「第6日」その2
ユウイチは、腕時計を見ながら「普段の3倍は時間かかったなあ。」と、息を切らしながら愚痴混じりな事を言ったが、僕は
「凄く楽しかった。」と答えた。
「馬鹿だなあ。ハナウマは、これからだろう!」というので、僕は
「そりゃそうだ!」と答えて笑ってしまった。
湾への入口には大きな門扉があり、その内側に僕たちは自転車を2台並べて置き、鍵を掛けた。荷物を背負って歩き出すと直ぐに湾を見下ろせるようになった。
「うわあ!綺麗だね」僕は海の深さが織り成す色彩のコントラストの美しさに思わず声をあげた。ハナウマ湾は火山の噴火口の跡らしく、外輪の稜線に囲まれた火口湖の様で、稜線の一部が欠落してそこから火口に海水が流込んでいる形状だ。その湾内は水深がとても浅く、エメラルドグリーンに輝き、沖合いのコバルトブルーの濃くて深い青と、黄色味がかったビーチの砂の色、湾内の海底の岩場の黒色とのバランスが美しい。その色を太陽の強い陽射しが更に強調し、所々をキラキラと輝かせる。僕にとってはもちろんのこと、ユウイチにとっても見慣れた場所の筈が、自転車で来たことでいつもと違う遠い別世界に来ているかの様だった。
二人は小高い丘の上から地底に吸い込まれる気分でビーチへの坂を下って行く。ビーチへはシャトルバスもあるが、歩いても10分程の距離なので歩いて行く事にした。ビーチに到着し、早速靴を脱いでビーチサンダルへと履き替えた。砂浜にシルバーのシートを拡げ、その上に荷物を置いてTシャツを脱いで上半身裸になる。短パンを脱ぎ捨て海パン姿になって海へと逸る気持ちを抑えてストレッチと準備体操を入念にした。
上半身裸のユウイチは、野生の獣の様な鋭い躯付きをしていた。全く贅肉や脂肪がなく、胸や腹筋の競り上がりは、自分の倍以上だ。
「やっぱり、鍛えた凄い躯してますね。」と、僕はつい声に出した。
「ハハ…、商売道具みたいなもんだからな。張ったりも必要だろ?俺みたいな仕事してれば。いかにもスポーツ出来そうって感じがするだろ?」
「て、言うか、凄すぎて。正にスポーツ万能って感じで…初めてこんな躯の人見たし。」
僕はそう言いながらビーチの周りに居る女性達の幾つかの視線がユウイチへと向けられている様子に気が付いた。そうか!。これだからユウイチが女性にモテるのも仕方ないというか、必然的なんだろうなと、僕は思っていた。
躯の準備が調った所で、ユウイチが二人の貴重品を小さなマリンポシェットにしまった。海に入っても中身は濡れないのだそうだ。そして二人でシュノーケリングの3点セットを持ち、いよいよ海へと入って行く。海水は本当に透き通っている。ワイキキのビーチとは比べ物にならない程だ。沖へと歩いて進むが、遠浅でなかなか水深は増えない。膝くらいの深さまで進むと、足元には体長20~30㎝はあるカラフルな熱帯魚達がうじゃうじゃとまとわり始めた。「うわぁ!、凄い。」と、思わず口走る。こんな海がハワイには有るのかと、改めて驚いていたが、ユウイチは平然と言った。
「毎日、観光客が来て餌付けしている様なものだからさ。本当は、餌をやるのは禁止されているんだけどな!」と、小声で言いながら、僕にパンの欠片を手渡した。
「ビーチパトロールが要るからもう少し沖に出てからだな」と、僕たちは大分沖まで進んで、水深が胸の高さになった所でマスクとシュノーケルを装着してパンをばら蒔いてみた。すると魚たちは数十匹の群れとなって辺りに集まって群がった。背が届くこんな浅瀬でこれだけの魚影は見たことがない。釣り好きな人だったらこのシーンは堪らないだろうなあと、不謹慎な想像をしてしまった。水中マスクで観る世界は、まるで水族館の水槽の中にいる気分だった。僕はスクーバでも何回となく潜った事はあったが、沖縄の慶良間でも、これ程濃い魚影は、観たことが無かった。僕は暫く水面に浮かんだまま、海中の非日常的な別世界を眺めていた。どれ程の時間が経ったのかも忘れていた。
