第5話:海の大蛇(後編)
「ハルカ! 逃げて!」
ハルカに双頭の大蛇の牙が迫る。
左右両方から挟み込まれ、ハルカには逃げる隙もない。
両手を重い枷で封じられたハルカは、立っているのもやっとだった。
ポラジットの叫び声だけがこだました。
(もしかして、このまま俺は……)
ハルカの目には、すべてがスローモーションに見えた。
血走った大蛇の目も、黄ばんだ牙も細部まで見て取れた。
大蛇の動きに気づき、ハルカに駆け寄るポラジットも、煙の中で戸惑うハロルドの影も、全部全部。
だが、体はちっとも動かない。
足は甲板に張り付いているようだった。
自分が死んでも、家族も友人もきっと気がつかないだろう。
体は元の世界にはないのだ。
亡骸はこのアイルディアで朽ちていくに違いない。
(そんな……)
ハルカの体が震える。
強い感情が腹の底から湧き上がり、指先に力が戻る。
熱い血が全身を駆け巡るのを感じる。
生命力を失っていた眼に光が宿る。
黒い瞳が大蛇を映し出した。
「嫌だっ!」
その刹那、ハルカの体は大きく宙に舞っていた。
その輪郭は銀色に輝き、ハルカが通った跡には光が軌跡を描く。
大蛇に跳ね飛ばされた……のではない。
ハルカは人間では考えられないほどの脚力で、上空に飛んだのだ。
ハルカを挟み込むことに失敗した大蛇の頭は、その勢いを止めることができず激突した。
衝撃で両の首はぱんと跳ね、のけぞる。
ハルカは空中でくるりと回転し、帆柱の頂に着地した。
一息つき、ハルカは自分の手の平を見つめた。
手の平はうっすらと輝いたままだ。
「なんで……俺、こんなこと……?」
咄嗟に攻撃を避けようと動いただけだった。
元の世界では、運動神経はいい方だった。
だが、あくまで普通の人間として、だ。
これほどまでに人並み外れた身体能力を有していたわけではない。
ついさっきまで重いと感じていた手枷も羽根のように軽かった。
引きちぎってみようか、と腕に力を込めるが、鎖は切れない。
どうやら力自体が増したわけではないようだった。
あまりの唐突な出来事にハルカは一瞬、大蛇のことを忘れていた。
その隙に、海蛇は再び海面より双頭をもたげ、予期せぬ反撃者を威嚇した。
「シャアアアアアッ!」
「こいつ、まだ!」
海蛇の口に水が集まり、水球を作り出す。
紫色のそれにはおそらく毒が含まれているのだろう。
ハルカは身構え、たらりと汗を流した。
(身体能力だけじゃ倒せない。それだけじゃ戦えない!)
その時、ハルカの視界にちらりと光るものが映った。
ハルカは視線を移す。
帆柱のちょうど根本、割れた木の残骸の隙間から、何かが日の光を反射していた。
目を凝らすと、それはハルカが逃げ込んだ部屋にあったもの――救命具を止めるために使われていた鉄の杭だった。
(あれなら……武器として使えるかも)
海蛇が水球を放つ。
同時にハルカはゆらりと帆柱から手を放す。
鈍い音と共に水球が帆柱に命中し、しぶきをあげた。
霧雨のように、毒の水が霧散する。
水滴が皮膚についた場所が、ヒリヒリと滲みた。
(これくらいなら、平気だ)
足元から地面に落ちていく感覚。
まだ慣れないその感覚に、ハルカは必死で抗った。
ダンッと埃を巻き上げて、着地する。
その反動を利用し、ハルカは地を蹴った。
鉄杭の頭だけが見えている。
ハルカは走りながら、その先端を両手でつかんだ。
「よし!」
足を滑らせ、スピードを落とすハルカ。
そのまま甲板に立ち止まり、船首で怒り狂う海蛇を睨みつけた。
「こんなところで……くたばるわけにはいかねぇんだよ!」
ハルカが纏う銀が強まる。
なぜ力が使えるのか、誰にも、ハルカ自身にも分からなかった。
アイルディアの人間が行使する召喚術でも魔術でもない、別の力──召喚獣としての能力。
だが、今のハルカにはそんなことどうでもよかった。
「俺は絶対に生きて元の世界に帰ってみせる!」
そう、決意を胸に刻みつける。
ハルカは力いっぱい、鉄杭を握りしめた。
自分にできること、自分にしかできないこと。
ハルカの本能が何かを告げる。
そして、ハルカはその直感に従った。
「来い! フェンリル!」
瓦礫の下で蹲っていた狼に力が戻る。
フェンリルは瞳に闘志を漲らせて立ちあがる。
「オオオオォォォン!」
フェンリルが高く、再び鬨の声を上げた。
*****
目の前で、異世界からやって来た少年が独り、戦っていた。
手を貸さなければならない。
自分も共に戦わなければならないはずなのに。
それでも、頭が回らない。
ポラジットはただその光景を見つめていた。
(銀の光……バハムートとしての力の片鱗……?)
