ひとつのカサに
電気の紐を二回引いてナツメ球のオレンジ色だけを残し、耳を澄ます。雨の夜は水槽の底にいるような、そういう気持ちになる。
雨が嫌いだった。
カーテンを開ける前からわかる朝の湿った空気。いつも濡れてしまうズボンの裾。ぎゅうぎゅうに膨らんだ傘立て。水溜まりに両足で飛び込む子供の長靴。遠くの空に架け渡された虹と、ケータイのカメラを向けて立ち止まる人。
電線から不意に落ちてくる置き土産の粒ひとつさえも癪で、けれど、どれだけ悪態をついたところで何もかもイチミリだって変わらなくて、とてつもなく強大で茫漠としたものの齎す一々に気が立っている自分が酷く惨めだった。
泥に塗れた心を吐き捨てるための適切な言葉は雨に滲んで見つからなくて。八つ当たりの舌打ちにはあぶくが不揃いに砕けるような濁った音しか与えられなくて。
小学生の時、高校生たちの浮かべたビニールボートの下から抜け出せなくなって、水中で必死に空気を吸おうとしてたらふく飲み込んだプールの水の塩素臭さが思い出され、鼻の奥がつんと痛んだ。
雨が嫌いだった。
でも、内に秘めた艶を芳潤に放つ蒸した五月の新緑みたいに雨の日の彼女は眩く見えて、時々、網膜に焼き付いたみたいに目を離せなくなる。
「雨は好き。なんだかわからないけど、好きなの」
傘の露先の滴を人差し指ですくって彼女は呟き、次に、こちらを少し見た。柄を握る手に思わず力が入り、傘を彼女のほうにもっと寄せた。
雨が好きになって、彼女のことはもっと好きになった。
陽の下で彼女は一回り小さく見えた。灼けたアスファルトの熱や、トラックのコンテナに反射した光に圧されて彼女の存在は今にも掻き消されてしまいそうで、彼女の日傘だけが残されていると堪らなく不安になった。
雨のいいところを彼女はたくさん知っていた。蜘蛛の巣の捕まえた雨の粒が格別綺麗に光ることだとか、向こうの街で降る雨の音の柔らかさだとか。そういうことを、まるで世界の秘密みたいに彼女は教えてくれて、雨の思い出はひとつの傘で過ごした幸せな時間で一杯になった。
だから、雨は嫌いだ。
不幸のどん底で幸福だった時代を
思い出すことほどの哀しみはない。
――ダンテ