「おーい!サトル…。」と呼ぶ声が聞こえて我に返り、海底に足を着けて顔を水面から離して起き上がった。大分離れた所にユウイチが立って手を振っている。かなり水流に流されて居たようだ。僕はマスクを顔から外した。
「余り離れんなよな。」ユウイチは海面に腰から上を出してそう僕に声を掛けていた。「うん!」と僕は返事をしてからユウイチの方へと移動していった。近くに寄ってからユウイチの姿をつくづく観た。ユウイチの体躯は水に濡れて更に真っ黒に見え、廻りに異彩を放っていた。輝く大きな瞳と白い歯だけがそこから浮かび上がって見えている。発達した胸筋と、くっきりと幾つにも割れた腹筋が精悍だ。その逞しい体躯を逆光の陰と水面のキラキラとした反射光が、演出している。まるでギリシャ神話に出てくるアポロンの如く神々しく見える。
「海が似合う男だな。」と、この時に男としての特別な意識が自分には芽生えていたのかも知れない。
30分程、海上にいた僕とユウイチは、ビーチへと戻った。波打ち際でフィンとマスクを外して砂浜へと上がる。間近で眼にしたユウイチの体躯は、やはり野性の魅力と独特のオーラを放っていた。
「ユウイチって海にいると、絵になるね。凄く存在が似合ってる。」
そう言うと、ユウイチはタオルケットで髪の毛を拭きながら、
「何百人もの女にそう言われてきたよ。」と、笑いながら言った。
「女が言うには、ベッドの中では、更に魅力的なんだとさ。」と僕に小声で言うので、もう僕は頷くしか無かった。
「サトルもシャープな良い身体してるな。絞まってるし贅肉無いしな、腹筋もくっきりしてるし、アスリートの様だよ。それに…近くに寄ると、すげー良い香りがする。清潔そうな。」
その言葉に僕は瞬時に顔を赤らめて、ドキッとした。
「ぼくは、陸上競技6年してたけど、大した筋トレとかは全くしてないよ。」と答えながらも、ユウイチにそう言われて嬉しかった。僕は、恥ずかしさもあって話題を変えようとした。
「ここは、奇跡的な凄い海ですね。」
「確かにな。でも、俺にとっては仕事で来るだけで、特別な意識はしなかったなあ。プライベートで来たのなんて記憶にねーな。…数年振りかな?」
そう。俺にとっては何回も来ている筈のこの海が、いつもと全く違って感じる。それは自分の気分の違いなのか、それともサトルの所為なのか。サトルが放つあの匂いは…。何処かで以前出逢った事がある懐かしいあの匂い。はっきりとは思い出せないもやもやが返って慣れ親しんだこの場所をこんなにも楽しく感じさせる。このビーチで自らを楽しむなんて今まで考えもしなかったなあとユウイチもいつもと違う何かを感じていた。
二人はそれから暫くの間、並んでサマーシートの上で横になった。僕は、暫くは目を瞑っていたが、程なくして薄目を開けて僅か50㎝隣にいるユウイチの野性的な体躯を見つめていた。ユウイチという男に強い意識を持ち始めていた。何故か気になってしょうがない。自分では掴みようがない正体の解らない複雑な気持ちの変化と妙に高まる胸の漠然とした高揚感に戸惑いを感じ始めていた。同時に側にユウイチがいることの安堵感からか、居心地の良さから再び僕は目を瞑り、深く寝入ってしまった
「そろそろ帰るか?」ユウイチの言葉で目が覚めた。「これ以上日射し浴びると火傷するぞ」その言葉で僕は飛び起きた。気がつけば、僕の身体は赤黒く、全身がヒリヒリとし始めていたいた。ハワイの日射しは日本と比べ物にならない程強い。大した時間では無かったが、想像以上に日焼けは進んでいた。
