの額から一筋の血が流れた。
「お前、頭打ったのか!?」
「このくらい、なんてこと……っ」
傷が痛むのか、ポラジットは顔をしかめた。ポラジットは自分の左手で額を押さえ、回復魔法をかける。流れていた血が止まった。確かに傷は塞がっている。
「なぁ……ここでは治療は不完全なんじゃないのか?」
光元素が足りない。シャイナはそう言っていた。
杖を支えに、再び前に進み出ようとしたポラジットをハルカは押しとどめた。
「カナン、そいつをどこか安全なところへ」
「ハルカ、何を……! 私なら大丈夫です!」
主人の命令に反すること、けれども主人の体に関わること。カナンはその狭間で狼狽えていた。
ポラジットは大丈夫と言い張って聞かないが、どう見ても万全とは言い難い。
「大丈夫、じゃないだろ。ここじゃ治療もできないって言ってたじゃねえか」
「ですが!」
「なんとかなるって。そうだな……今度こそ俺が守ってやるから、心配すんな」
ハルカは底抜けに明るく笑ってみせた。できるだけ、心配させないように。安心してもらえるように。
「……っ!」
ポラジットはなぜかその一言で押し黙ってしまった。反論する声が聞こえなくなったことを同意ととらえたのか、カナンはポラジットを横に抱きかかえた。
「カナン……ちょっ……!」
「マスター、失礼いたします」
カナンはポラジットを瓦礫の山から離れた壁際に連れて行き、右手をポラジットにかざした。すると、カナンの指先から白い花びらが舞い散った。ポラジットの足元で何枚もの花びらが寄り集まり、円を描く。その円の上に、リーフィがちょこんと座り込んだ。
「リーフィとこの花びらがマスターを守ってくれるでしょう。マスターは体をお休めになってください」
「カナ……」
カナンは静かに首を傾け、ポラジットの言葉を制した。そのままポラジットに背を向ける。
「カナン……悪い。力を貸してくれ」
ハルカはカナンに頭を下げた。自分一人では力不足だ。どうしても、カナンの協力が必要だ。
それに時間がなかった。獲物を捕らえる邪魔をされた怒りか、それとも新たな獲物が増えたことへの歓喜か。女郎蜘蛛がギチギチと脚を触れ合わせ、体を揺すっていた。
「……言われずとも。くれぐれも誤解なきよう……私が戦うのはマスターのためです」
「ありがとな」
ハルカたちは終の間の中央へ進み出た。天井を見上げ、揺れる女郎蜘蛛を睨み据える。
女郎蜘蛛は自らを支えていた糸を切り、真っ逆さまに落ちてきた。空中でくるりと体を回転させ、ハルカたちの真正面にズン、と降り立つ。
「待たせたな。試験開始、と行こうぜ」
ハルカの言ってることが分かったのだろうか――女郎蜘蛛は甲高い声でゲラゲラ笑った。
周囲の空気が震え、ビリビリと皮膚に響く。
「行くぞ!」
「参ります!」
ハルカたちは左右に散開する。女郎蜘蛛の右側面にハルカが、左側面にカナンが斬りかかった。