ハルカが持つ特別な力。
紛れもないそれをポラジットは肌で感じていた。
新たな召喚獣を喚ぶことは可能だったが、ただでさえ損傷の激しい船に、これ以上衝撃を与えるようなことをしたくなかった。
船が沈没することだけは避けなければいけない。
策を練ろうとするが、いい案が思い浮かばない。
もともと召喚士のポラジットだ。
魔術も使えるとは言え、魔術師ほど力があるわけではない。
召喚術を封じられた今、彼女にできることは少なかったのだ。
行き詰っていたそんな矢先に、ハルカはフェンリルを呼び起こしたのだ。
(フェンリルはハルカの声に応えた……? 術者が呼んでも目覚めなかったのに?)
フェンリルがハルカの側に駆け寄り、ともに海蛇を睨みつけた。
ハルカはその様子を満足げに見つめると、不敵な笑みを浮かべた。
「ありがとな、フェンリル。応えてくれて」
フェンリルの復活に、海蛇が鼻息を荒げて憤った。
船尾側から尾を出し、ビタンと海面を打つ。
大きく波立った海で、船がぐらぐらと揺れた。
怒り心頭の海蛇は、尾を打ち付けることを止めようとはしない。
「行くぞ!」
ハルカは不安定な船上を駆ける。
軽やかな靴音とともに、ハルカの体は船首に向かっていた。
さらにタンッと一蹴り、強く踏み込む。
ハルカは真っ直ぐに海蛇の頭めがけて飛び上がっていた。
ポラジットは息を呑む。
(いけない、あれでは海蛇の頭まで届かない……!)
重力に引っ張られ、ハルカの速度が落ちる。
到底、海蛇の頭の高度まで到達できそうになかった。
ポラジットは杖を振り、浮遊魔法をかけようとする……が。
「……っ!」
容赦ない船の揺れがポラジットを襲う。
振り落とされないよう、ポラジットは手摺に捕まった。
カラカラと音を立て、蒼穹の杖が手元から離れる。
(しまった、杖が……!)
正面から斬りこんできたハルカを、海蛇がむかえうつ。
凶暴な双つの頭が、ハルカの肉を喰らおうと大口を開ける。
ハルカの鉄杭は届かない……。
ポラジットは短く悲鳴を上げた。
「そう簡単に餌にはならねぇよ!」
ハルカが急激に高度を上げた。
ガシンと海蛇の口が閉じたが、その中にハルカはいない。
海蛇の頭のさらに上に、ハルカはいた。
その一瞬に、ポラジットは自分の目を疑った。
フェンリルが……その背にハルカを乗せているのだ。
(あり得ない! 誇り高い幻獣であるフェンリルが……主以外に従うだなんて!)
ハルカに追いついたフェンリルは、そのままぐんぐんと空を駆け上る。
フェンリルの足元を浮遊魔法の魔法陣が照らした。
ポラジットの魔法はまだ効力を持っていた。
「フェンリル! 走れ!」
紫雷を散らしながら、フェンリルはハルカに従った。
加速度をあげ、そのスピードを増していく。
海蛇は首をうねらせ、フェンリルとハルカに噛みつこうとするが、その体を捕えることができない。
ハルカはフェンリルの背で、鉄杭を振りかざした。
「刺されぇぇぇ!」
フェンリルが双頭の間を駆け抜ける。
ハルカは海蛇の首の付け根目がけて、鉄杭を放った。
「シイイイィィィィ!?」
ズルリと肉が裂ける音がした。
ハルカの手を離れた鉄杭は、海蛇の首が分岐している場所にちょうど突き刺さっていた。
海蛇は一瞬動揺し、声を上げる。
だが、その程度の鉄杭は海蛇にとって小さな針に過ぎない。
勝ち誇ったようにシュルシュルと舌を出すと、とどめと言わんばかりに口を開けて巨大な水球を作り始めた。
「残念だな。とどめを刺すのはこっちだ」
海蛇から離れた空中で、ハルカとフェンリルが立ち止まり、くるりと振り返った。
そしてハルカは手枷をはめられた両手をすぅっと掲げ──。
「撃て! フェンリル!」
フェンリルが天を仰ぎ、高らかに吠える。
海蛇の頭上に黒い雲が瞬時に現れ……眩いほどの閃光が鉄杭を撃ち抜いた。