「今夜は熱くて寝れないかも知れないぞ」と、ユウイチが言うので、ぼくは、急いでサンバーンを鎮めるローションを全身に塗りつけた。その後、僕はTシャツを、ユウイチはタンクトップを着て、身仕度を整えて丘の上へと並んでゆっくりと歩いて上って行く。隣から聞こえてくるはあはあという息遣いが、心地好く感じられた。
丘を登りきり、自転車の置いてある場所に着くと、荷物を一旦置き鍵のチェーンを外した。それから自転車ウエアに着替えると、生地が肌に擦れてヒリヒリとした。サングラスをかけ直し、バッグを背負ってから、ヘルメットを装着。「帰りはゆっくり行こうな。」のユウイチの言葉に僕は頷いた。
帰り道は楽しくもあり、寂しくも感じた。ユウイチは時折僕に話しかけてくれ、僕もそれに応えた。少し横を向くと、ユウイチの先に平屋建ての住宅街が写る。僕は「まるで絵画のようだ」と感じながらその景色を堪能していた。静かに…自転車を走らせながら。まだ、夕方には程遠いが、山から吹き降りてくる風は爽やかで涼しくも感じられ、二人を優しく後ろから押してくれていた。僕はこのままずっと二人で走り続けていたいと思っていた。永遠なんて絶対に有り得ない事を知りながらも。
カピオラニパーク迄戻って来ると、ユウイチが、
「サトル、腹減ってないか?」と聞いてきた。僕は、
「もう、ペコペコです。」と答えるとユウイチは、「じゃあ、寄っていくか!」と言って、カピオラニパークの向かい側のホテルの前に自転車を止め、2階にあるオープンカフェの店に案内してくれた。僕は、ユウイチにご馳走したい気分だったので、
「ここの店は、僕がご馳走するので、好きなもの何でも頼んで下さい。」と言うと、ユウイチはニッコリと笑いながら、
「じゃあ、ご馳走になるかあ。ステーキ10人前!」と言うので、
「マジですか?」と、僕は、醒めた視線で聞き返した。
「冗談だよ。」とユウイチは、笑ってから、
「そうだ。サトル、ビールでも飲むかあ?」と言うので、僕は、
「でもユウイチさんこの後、車の運転有るでしょう?」と言ってから、
「それに、実は僕、ビール苦手なんですよ。普段、梅酒位しか飲めないんです。」と、言い返すと、ユウイチは、急に真面目な顔をして、
「梅酒ねえ…。」と小さく呟いた。その言葉の意味することを僕は、この時何も判らなかったのだが。
「まあ、一杯位なら直ぐに醒めるだろう。」と言うので、僕もたまには付き合おうと、ハンバーグステーキと、ライム付きのコロナを注文した。
暫くして料理は運ばれてきた。僕たちは、乾杯をした後、この日の他愛ない出来事の話で盛り上がりながら、食事を進めた。
食事の途中、ユウイチが、
「サトルは後、何日位ハワイに居るんだ?」と訪ねるので、
「実質は明後日迄ですね。帰国の日は、朝食食べて直ぐにもう空港に向かわなければいけないので。あっという間に過ぎちゃうんですね。ハワイの時間は。」僕は、少し寂しい気分で答えた。
すると、ユウイチは、
「明日は、サトルは何してんだ?」と聞くので、
「明日は午前中のんびりとして、昼飯は、仕事の関係者と食べる約束があるけれど他には特に無いよ。」と答えると空かさずユウイチが、
「サトル、明日サーフィンしに行かないか?」と言うので、
「僕、サーフィンなんてやったことがないですよ」と答えた。
「大丈夫だ。今日のお礼に俺が教えてやるよ。サトルは運動神経良さそうだからな。直ぐに乗れるだろう。せっかくハワイへ来たんだからハワイらしい思い出残していった方が良いだろ?」
