「第3日」その3
ドライブからもどり、業界関係者向けのレセプションに参加したサトルは、イベント責任者として、いよいよ新製品の公開を行う事になります。
僕は部屋に戻ると早速シャワーを浴びて、髪をムースとスプレーでしっかり整えてから急いでスーツに着替えた。部屋のミラーで全身を隈無くチェックし、カバンの中身をしっかり確認して、ホテルを出た。イベント会場であるコンベンションセンター迄は歩いて5分程の距離だが、そのたった5分でホノルルの暑さを実感した。会場に着いたときには既に額は汗だくで、Yシャツもびしょ濡れだった。
会場入口の真上には、「ワールドツアーコスメチックショーinハワイ」の大看板が掲げられていて「いよいよだな」と気が引き締まる。関係者パスを首から下げて入ってゆくと、会場内はブース毎に板で仕切られ、内装も最後の仕上げが急ピッチで進められている。各社のコーナーや、メインステージでは明るい照明の下で慌ただしく人が動き回っている。僕はその中でも入口近くの大きなスペースを確保した「花鐘堂 KASHODO」のブースに近付いた。スタッフは、慌ただしく既に出来上がっていたステージや、ディスプレイに備品類や製品を持ち込んで並べようとしていたが、肝心のメインコーナーは、まだ、布が掛けられベールに包まれたままだった。新製品は、まだシークレットだった。対外的には勿論の事、一部の社員以外、現物を未だ見てもいない。徹底して秘密にしてきた。それがいよいよもう間もなく社員にも、世間にも御披露目することになる。その秘密の梱包物を開封するのも僕の合図が有ってからである。
「いよいよだね!。」と、僕はスタッフの一人に声を掛けた。すると、スタッフの皆が僕の方へと振り返り挨拶を交わした。その内の一人の男性スタッフから話しかけられた。
「尾崎さんは、ハワイ初めてではないんですよね?」
「いや、僕は今回初めて来たよ。空気も澄んでるし、風は爽やか、海は綺麗だし、街は街で発展していて活気もあって、郊外は長閑で静かで田舎らしくて、正に素敵な楽園だと思ったよ。でも、どうして初めてでないと?」
「いやあ。陽気なお友達をお持ちだと思って。昼間、カラカウア通りでオープンカーに乗っていられたでしょう?」
げっ!あの時を見られていたのか。
「あんなに仲の良い友達がいらっしゃるのでてっきりそうだと…。」彼はそう言いながらニコッと微笑んだ。僕は少し赤面したが、甘く見られる訳には行かない。
「たまたま知り合ったんだ。」とだけ言ったが、彼はニヤリとした視線で僕を見ていた。
いよいよ発表のメインポスターと、新製品の御披露目だ。ベールを剥がす時が来た。僕の合図で、掛けられていた幕は外された。そして、ステージ裏から未開封の段ボール箱が運ばれてきて開封された。この製品の開発時点から関わってきた僕にとっても、感慨深い瞬間である。社運を託した、秋に新発売となるこの製品は必ずヒットさせなくてはと、ここまでやって来たんだ。今や絶対ヒットすると確信していた。
…『落ちない口紅』…。
それが新製品だった。つまり、唇に塗り、一旦乾けば飲み物のカップやタバコ、そしてキスの相手や、或いは間違ってYシャツ等に色が移らないというこれまでこの世に無かった全く新しいタイプの画期的な口紅だった。化学的に言えば、通常の口紅は色素を練り込むのに固形ワックスを用いるが、その為室温以上の物に触れるとワックスが色素を伴って溶けだし、カップの飲み口等に色が付いてしまう。女性がコーヒーを飲む時に小まめにカップを拭き取るのはその為なのだが、この画期的な口紅は、ワックスの代わりに高分子シリコン樹脂と、揮発性シリコンオイルを用いていて、唇に塗った後、揮発性物質が蒸発すると、透明で柔軟な被服となって色素を包み込んで安定するのでその後は色が落ちたり移ったりしないという原理だった。僕は元来、製造技術畑の人間だったので製品の内容成分にも精通していた。解説はお手の物であり、その語り口もソフトで好感度が高いことから今回の抜擢となった訳である。初めて見るその製品には、スタッフの皆も目を輝かせた。
