父の日・上 (裁きの庭)
気色悪い。
エメリーはねっとりした視線を睨み上げ、心の底で吐き捨てた。
「君があのローシェンナ君のお気に入りなんだ」
垂れ気味の目つきをさらにだらしなく下げ、法廷弁護士のブローチをつけた男。若い身なりだが余裕のある雰囲気をまとっており、見るからにベテランと分かる。見習いを卒業し、法廷弁護士となってまだ数日のエメリーにとっては、誰であれベテランだが。
司法試験を独学で合格して2年。もし学院を出て受かっていれば、最低でも23歳になっているはず。
しかし通るべき道を進まなかったエメリーは現在、16歳を迎えたばかり。前代未聞の年齢だ。おかげで弁護連盟に入ってからずっと異様な目つきで見られ、たまに強い風当たりを受ける。目下もやはり、あからさまな悪意に捕まえられていた。
「ローシェンナ君にこんな趣味があるなんてね。それともたぶらかしたのかな?」
「私、やることがあるんですけど、どいていただけます?」
「やることって? この廊下、ずっとまっすぐ行けばローシェンナ君の部屋に着くけど。ついてってもいい?」
「どいていただけますか?」
とにかく離れてほしい。
エメリーが強引にすり抜けようとしたところ、すかさず男が回り込む。広い図体に行く手を阻まれ、エメリーは苛立った。
「ねえ。教えてよ」
「知りません!」
ついきつく切り捨て、ハッと口をつぐむ。
まずい。あんまり反抗すると彼にまで飛び火してしまう。2年間、文句も言わず彼女を見守ってくれた彼に。
言葉は男の耳に入ったきり戻らない。呆けたようにエメリーを見つめていた男は、次いでニヤニヤし出した。
「意外と気が強いんだね」
「…………」
全身が総毛立った。どうして自分はこういう人間にいちいち絡まれるのだろう。
後ずさり、胸元に持つ包みをぎゅっと抱き締める。
「さっきから気になってんだけど、その包み、何なの?」
「別になんでもいいです」
「ふーん。じゃあ見せてもらってもいい?」
伸ばされた指にゾッとした。反射的に払うも、逆に手首を掴み返された。男は愉快げに彼女を見下す。
気色悪い。そんなに笑うならナツメグを食べさせてやりたい。笑いが止まらなくなって疲れてしまえばいいんだ。
エメリーはキッと目遣いを強めた。
力と身長では圧倒的に劣るなら、得意分野で見返してやる。
「暴行ですよ」
「そっちがまず叩こうとしたのに?」
「正当防衛です」
「まだ何もしてないんだけど」
「見せたくないのに無理やり見ようとした時点で強要罪に抵触しますよね」
人の抵抗を押さえつけて義務のないことを行わせようなど、弁護士のやることか。
痛いところを年下の、しかも新入りの法廷弁護士に突かれ、男は舌を弾いた。
「偉そうに知識ひけらかしやがって」
「だってそうじゃないですか」
「お前むかつく」
エメリーが反論すれば、男が憎々しげに悪たれる。
「じゃあ聞くけど、お前がそーゆーの訴えたところで誰が聞いてくれるわけ? 先輩? ローシェンナに頼るっての?」
手首を握る力が増す。痛みが走り、エメリーは唇を噛んだ。折れそうな、ヒビを入れられそうな酷い激痛に涙がにじむ。
素早くまぶたを閉じてそれを隠し、ごまかす。
包みに片手を塞がれているエメリーはもう抗えない。
痛みに耐え、震える唇。せめてこれ以上ナメられぬよう踏ん張っていたのに。
限界だ――――。
「おーっと手が滑った」
間抜けた声が響いた途端、エメリーの視界が反転した。引っ張られた腕が身体を巻き込んで、ぽすんと何かに収まる。
トクトクと凪いだ鼓動を伝えるぬくもり。少し硬めでしっかりした質感。エメリーは、筋骨たくましい胸板に頭を押し当てられていた。
かすかに匂う煙の余韻。これはきっと、間違いなく。
その人物のシャツにうずもれた顔を起こし、エメリーはきょろりと周りを見回す。
背丈の高い人影がエメリーたちの間を隔てている。
やっぱり彼だ。
「ロ、ローシェンナ君」
上ずり、動揺を隠しきれない男。フランソワはふざけた調子を崩さず、真剣な目つきで男を射抜いた。
「すみませんねぇ。ちょいと手が滑りまして。たまたまこいつがいたんで掴まさせてもらったんです。…………うちの子に何か?」
極めつけに、睨みを一発。素材自体のすごみに加え、迫力がこもっている。
そんな直視をまともに食らった男は、顔色を強張らせ、ふらついた。