「そうですかあ。?」と、僕が余り乗り気でない雰囲気を醸し出すと、「じゃ、明日夕方前に。3時過ぎ位からやろう!。その後、ダウンタウンへ繰り出そうか。良い店連れていってやるから。」
と、余りにも情熱的に半ば強引に誘うので、僕は「はい」と答えてしまった。すると、ユウイチは、ニヤリとして小声で「しめしめ!」と言ったような気がした。その不安や言葉の意味するものは翌日判ることになるのだが…。
「じゃあ、3時にホテルの部屋に電話入れるからさ。楽しみに待っていてな。」そう言われて僕は何だか嬉しくも思ったが何故、ユウイチが僕のことをそこまで構ってくれるのか不思議にも感じていた。
「でもさ、ユウイチは仕事とかデートとかの予定は大丈夫なんですか?」と尋ねると、
「まあな。今夜も誘いあるから、とりあえず女に逢いに行くけどさ。でもサトルとはあと僅かな時間しか無いからな。それに、女は何時でも抱けるしな。」
「ところで、サトルは女はいいのか?」と言うので
「だからさ、僕は要らないんだって。そういうのは。」と、答えるしかなかった。
「そうか。よっぽど嫁さんの事愛してんだなあ。判ったよ。もう言わねーから。今夜の相手はまだ手をつけてないから、サトルにどうかとも思ってたんだ。」
僕はユウイチが、余りにもあっけらかんとしてそんなことを言うことに、男として羨ましくも思ったが、同時に何か心の中にモヤモヤしたものが湧いて出てくる複雑さも覚えていた。また、ユウイチがあの逞しい身体で女性を組み敷いているシーンを頭に思い描いてしまう、そんな卑猥な想像をする自分に嫌悪を覚えていた。
食事を終えて店を出た二人は、自転車に跨がりゆっくりとユウイチの車を停めてあるパーキング迄走った。あっという間に到着し、自転車を簡単に掃除してから車に積み込んで、荷物を整えた。
「車の運転、大丈夫ですか?」と僕は少し心配して尋ねた。
「全く問題は無い!」とユウイチは笑って言った。
「今日は本当にありがとう。こんな楽しい休日は、何年振りかでした。」と、僕が言うと、
「どうって事はない。明日はもっと楽しませてやる。任せとけ!」と言って胸を叩いたあと、ニタリと笑って車を発進させ帰っていった。
僕は部屋へと戻り、水のシャワーを浴びて身体の火照りを鎮めた。冷たさが気持ちいい。タオルで全身を良く拭いた後、全身にヒーリングローションを丁寧に塗り伸ばした。短パンを履き、上半身裸のままでラナイへと出て久し振りに外を見てみた。ハワイの海に陽が沈んで行く。ハワイに来てから覚えた「ホ、オポノポノ」という習慣。沈み行く太陽に向かってその日の出来事での嫌な事、悪い感情を全て収めて祈り、気持ちをリフレッシュして、新たな明日を迎えるという考え方だ。僕は今日という1日を夕陽に感謝していた。ハワイの地で不思議な男に出会った事。僅か数日でその男の存在が自分の心の中で大きくなった事。そして、生涯忘れられない位楽しい時間を一緒に過ごせたことに…感謝した。
その夜、ユウイチがベッドの上で女性を抱いている夢を見た。ユウイチの逞しい身体に組み敷かれた女性の姿は乱れているが、その顔の表情は全く見えない。女がどうなっていくのか、はしたない想像ではあるが、どうしようもなく気になってしまう。真夜中目を覚ました僕は、身体も、気持ちも火照っていた。再び僕はヒーリングローションを手に取り、全身に塗ってから窓を少し大きく開けた。部屋をハワイの乾いた涼しい風が通り抜けて、僕を癒してくれた。その優しい空気に包まれて、僕の心にあったモヤモヤは少しずつ治まり、昼間の疲れと、久し振りに飲んだ事もあってか、やっと僕を深い眠りへと導いてくれていた。
次の日に、二人の間に微妙な出来事が置き、展開が拡がります。




