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楽園の誓い  作者: 凡 徹也
19/20

ラストデー

 静かな夜明けだった。「ピピッ、ピピッ…」甲高い目覚ましのアラーム音が、長い時間響き渡っていたが、僕はとても起きれる気分ではなかった。薄目を開けて隣のベッドを見てみる。誰がいるわけでもなかったが。僕は寝ぼけ眼で「居るわけないか。」と、ポツリと呟いて、重い身体を起こした。現実に振り返って、(そうだ、日本に帰る飛行機に乗んなきゃ)そう思いながら顔を2回、ピシャリと叩いた。

 シャワーを浴びながら、長いようで短かったホノルルでの滞在期間を朧気に思い返していた。愉しい時間だった筈だが、今はただ気分が沈んで何も思い出せないでいた。バスルームから出て濡れた身体をタオルで拭き取る。何もやる気は出ないが、じっとしているわけには行かない。時は刻々と過ぎ行く。目の前にモノクロームの世界だけが拡がる中で淡々とやることをすすめた。

 下着を着て、グルーミンググッズで全身を整えるたあと、お決まりのコロンを髪の毛や首筋に吹き付け、それらをトランクの隙間に押し込で、ズボンとYシャツだけを身に着けた。

 僕は一旦、ラナイへと出てみた。ここから見る海もダイヤモンドヘッドもいつもの朝と何ら変わらない姿でそこにある。そして、この先もずっと変わらないのだろうが、僕にとっては見納めである。

 それから朝食を食べに、ホテルの一階へ降りた。食欲は全く起きてはいないが、いつものラウンジへと入る。目の前にはすっかり顔馴染みになったボーイが立っていて僕を迎えてくれた。

 「今日、いよいよ日本に帰るんだ。」

僕がそう言うとボーイが「そうですかあ。寂しくなります。」と、言ってくれた。

 僕は、「いつもの」と頼んでバイキングカウンターへと向かった。最後の朝なので、思いでのグァバをジュースにしてもらった。デニッシュやサラダを少な目に皿に盛ってテーブルに戻ると、ボーイが席の前で立ち、笑顔で待っていた。手に持つメインディッシュの皿には、ソーセージがいつもより1本多く載っていた。

 「サービスです!」ボーイは僕の耳元ででそう囁いた。食欲は無いがとても嬉しく感じて、その若いボーイにはいつもより多い心付けを渡した。「サンキュー!」とボーイは何回も繰返し言って、頭を下げた。滞在中何回も彼を見たが、その中でも最高に爽やかで満面の笑顔だった。

 席に着き食べ始めたが、一人での朝食は味気なく、寂しさが急速に僕の心を襲った。味の感覚はなく、ただ口に運んでは咀嚼するだけだった。そう言えば昨日の朝食はユウイチの家で二人で食べたんだっけ。今思い返してもユウイチの手料理は美味しかった。そして、二人で食べる食事は楽しかった…。普段、女性を部屋に呼ばないと言ってたあの食事は、僕だけが経験出来た奇跡の朝食だったんだ。二人だけで過ごしたあの時間はもう2度と来ない。そう思うと、切なくて堪らなくなった。

 モノクロームな朝食を済ませ、部屋へと戻った。もう間もなく空港へと向かう時間だ。ホノルルのスタッフ達から是非見送りをと、申し出があったが丁重に断ってあった。心の中で、ユウイチと最後の夜を伴に過ごし、その後、空港まで見送ってくれる姿を仄かに想い描いていたからだ。その為か、スタッフからは「事情はお察しします。」と、勝手な勘繰りをされてしまったが、結果として、こんな気分の重い姿を見せることが無くて本当に良かったんだと思った。

 30分程して僕はネクタイを締め、上着を着て、スーツケースとキャリーバッグを持ち、部屋を出ようとしたらドアの外で待ち構えていたルーム担当のボーイが荷物をフロントまで運んでくれた。チェックアウトを済ませて間もなく、僕はタクシーへと乗り込んだ。ボーイからは、「長い間の滞在ありがとうございました。又の御利用を心からお待ち申し上げます。」と、流暢な日本語で挨拶されたが、それも空しく、精一杯の生返事をすると、ドアは静かに閉まった。

 タクシーは正面玄関を出て、一方通行のカラカウア通りを一旦カピオラニパーク方面へと進む。正面に濃い緑の森と、焦げた茶色のダイヤモンドヘッドがみえる。公園の手前で車は左へと曲がると、再び左へと折れて、その景色とは別れ、アラワイ運河沿いの道をホノルル中心部へと向かった。車窓から見えるハードロックカフェやコンベンションセンターが、遠く懐かしいものに感じる。右手に見える山の中腹の何処かに、タンタラスの丘があるんだろうと探したが、何処だか判らないままタクシーは進む。僕はユウイチの姿を思い浮かべた。

 (きっと今頃は、忙しく仕事してるんだろうな)

そう思いながら、昨夜からはめたままの腕のブレスレットをじっと見詰めた。

 程なくして空港へと到着した。タクシーから降りると、本当に日本へ帰るんだと今更ながら思った。スーツには灼熱の暑さだが、建物に入ると直ぐにエアコンの効いた空気へと代わった。出発ロビーで、昨日購入したお土産の袋を受け取り、搭乗カウンターで出国の手続きを済ます。機内持ち込みの小さなバッグだけを持ち、後は預ける。全てが事務的に進んで行った。僕はその後、ロビーのチェアに腰掛け、コーヒーを飲んでいた。気分は沈んでいて、手に持っていた文庫本も読む気分になれないでいた。間もなく、搭乗ゲートをくぐれば、もうホノルルではなくなる。全ての時間が淡々と進んでゆくだけだ。

