とある物語の冒頭 (『貴方とカノンを踊るため』)
カッとなって載せた。爆弾を投下したと自覚している。
鋭い銀の尖端が白い布を突き上げ、破く。小さな穴を抜いた針は、その先にあった薄い皮膚をも刺した。
「いたっ!」
突然の痛みにニノンは悲鳴を上げ、縫いかけのハンカチを膝に取り落とす。
小さく脈打つ指先には、真新しい血がぷっくりと浮き出ていた。
「またやったのかい、ニノンさん」
高い声に驚いた女たちが、一斉に振り向く。
彼女たちの輪で最も年かさの女が、呆れ気味に息を吐いた。
「今日で何回目だい。人差し指が血だらけじゃないか」
「ごめんなさい……」
苦笑に近い小言をもらい、うなだれる娘。
「慣れないことはしない方がいいよ。アタシがやってあげるよ」
「それじゃ意味ないのよ」
むすっとむくれ、ニノンは言うことを聞かない針を睨む。
「そうだねぇ。なんせ愛しの旦那の、」
「デボラさん!」
甲高い怒りを噴出しかけた直後、声がした。ここに集まる女たちのものではない。もっと耳に心地良く馴染む、低くて温かみのこもった。
「ニノン」
決して大きくはなかったのに、女たちの口も閉じられていて。
その音につられ、立ち上がったニノンは東屋の端を目指す。
村の東屋は石造りの段上に設けられており、少々高い位置から見下ろせる。
東屋と地上を結ぶ石階段の数歩手前では、何者かが様子をうかがっていた。
陽光を背に掲げた人物は、まばゆくて見えづらい。だが確認せずともニノンは認識した。
縫い終わらぬハンカチをひさしに、彼女は目を凝らす。
「……アード」
暗い褐色の、肩にくるりと零れる髪。風に扇がれ、巻き気味の絹糸みたいな毛先が揺れる。
彼は微笑んでいた。くいと上げた目線にはニノンのみ。
いつの間やら女たちも群がっていた。突如現れた青年を一目見ようと場所を取り合う。
「あっ!」
「アーデントさん……」
女たちのカサついた頬に赤みが灯る。
彼女らの秋波などには脇目も振らず、青年は腰に佩いた剣の柄を軽く押さえ、短い石階段を上がる。
田舎者の目でも明らかに上質な純白のシャツ。ゆったりした袖幅が引き締まった腕を透かす。
すらりと伸びやかな脚に添う脚衣。痩身ながらも、均整の取れた体格は背丈が高い。鍛え抜かれてはいるものの粗野な感じはせず、農作業の賜物ではなさそうだ。
女たちがそそくさと空けた道を抜け、彼は自分よりずっと小柄なニノンと目線を合わせる。
「アード」
「調子良くやっているか?」
同じく、農婦というには浮世離れした面差しのニノンに触れ、彼女の前髪を掻き上げた。
この男女、実は若い夫婦なのだ。半月前、まだ雪の溶けやらぬ村に移り住んだ、よそ者の。
彼らが村長の許へ挨拶に伺った時、村人たちは驚いたものだ。なにせどちらも、呼吸を忘れさせる器量だったのだから。へんぴな地方には不釣り合いな娘と青年が住まうと聞き、信じられず好奇の目でつけ回したのは仕方がないことと言えよう。
初めこそ温度差のあった関係はもう、混ざり合ってしまっている。今や村人と夫婦は気安い仲になっていた。
ニノンにいたっては村の女たちの話しぶりを真似、男っぽく振る舞う始末である。
「人のことより自分のことをやりなさいよ。また仕事抜け出して」
元々の性格が姉貴肌らしい彼女は、子供をたしなめる口調で夫に小言を垂れる。
「俺の受け持ちは終わった。岩を運ぶくらい何の造作もない」
そういえば家を出る時に羽織っていたはずの上着がない。おそらく脱いだのだろう。現に、彼は襟を緩めて冷気を取り入れていた。
気が抜けたように彼は組んだ両手を頭上高く伸び上げ、背を反らす。はだけた胸元に覗く筋骨が扇情的だ。狙ってはいないのだろうが、女たちは当然、釘づけである。
「ニノンたちこそ、なぜこんな外で? 寒いのに」
彼の関心を得ようと、女たちが率先して答える。
「味気ない部屋でやるよりかは、外の景色を見ながら作業した方が良い気分転換になると思ってね。花も咲いてきたし」
「ニノンさん、お花好きだったもんね」
「なるほど……」
違う。
花が好きなのは本当だ。だけどそのために外で作業をしているわけじゃない。彼女たちがニノンのところへ押しかけ、連れ出したのだ。お目当ては言わずもがな。
「確かに見頃だな」
女たちの思惑は知っていても無視を決め、アーデントは東屋の周りをぐるりと一望する。とりどりの植物が花びらをしならせ、自らの華やぎを競い合っていた。
蕾のものも多くある。きっと季節が春めいてくれば、一段と盛りが増すのだろう。
「でしょ? 村の名物だよ」
誇らしげに胸を張る女たち。
