何かが起こる夜 その2
二人だけの宴会が始まっていた。ユウイチは、ビールを飲み干しながら10年前にハワイへ来てからの色々な出来事を話してくれた。ハワイに来てまもなく、仕事を無くして暫く貧乏した事。クラブで、身体を露出して踊るボーイズダンサーのバイトをしていた事。その時にたまたま店に来店した今の社長に誘われ、雇ってもらいスポーツのインストラクターになったこと。今の仕事がとても愉しいこと等…。でも、話の殆どは女性遍歴の話だった。ユウイチが何故そんな話を僕に聞かせる事が、甚だ疑問だったけれど僕はずっと聞き入っていた。僕は益々、ユウイチは名うてのプレイボーイだと、思うしかなかった。
酒も進んで、梅酒は早々に無くなり、普段飲んだこともないバーボンのソーダ割りを飲んだ。喉に辛く感じた。そして、これ程深酒をするのも学生時代以来久し振りのことだ。思い返せば、あの日、カラカウアの路上での偶然の出逢いが無ければユウイチと今こうやって酒を飲み交わす事もなかった。「友」と知り合うとは、不思議な縁なんだなたと思っていた。
ユウイチは、リラックスして隣の椅子に日焼けした両足を投げ出し僕に聞いてきた。
「ところでさ、サトル。お前は女の方はどうなんだ。どれ位経験あんだ。」
「僕は全然だよ。今まで知り合った女性は、嫁さんを含めて3人かなあ?」
「たった3人かよ。よっぽど嫁さんに惚れたんだなあ?」
「いやあ、惚れたと言うか……2年ほど前に仕事の上司が紹介したいってお見合いみたいな形で会ってそれから何回かデートして、物静かでセンスも良いし身なりもきちっとしてるし、上司にも急かされて、悪い所何にもないし結婚を承知して……結婚なんてこんなものなんだろうなって余り考えずにしたんだ。」
「へえ…それで結婚かあ。嫁さんの何処が一番気に入ったんだ?胸かそれともあそこか?」
「僕の妻はそんなんじゃないんだ。」
「だってよ、身体の相性は大事だし、それに一度抱いて見なきゃ解らねーだろうよ?」
「いや、結婚するまでそういう関係は無かったんだ。」
「驚いた!。それじゃあれか?一度も抱かずに結婚したのか。信じられねー。もし、セックスが合わなかったらどうするつもりだったんだよ?。」
「だからさ、うちの嫁はそんなこと拘るタイプじゃないの。それにそんなことは、今更どうでも良いことじゃん。」
「どうでも良くはねーよ。今どき操を守るとか、信じられねーな。将来そんな奴がたまたま女遊びとか覚えて浮気に走るんだぜ。それとも、サトルは聖職者か?。嫁さんだって処女だったのかよ?」
その言葉に僕はカチッときた。
「本当にそんな事はどうでも良いの!生活は上手くいってるし僕はユウイチの様にあちこちの女に手を出すプレイボーイじゃないし。」
「驚いたよ。サトルは女をちゃんとイカせたことあんのか?絶頂までいかせておかしくさせて、メスのあえぎ声あげさせるまで満足させるセックスしてんのかよ?」
「そんなこと余計なお世話じゃん。あのね、僕は女性の経験一杯積んでユウイチみたいにセックスマシンに成るつもりも無いし。じゃあ、逆に聞くけどユウイチは、今迄に本当に一人の女性を真剣に愛した事は有るんですか?。今みたいな事ずっと続けていたら、その内大勢の女性の呪いにあって殺されちゃいますよ。きっと!」
「何だと、もう一度言ってみろ!。サトル。お前に女の何が解るって言うんだ。え?。それに、俺の事も何も知らないくせにふざけるな!」
そう言うとユウイチは僕の胸ぐらを掴んだ。酒が入っている所為もあって二人は感情的になりすぎていた。でも、僕も引けなかった。何せ、「男」としての自分を完全否定された気分である。僕もユウイチを睨み付ける様に応戦したが、筋力や腕力は、ユウイチの方が数段上だ。僕はたちまち倒されて床に臥せられ押さえつけられた。激しい息遣いのまま、僕はユウイチの顔を至近距離で真っ直ぐ見上げた。僕の身体の上に乗るユウイチの顔は怒りと言うよりもの悲しげで泣いている様にも見えた。それは酒の所為ではなく、瞳は赤く潤んでいる様だった。