 その時、遠くから「サトル」と、呼ばれたような気がした。僕は最初は幻聴だと思っていた。「サトルー!」今度ははっきりと聴こえた。僕は席を立ち上がって後ろを振り返って見てみた。すると、視線の先には、肩を大きく動かし、息を切らしたユウイチが立っていた。僕は、夢を見ているのかと思ったが次の瞬間には、ユウイチに駆け寄っていた。

 「どうしたんですか…?ユウイチさん。もう、逢えないと思っていました。」僕は泣きそうだった。息を切らしたユウイチは

 「今朝、クリスがオフィスにやって来てサトルにプレゼント渡してくれって。クリスは、帰国日を明日だと勘違いしていたらしい。だから俺は、今朝帰っちゃうよと言ったら、どおしよう!と言うから、間に合うか判らないが、とにかく空港へ行ってみるって、それで飛んで来たんだ。良かったよ間に合って。」そう言いながら包装された小さな四角い包みを差し出した。

 僕は、「ありがとう。とっても嬉しいです、って伝えてください。」そう言うと、包みをカバンの中にしまった。

 「でも、またユウイチと逢えて嬉しい。」

 「俺もだよ!」ユウイチはそう言うと、ロビーの真ん中で僕を抱き締めた。それはそれは、太い腕で力強く抱き締めた。僕も、満身の力で抱き締め返していた。背中まで腕が回らない。ユウイチの分厚くて逞しい体は、鋼鉄のように固く、屈強だった。「サトル」ユウイチは僕の名を呼ぶ。「ユウイチ」僕も応えた。ユウイチは、僕の耳元で何度も僕の名を呼んだ。僕も何度も応えた。

「また、ハワイへ来いよ。」「うん」「絶対会おうな!」「うん」「絶対又、会おうな!」「うん」何度も何度も応えた。そして、僕は気が付いた。ユウイチの唇が僕の領に触れていることに。それは、ユウイチが言葉を発する度に強さを増し、はっきりとして、最後には密着していた。僕の体の中心を何回も電気が駆け抜けた。僕の体から次第に力が抜けていき、そのうち体の全てをユウイチに委ねていた。

 僕はようやく全てを悟った。自分の中に潜んでいたモヤモヤや、感情の正体を。そして、きっとユウイチの気持ちもそうであると言う確信も。僕はずっとこのままで居たいと思った。他の世界は見えなかった。何人もの人が周りを通り過ぎてゆくがその人達の視線も感じなかった。そこには二人だけの隔離された別の空間があった。

 僕達はずっと抱擁したままだった。それは、ほんの数分のことだったのだろう。でも、僕達の中では永遠の時間が流れている気分がしていた。その特別な空間を人々は温かく見守ってくれている様にも思えた。

 出発の案内放送が流れて僕はようやく我に返った。

 「僕、もう行かなくちゃ。」そう言うと、ユウイチの腕からは力が抜けて僕の体を離した。「そうだな。」ユウイチは静かにそう言った。僕はスーツの袖を間繰り上げ、「ほら、カッコいいでしよ。でも、スーツには似合わないかな?」と昨夜からはめたままのブレスレットを見せた。ユウイチは半袖なので露出したままの手首に、様になるようにそのストーンは光っていた。「そんなことはないよ。充分に似合ってるよ」

 ユウイチはそう言いながら自分のブレスレットをそれに重ねた。

 「これで本当にお別れだな。でも、さよならは無しな。又、逢えるんだから」僕は、「うん。僕はユウイチの事は絶対忘れない。これからもずっと友達!。又、逢いましょう。」そう言うと、ユウイチは、

 「最高の友達さ。俺だって絶対忘れないさ。また、逢おうな!」と言ってくれた。

 僕は出発ゲートをくぐった。僕は後ろを振り返る。ユウイチはまだ、見送っていてくれた。僕は腕を捲り上げ、ブレスレットをユウイチに見せつける様に前へと突き出した。すると、ユウイチは、腕を高く突き上げてそれ以上出来ないくらい高く、高く天に届くかのように突き上げて見せた。僕もそれに応えて腕を更に上へと突き上げながら、ガラス越しに見えるユウイチに満面の笑顔を送った。

 ユウイチは、まるでさよならを伝えるかの様にくるりと背を向けた。背を向けたまま、なお腕を突き上げていた。僕もユウイチの姿が見えなくなるまで腕を上げ続けた。やがてお互いの姿は見えなくなり、別れとなった。

 ユウイチはサトルに背を向けた。それは、自分の瞳から涙が一滴流れたからだった。サトルにその顔は見せたくなかった。ユウイチは心の中で呟いていた。一時はサトルは神が日本から遣わした過去の思い出からの化身と思っていた。でも、今は違う。サトルがいとしかった。自分でもこれは、本物の「愛」なんだと確信していた。でも、引き留められなかった。その張り裂けそうな強い想いに必死で耐えていた。その一筋の涙は、ハワイの強い陽射しにキラリと輝いた後、渇いて消え去った。ユウイチは強くて温かく、時には優しく照らす太陽の袂のいつもの場所へと溶け込むように静かに戻っていった。

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