「いや、なんでもない。なんでもなかったんだよ。じゃ、じゃあボクは、これで」
さっきの威勢はどこへやら。急に声が高くなった男。いきなりフランソワが登場したこともさることながら、完全に気をくじかれている。
男は彼から目を逸らし、そそくさ走り去った。
長く、人通りのない廊下に残された2人。エメリーは自分を守るように立っている先輩を仰いだ。
「先輩」
「っぶねぇな。たく……」
フランソワはエメリーを引き剥がした。胸元のポケットをがさごそ探り、レースの縁取りがなされたハンカチを押しつける。
「拭け」
「ありがとうございます」
もったいないと惜しみつつ、言葉に甘える。
エメリーが紅く腫れた手首をゴシゴシ拭いていると、フランソワが言いにくそうに頬を掻いた。
「あー。そうじゃなかったんだが」
「はい?」
身を屈め、フランソワはそっと指先を近づける。
「涙。出てる」
言いながら彼女の目尻を掠め、「ほらよ」とわずかに濡れた親指を示す。
不思議と、さっきみたいな不快感はなかった。
「怖かったか?」
「掴まれて痛かったんです。だから」
アザの浮き出た左手を振る。なまじ肌が白い分、余計痛々しい。
フランソワが顔を背け、奥歯をギシリと噛んだ。灰みがかった薄い虹彩が、深い憎悪を呈す。
「んのクズ…………潰す」
くぐもった低い声音は聞き違いだと信じたい。
フランソワは戦慄した彼女と改めて向き直る。
「あんま1人になるな。うちはただでさえ華が足りないんだ。嫌でもお前みたいな若い子は目立つ」
「でもお仕事ですし」
「嫌な目に遭ってまでする必要はない」
ピシャリと切り捨てられた。
「だいたいな。せっかく一人前になったのになんで先輩の仕事をまだ手伝ってんだよ。『法廷弁護士』の肩書きがもったいないじゃねーか」
「私への依頼はまだ来ませんから」
「これから来んの。今はまだ日が浅いから、表立ってないだけだ。先輩の仕事を横取りして小遣い稼ぎしやがって」
「いつもしてなかったじゃないですか」
うるせー。お前が寝たあとにやってたんだよ。不機嫌を装ってうそぶき、そっぽを向く彼。子供っぽい仕草が幼く見せる。
エメリーは緩みそうな頬を引き締めた。フランソワの面持ちがまた真剣になったからだ。
「何かあったら相談しろ。なんとかしてやらあ」
「そこまでしてもらわなくても………」
これまでも何かと厄介事に巻き込まれ、その都度彼に助けてもらったのだ。周りに一人前と認められ、経歴はないが見習いを取れる身分になった暁には、己の身の回りくらい1人で片付けないと。
だけど彼はそう考えていなかった。
「女の子にとっては怖いんだろ? ああいうの」
鳶色の頭に手を乗せ、悪びれなく口にする。
「差別するつもりはねーけど、男と女で差もあるじゃねぇか。真剣に怖い時って動けねぇモンだし」
「……………優しいですね」
「先輩は法廷弁護士だぞ。後輩1人の権利ぐらい護れなくてどーすんだ」
柔らかい髪をくしゃくしゃ掻き撫で、彼女を困らせてやる。
「先輩の仕事はあいつの始末だな。バトラーだっけ。前々から鬱陶しかったんだよな」
「本当に大丈夫ですから、あの、」
「安心しな。先輩は上の連中に可愛がられてるから」
フランソワはこれでも依頼が殺到する売れっ子の法廷弁護士だそうで、弁護連盟では有数の金ヅルと化している。
「あいつ、上に媚びへつらっててイケ好かなかったんだよ。叩いたらホコリしか出ないタイプだから、ちょっと調べたらすぐ落とせるぞ」
さすが金ヅルは、面倒屋の割に能力が高かった。
「嫌なら、ほっとくが」
さして価値のない経験と地位を振りかざして威張りくさって、吐き気がする。新米にも手を出して…………こればかりは見逃せない。
だからといって、もし悪巧みを決行すれば、あの男はエメリーを逆恨みするに違いない。仕事の押しつけがい………………フランソワの大事な後輩をことさら危険にさらすつもりは、毛頭ない。一応、彼女が被害者なのだから。
エメリーは握った拳の親指を下にし、首を切る真似をした。
案外負けず嫌いだったりする彼女は、たとえ相手が上司でも平気で盾突く。重度の巻きタバコ依存症だったフランソワを、あの手この手で禁煙へ追いやったくらいである。まあ、彼女の面前に限られるが。
「お願いします」
フランソワがニッと口の端を引き上げた。
「そうこなきゃな」
フラン兄貴は本気で怒ってたり苛立ってたりする時はエメリーを『うちの子』発言します。