僕の腕から力は抜けた。そして、ユウイチからも。二人は黙ったまま見つめあっていた。ユウイチのそれまで見せたことのない表情に戸惑った僕は、何も言葉が出ずにいた。
息遣いが落ち着いて、僕が先に口を切った。
「ご免。僕が言い過ぎた。」…それはか細く小さな声だった。
「いや、俺こそ剥きに成りすぎた。謝る。」ユウイチは、そう言うと大きな身体を僕の上から退けた。ユウイチは、僕の腕を引き、立ち上がらせてくれた。その腕は、先程僕の胸を締め上げていた物とは別物の様に優しく感じた。僕たちはお互いに椅子に腰かけたが、気間づい空気が流れていた。
僕はその雰囲気に耐えられないでいた。無言でこれから帰った方が良いのかな?と考えていた。ユウイチは、冷蔵庫から、ミネラルウォーターを取り出して僕に勧めた。それから、
「サトル、今夜は泊まっていってくれ。頼む。」ユウイチはか細い声でそう呟いた。僕は、ユウイチの目を見ずに「うん。」と一言だけ応えた。僕は、そのミネラルウォーターを二つのグラスに注いで、一つをユウイチへ渡した。僕たちはそのグラスを同時に飲み干した。二人は伴に大きなタメ息を洩らした。そのタイミングが妙に合っていて、お互いの顔を見合って思わず笑ってしまった。直前の言い争いなど何もなかったかのようだった。
僕たちはユウイチの寝室へ移動した。(とは言っても、仕切りもなくキッチンとは部屋続きではあったが。)僕は、その大きなウォーターベッドに腰掛けた。身体がバウンドして心地好い揺れだった。
「ベッドは一つしか無いけど二人で寝るには充分だから。」
そう言って、ユウイチはタオルケットを2枚出してきてそのうちの一枚を僕に渡した。僕は、短パンだけを脱いで窓辺に面した場所に横になった。窓から見える星が綺麗だった。
ユウイチが、「夜中に喉が乾くだろうから」と言ってサイドテーブルにミネラルウォーターを置いてくれた。ぼくは「ありがとう」と短く言ってからお互いが背を向ける格好になって寝入っていた。
暫く沈黙が続いた。街の音が遠くから響く。それがかえって心を落ち着かせていた。
「サトル。起きてるか?」ユウイチが囁くかのように聞いてきた。
「うん。起きてる。」僕は、背中を向いたまま静かに応えた。やがてユウイチは、静かに語りかけるように話始めた。
「俺はなあ…10年前日本にまだ居るときに好きになった娘が1人居たんだ。その当時、自分で言うのもなんだけど結構モテていて、周りにガールフレンドは、何人も居たけど本気で好きになったのはその娘だけだったんだ。何度もチャンスは有ったのかも知れないけど、中々二人きりになれなくていつもグループ交際みたいになっていてさ、やっと有るとき二人だけになれたとき、俺としては真剣に思い切ってその娘に告白したんだ。そしたら、その娘は急に泣き出してさ。『貴方みたいなプレイボーイ、私は大っ嫌い!』って言われて、見事に振られてしまったんだ。俺としては、ショックが大きくて心に傷を負った感じでさ。それまで振られた経験も無かったし、それから俺は真剣に人を愛する事に臆病になってさ。反動もあってそれからは散々遊び始めた。それでも、誰と付き合っても何をしても心は満たされなくて、気分も晴れない。そんな自分に嫌気も差してやるせなくなってた時にハワイのサーフショップ行きの仕事紹介されて、思い切って日本を離れてこっちに来たんだ。そうすれば、自分の生き方も変わって未練な気持ちも断ち切れる、そう思ってさ。でも、ハワイに来てもその娘の事を忘れられなかったんだ。いくら他の女を抱いてもな。それから更に遊んで、仕事も一時期は手が付かなくなってクビになって。そのあと、何かに夢中になればいつかは忘れられると思ってやって来て、忘れたつもりでいたんだ。そして、いつの日か一人の娘を愛する事には臆病になって、その後、2度と愛することもしないつもりだった。でも、さっきサトルにあんなこと言われてガツンときた。急に思い出してしまったんだ。だからつい、むきになってしまった。」