あからさまに色目を使う女たちと、彼女らの話に耳を傾けるアーデント。彼がいると、ニノンは蚊帳の外だ。
ぼうっと見ていてもつまらないので、ニノンは膝元のハンカチを取る。
彼らに構わず再開しようと動かした手の首を、長い指が掴んだ。見た感じは女も羨むしなやかさだけど、感触は骨張っている。
「こらニノン。あんまりじゃないのか?」
夫を無視するとは、なんて。
にやりと唇の片端をつった夫が煩わしく、冷たく押しのける。
「あたしにはやることがあるの」
「やることって……この歪な刺繍か?」
「なっ!?」
言わせておけば。なんたる言い草か。
わなわな痙攣するニノンを放置し、アーデントは彼女の指先を弱く握る。
「かじかんでいるせいか?」
伏見がちにこちらを窺う薄紫は、まつ毛の影で濃くなっている。
「かわいそうに……こんなに冷えて」
内に流れる血が透け見えそうなほど、真っ白な肌。ほっそりした腕。滑らかな手は青年に包まれ、じんわりとぬくもりが浸透する。
自分の手がこんなにも凍えていたことを、ニノンは初めて知った。
けれど、その程度で弱音は吐いていられない。他の女性たちだって、寒いのを我慢して作業しているのだ。
「みんな同じよ。あたしだけじゃないわ」
だからあっち行って。
ニノンは肩を押す。若々しさあふれる肉体はビクともしない。
逆にその手を青年に奪われ、ついでにもう片方も彼の口元まで運ばれた。
「アード!」
咎めてもどこ吹く風。彼は彼女の掌に息を吹きかけた。
温かさを取り戻した細い手を揉みほぐし、包む。
「血が出てるな」
真っ白な指先に開く紅を険しく見咎め、ニノンを問いただす。ニノンは目を泳がせた。
「そ、それは……」
「針で刺しちゃったからだよねぇ。かじかんだ手でやっちゃダメだろ、ニノンさん。旦那さんのために早く仕上げたいからってさ」
秘密だと約束したのに。デボラがやすやすと明かした。裏切りだ。
「デボラさん……っ!」
「危なっかしいんだよ、あんた。旦那にも気をつけてもらわないと」
デボラは色気づいたように片目をつぶる。アーデントを意識したまま。
この村の女たちはみんな、彼の味方だ。夫婦なのにどうしてこうも力の差があるのか。不公平だ。
「消毒した方がいいな。包帯も」
「そんなの大げさよ! いらないわ」
しつこく手に絡みつく指を払い、椅子の後ろに庇う。
「せっかく作ったハンカチにシミをつけたら勿体無いだろ。ただでさえ不器用なのに」
「あ……あんたね!」
「アーデントさん、よくご存知で!」
わいわい甲高い声が煽る。ほとんどお祭り騒ぎだ。ニノンは辟易する。
「平気よ。これくらい。すぐ固まるわ」
といいつつも、始めにやらかした怪我以外はほとんど固まっていないが。
彼女の左手を握り締め、何を思ったかアーデントは。
「俺が平気じゃない」
こともあろうに。
「…………ッ!?」
ぱくりと彼女の人差し指を咥えたのだ。野次馬の悲鳴が響く。
ざらりと生ぬるい触感が極小の痕を這うごと、なんとも言いがたい刺激が波立つ。
「っ、ちょっと!」
彼の人目憚らぬ行為にニノンは絶句した。腕を引っ込めようとしても、男の力に掴まれては敵わない。
「ひ……あ、あああアードッ」
どうすればいいか分からず、なされるままニノンは静止する。
「舐めたら止まるだろう? 俺も怪我した時はそうした」
そういう問題じゃない。
事もなげに言ってのける彼が信じられない。
固まったニノンの、透け感のある髪を一撫でし、アーデントは踵を返す。
「気をつけるんだよ、ニノン」
彼の影が階段の下に消え、遠くなってゆくと、呪縛の解けた女たちは騒ぎ立て始めた。
「あらまぁ…………若いって良いわねえ」
「人前ってのがね。あてられちゃうっ」
「アタシもあんなことされてみたいわ!」
「アンタがされるなら、わたしゃとっくにされてるよ!」
壊れた操り人形みたいで滑稽だ。
「…………羨ましいねぇ。あんな優しい旦那さんがいて」
どこが? とニノンは眉をひそめる。人をからかうことが趣味な奴の、どこが。
「うちの亭主なんかアタシが冷えてても何もしないんだから! 自分は太ってるから寒くないんだろうけど、火ぐらい焚けっての!」
「そんなことしてもらわなくても、アーデントさんみたいに手を温めてもらったらどうだい?」
「血が出たら舐めさせるんだよ」
「やめとくれよ気色悪い! 想像しちまったじゃないか!」
青ざめて自らの腕をさする女。本気で嫌がっているらしい。彼女の旦那が哀れだ。
「ああいうのは、見た目も綺麗な人がするから映えるんだろうねぇ」
「される側も美人でなきゃ」
と、もの欲しそうにニノンに見入る奥方たち。ニノンは居心地が悪くなった。