女性のスタッフに、サンプル品を1つ開けてもらい皆に見せる。サンプルパッケージにはミニ口紅が一本と、それを落とす専用リムーバーがセットで入っていた。試しにそのスタッフの唇に塗って貰う。暫く時間を置いて、唇にティッシュを当てて貰うと、本当にペーパーに紅は着かなかった。それには、化粧品を使いなれている美容部員たちも一様に驚いていた。その反応を見た僕は、益々これは大ヒットするだろうと確信した。
夕方から行われるオープニングレセプションは、謂わば業界ライバル会社、業界関係者や各メディアの人達向けの「内覧会」である。その道の「プロ」達の反応を確めることはイベント発表の重要なキーワードにもなる。「花鐘堂」のステージに、モデルも揃って入念なリハーサルが進む。僕も立ち位置や、解説のタイミングを最終確認した。
そして間もなく、レセプションが開会されると、同業他社の社員やマスコミ関係者、ジャーナル誌のカメラマン達が一斉に花鐘堂のブースに押し掛けて廻りを取り囲んだ。やはり、口紅が関心を集めている。その様子を見て、一般取材の記者達も興味を示して集まってくる。記者達の質問攻めが始まった。僕はなるべく丁寧に対応し、そして専門的に答える事を心掛けた。最も多い質問は「何故、落ちないのか」そして、「落とすにはどうすれば良いのか」ということだった。それには、サンプルパッケージをみせながら、メカニズムとリムーバーの説明をした。その後、欧米諸国の大手メーカーの社員達が大挙押し掛けてブースはごった返した。英語が堪能なスタッフに、側に付いてもらい、通訳を頼んだ。僕も、他のスタッフ達も皆汗だくになりながらも、気持ちは充実していた。1時間ほど、そのパニック状況は続いたが、レセプションも終わりに近付いたころ、やっと平静さを取り戻していた。バックヤードに下がると、中では「この製品はきっと凄い事になる。」と、話し合っていた。僕は初日のクロージングに、スタッフを集めて円陣を組んでから、責任者として訓示を喋った。
「今日のプレイベントで、我社の新製品が如何に注目を浴びているかが解りました。マスコミも、同業他社様も関心を持ってくれています。しかし、大事なのは、如何にカスタマーの興味をそそり、受け入れて頂けるかです。それが明らかになるのは、明日、明後日の一般の御客様の反応であり、それに皆さんがどう誠意ある対応が出来るかに係っています。本番はこれからです。今夜は皆さん、どうかゆっくりと身体を休ませて、明日への準備を整え、備えて下さい。明日も頑張りましょう!。」
皆は大きく頷いて応えてくれた。でも、この言葉は自分自信に向けた言葉でもあった。
慌ただしい1日が終わろうとしていた。僕はさすがに疲れてはいた。今考えてみれば、ドライブは無謀な行動だったのかも知れない。こんな大事な行事の直前に何故、いく気持ちになったのか。以前の僕なら必ず断っていたのに。かなり慎重派な僕の筈だったのにな。こんな自分が不思議だった。皆と別れて会場を後にした。夜のワイキキを歩いてホテルへと帰る。路上からビル群を見上げてみる。この時間、あの丘からは、きっと綺麗な夜景が眺められるんだろうな。と、想像しながら歩いた。
部屋に戻った僕は、スーツを脱ぐと、シャワーも、浴びずベッドに「デーン」と、横になった。その後、一度起き上がり、グァバジュースを一口だけ飲んだ。夕食は未だだが、食欲は無い。僕はそのままベッドに入り深い眠りに墜ちていった。
マスコミや業界関係者の反応は、手応え充分で初日のレセプションはおわった。明日から、2日間のショー本番は、サトルの想像を超えた事態になります。