僕は、その話を黙って聞いていた。この数日見てきたユウイチのイメージからは過去にそんな事が有ったとは思いもしなかった。暫くして僕が喋り始めた。
「僕こそ女性を本当に愛したことが有るのかなんて言ってご免なさい。僕こそ今の妻をちゃんと愛して結婚したのかなんて、さっきユウイチに言われて急に自信が無くなったんだ。彼女を女としてイカせるとか、満足させるとか、考えたことも無かった。」僕は、更に言葉を続けた。
「僕は、ユウイチを男として見習わなくてはいけない事が一杯あるんだと、今は思ってる。だって、ユウイチさん、あれだけの人から好かれている。仕事もバリバリちゃんとやってるし、ただ適当に遊んでちゃらんぽらんな生き方をしているとは思えない。凄い男だと思っている。」
僕がそう言うと、ユウイチは「そうか…」と、小声で応えた。また、暫く背中合わせの無言の時間が過ぎた。堰を切ったように僕が話しかけた。
「ユウイチ、まだ起きてる?」
「ああ。まだ寝れてないな。」
「僕ね、その10年前の女の子の気持ちが少し解るような気がする。本当はユウイチの事、好きで好きでたまらなかったんだよ。だから、ユウイチから告白されたとき、嬉しかったんだと。でも、同時に、ユウイチは、軽い遊びのつもりで誘っているのかもしれないとも思ったと。もし、自分がそんなユウイチを受け入れてしまえば、本気で惚れてしまって離れられなくなって苦しんでボロボロになるだろうと。逢えないときにそんな不安に支配され辛い思いをしなければいけないって。
かといって、もし本気で愛されたとしても、周りを取り巻くユウイチさんに思いを寄せる大勢の女の人の冷たい視線や、妬みの気持ちを一身で受けなければならない。そんな日々が続くのも辛い。どちらにしても安堵で幸福に過ごせる日々が訪れない蕀の道を歩いて行くことになる。そんな日々を過ごす事になるくらいなら、むしろ二人の間に少し距離は有っても長い間ずっとユウイチの事を見ていられる、そんな距離感の関係でいたいって考えたんだと僕は思う。本気で真剣に愛していたからこそ、交際を断ったんだと思うんだ。」
僕が長い話を言い終えると、少し間を置いてユウイチは、僕のほうを向くように体制を入れ替えたようだった。そして、こう言った。
「サトル、本当にそう思うのか?」
今度は力強い言葉で聞いてきた。僕はユウイチの方を向くように寝返りを打ち、ユウイチの顔を間近で見た。ユウイチの顔は鋭い視線で僕をにらめつけていて怖いくらいだった。僕はユウイチの目を真っ直ぐ見ながら答えた。
「僕がその娘の立場だったなら、きっとそう思う。」
声は押し殺したが、力強く言えたと思った。ユウイチは、視線を和らげて、潤のある瞳で僕の顔を見ながらこう言った。
「俺は…その娘にそれとそっくりの事を言われたんだ。」ユウイチはそう言うと、寝返りを打ち、再び僕に背を向けるように体制を入れ替えた。僕も静かに寝返りを打ち、ユウイチとは再び背中合わせになった。
僕が何故その時にそう思えたのか、自分でもよく解らない。だが、直感的にその娘の気持ちが僕の心に宿り、僕にそう言わせたのかもしれない。ユウイチは、本当は心が純粋で、ハートは硝子のように繊細で壊れやすい人なのだとその時からそう思えた。それをひたすら隠す為に普段遊び人として振舞っていて、その分無理をしていて苦しんでいる、寂しさを持ち合わせた人なのだとも。