良くも悪くも、アーデントとニノンは見栄えが華々しい。黙っていても目立つ。とりわけニノンはこうして女たちに囲まれると、必ず話題のタネになるのだ。そこへアーデントが介入するとなお厄介である。
「される側は迷惑よ」
ニノンはうんざりとばかりに首を振る。指通りの良さそうな亜麻色の髪がふんわりと波打った。
年頃になるにつれてほっそりし出した輪郭、曲線を描いた肢体。繊細な目鼻立ちはまっさらな肌にいっそう引き立ち、彼女と馴染みの人間でさえ息を呑むのだ。とはいえ派手ではなく、むしろ慎み深い華やぎを感じさせるので、こうしていると地上に舞い降りた天使か妖精かと見違えてしまうだろう。
うつむき加減の横顔。淡く赤らんだ頬。雪の肌とあいまってニノンを溶かしそうだ。彼女の無自覚なあだっぽさに女たちが微笑む。
「そうかい? 満更でもないんじゃないの?」
「そんなはずないでしょ!」
熱を湛え、濡れた若葉色の双眸が艶めく。恥ずかしさのあまりか、血色の良い唇が妖しい火照りを湿らせている。
こんな面持ちで否定しても説得力がない。ますます女たちは面白がった。いじり回し、ニノンが怒る。
寒々としていた風を、なぜか涼しく感じた。
村の集落と離れた、小高い丘に立つ小屋。こじんまりとした住まいが2人の住処だ。ここに住まわせてほしいと村長に頼んだ折、ちょうど空いていたあばら家を改装して使わせてもらっている。
「さすがにやりすぎだと思うの」
1日の疲れを洗い流した身体を、寝間着に通す彼。程良くたくましい腹筋を見るにつけ、ニノンは気まずくなる。
「何が?」
「仕事場を放り出してちょくちょく様子見に来たり、手を出してきたり。あんたはただでさえ目立つのよ。やりにくいったら」
敵意ある愚痴にボタンを留める手を止め、アーデントがこちらを向く。
真っ暗闇に一閃を投げる月光が、精悍な容貌を照らす。
アーデントは形の良い口の端を歪め、音なくニノンの背後に回り込んだ。
「へえ。じゃあ気をつけるか」
「ちょっと! 聞いてるの?」
「だから気をつけるって言ってるだろ」
まったく意に介さない様子で、ニノンの肩に腕を回すアーデント。後ろから引き寄せ、近づいた耳に低く警告を落とした。
「誰か聞き耳を立ててる。あまり騒ぐな」
肩回りを抱く腕に手をかけ、ニノンは頭を後ろへ反らす。こちらを見下ろす薄紫と出会った。
「…………どうして分かるの?」
つられてニノンも声を潜める。
「俺がこれまで、どこにいたと思っている」
くすくすと漏れる笑いが、ニノンの前髪を掠める。
「ついこの間までもっと上手く気配を殺せる連中と相手をしていた。ここの人たちはそれに比べると、ド素人だ」
このお粗末さでは、悪党など到底演じられない。
「懲りずに新婚夫婦の生活を盗み見するとは、とんだクズだな」
毒づき、再び普段の声量に戻す。話題も元のニノンの発言に引き返した。
「お前が心配なんだ。その上今日のあの様子を見せられると……目を離したくても離せない」
「あれは関係ないでしょ!」
腕の檻を抜け出そうともがくも、微動だにしない。
「とにかく、お前はそそっかしいんだ。そのへんの馬の骨に騙されそうだし、できるだけ監視しておかないと」
「監視ってね……あたしが悪いことしてるみたいじゃない」
「夫がいながら無防備なのは充分『悪いこと』だろう」
いつまで夫気取りでいるつもりなのだ。ニノンは飽き飽きした。
「考えすぎよ」
首元に付された手の甲をパシッとはたき、キッと眦を強くする。
「いい人たちじゃないの。あんたも、嫌がらせされてるわけじゃないんでしょ?」
「確かに。その日を愉快に過ごせたら幸せな人たちだ。俺たちを楽しませてくれる」
「ほらね。だったらいいじゃないの。構わないでよ」
アーデントは彼女の髪を撫で上げた。柔らかな亜麻色に覆われたこめかみへ、そっと唇を押し当てる。
潤んだ熱い視線を注ぎ、思わせぶりに誘う。
「これだけ可愛い妻なんだ。横取りされないか、心配するのは当たり前だろう?」
張り上げずともよく通る、澄み渡った声で。
音にも甘さが香るほど、ひどく悩ましく、たぎる激しさを抑えつけた睦言だ。ニノンの頬がかあ……っと熱く腫れ上がる。
アーデントは濃厚な空気を消し、窓辺を振り返った。
「………………行ったな。ここまで中てられたら、もう来たくなくなるだろう」
「…………」
「姉上?」
アーデントの腕の中。薄い割に締まった胸にぐったりもたれ、ニノンは嘆息した。
「あの人たちもだけどね。…………弟にこんなことされるあたしの身にもなってよ」
上目で睨み、恨み言を唱える。
アーデントは爽やかな顔で聞き流している。