ユウイチは、驚いていた。10年前、自分を避ける彼女から言われた言葉を再び聴いた。そして…彼女もビールが苦手で、梅酒なら、と。サトルも梅酒を飲んでいた。そういえば、あの時、カラカウア通りで何人もの日本人が行き交うなかで、何故、サトルだけが、妙に気にかかり、惹き付けられて浮き上がったように見えたんだろう。そしてサトルが放つ清潔感溢れるオーラと、そして周りに漂うあの香りが…あの娘とそっくりだと、今気が付いた。だからサトルが気にかかって仕方なかった。ずっとこいつと一緒に居たい。そう思わせてくれた。すべての事が直感的に繋がって目に見えない力に押し動かされていた。「もしかして、あの娘は、サトルに身を変じて遠くハワイにいる俺の所まで逢いに来てくれたのか?。それとも神がそうさせたのか?」
俺にはそうとしか思えなかった。俺は身を固くして、タオルケットをギュッと抱き締めた。
僕は酒を飲んだ所為もありそのまま意識は遠くなり眠りについていた。ユウイチのウォーターベッドは、心地よい温度と、寝心地良い感触そして、なんとも言えない独特の香りがしていて心は落ち着き、安らいでいた。大分時間が過ぎただろうか?真夜中、無意識に寝返りを打つと、ふとした感触に薄目を開けた。目の前にはユウイチの逞しい身体があり、しかも僕は裸で曝された分厚い胸に丁度甘えている形になっていた。分厚い胸は呼吸と共に上下に動いている。それは、自分が子供の頃並んで寝ていた父親のそれにそっくりだった。僕は急に懐かしさと憧憬が込み上げてきて目が覚めた。それでも、僕はそこから動けずにいた。というより、動きたく無かった。ユウイチの寝息が静かに聞こえる。ユウイチの息からは仄かなタバコの匂いと、汗と軽いムスクが混ざったような、野性的ではあるが決して嫌ではなく、むしろ気持ちよくも感じられる香りがしていた。
暫くはその香りに浸っていた。それでも、いつまでもその体制で居られるとも思えず、僕は再び反対側を向こうとした。身体を動かそうと、そっと身体を浮かせた当にその時、ユウイチは、僕の身体を巻き込むように自分の方へと引き込んだ。僕は丁度、腕枕で大きな胸に甘える形になっていた。ユウイチは、寝ぼけて僕を女性と間違えているのだろうか?腕枕をしている手で僕の髪の毛を優しく撫でていた。その、優しい指先は髪の毛を幾度かくるくると巻いて往復し、更に耳を触った。僕の心臓は脈打ちドキドキが止まらない。身体は硬直し、全く動けなくなった。恥ずかしさと緊張が交わり、大きな力に押し潰されそうな気分でもあり、また、太古の大地に包まれた安心感にも支配されているようでなんとも言い難い倒錯の世界に引き込まれていた。ユウイチは、更に僕の髪に唇を当ててきた。僕はどうしたら良いのか判らなくなっていた。きっと、ユウイチは、夢の中で本能的に隣に女性がいると思っているのだろう。その勘違いの世界に僕がいる。それでも、僕はずっとこのままで居たい。そう、心の奥で望んでいた。
ユウイチは、感じていた。隣に居るのはサトルだと、解ってはいた。それでも、サトルが放つ気品と清潔感あるこの香りが、堪らなく愛しかった。昔、どうしても手に入れたかったこの香りが、いま、自分の腕の中に居る。やはりお前が来てくれたのか?本当は強く抱きしめて、二度と離さないように捕まえておきたい衝動に駆られた。でも、それを必死に堪えていた。優しく髪を撫で、髪に口づけするのが精一杯だった。それ以上の事は…いや、出来ない。してはいけないんだ。ユウイチは、せめてこの体制のままずっとこうしていたいと思った。
二人は各々の想いの中で眠っているふりを演じ続けた。そこには神が使わした天使達が舞い降りてきているそんな幸福溢れる空気感だった。長い夜の時間が流れるなかで二人は安堵の極みの世界へと堕ちていった。




