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濁りのない湖水に血の色を浮かべて

作者:






 王家の最たる男子は戴冠の儀にて、授かりものを賜るだろう。もし、それが生きとし生けるものであたったなら、庇護する道を与えよう。贈られた王は盾となり脚となり、尊き生命を護らねばならない。


 王家に伝わる格例に最期まで守り、篤実であった国王が崩御してから一月と経っていなかった。

「よろしかったのですか」

 ふいにかけられた声に、花を愛でていた女が小さく瞬きをする。愛でるといっても、女は花弁へと触れていたわけではない。窓際に置かれた長椅子へと凭れかかり、闇を思わせる黒の瞳を庭へと向けていただけだ。その眼差しは色合いに連なるように昏く、どこか遠くを見つめているように周りには思わせる。

 女には、天の下へ出向く自由がなかった。この部屋から出ることは疎か、建物内でさえも許可なく出歩くことを禁じられている。目の先に咲く鮮やかな花にさえ届かない指を女は丸め、膝に抱いた生き物を優しい手つきで撫でるだけ。アッマルと呼ばれる種族のそれは愛らしい見た目に反して、気性が荒いことで有名だ。主人と認めた者以外には、容赦なく牙を剥く。女が可愛がるそれもまたアッマルの本能から、主人の傍へと姿を現した者に気付くなり勢いよく起き上がると、男へと向かって唸りだした。

「あの、御方様……アッマルを宥めてくださいませ」

 御方様――――そう呼ばれた女は小首を傾げて隣を仰ぎ見た。先程まで確かにひとりであったのに、いつの間にか横に長身の影が伸びている。ムクィストだ。王家の忠実な僕。影と呼ばれる彼ら一族の長であるムクィストに請われるまま、女はアッマルの名を呼んで宥めた。ムクィストに威嚇を向けるその背を撫で、膝の上から抱き上げる。窓の淵へと移動させると、途端にアッマルが甘えた声を出し始めた。その要領の良さに女は小さく笑って、伸ばした指を外へと向ける。

「いいよ」

 散歩の許可を得たアッマルが高らかに鳴き駆け出す。アッマルは人に飼われる獣だが、自由を与えられるべき存在だ。籠の鳥である自分と違い、好きにあの庭の先へと行ける。

「ありがとうございます」

 音もなくその場へと膝をついた男を一度ちらりと見ただけで、女は直ぐに庭へと視線を戻した。

「ムクィスト」

「はい」

「さっきの、なにですか? ええと、よろしかったのか、と。ムクィスト、わたしにききました」

 女の言葉は、年齢にそぐわない。それこそ幼子が無理をして丁寧に話すよう心掛けているかのように拙いもの。そうだというのに相手に気にした素振りを見えないのは、女がこの国の生まれではないと知っているからだ。それはムクィストに限ったことではなく、この国に住むすべての民が知っている真実である。しかし、それにもまた疑問が生じる。女がこの国に訪れたのは十年以上も前のことで、その間、彼女は一度たりとも他の地へと移動していない。それにもかかわらず、いまだ言葉は上達していなかった。その理由を知る者は限られており、ムクィストはその数少ない内のひとつである。否、己が一番熟知していると自負する男は、女の問いかけに肯定を示すために頷いた。

「はい。ムクィストは確かにそう御方様に尋ねました。……御方様は反対されるとばかり思っておりましたので」

 何について問われたのか漸く解り、女は眉尻を下げて微笑む。反対など出来るはずがなかった。政に疎い身でも、何を優先すべきかは知っている。王の不在は民の不安を誘うことになり、また緩みも生まれることとなるのだ。

 治安の悪化に繋がる前に。占星師の勧めは、当然のことといえるだろう。そして、喪も明けぬうちから誕生する新王を国民の誰もが祝福している。


 ――――国王陛下万歳!

 ――――新王御即位万歳!


 終わりのみえない喝采は、王宮の奥に建てられたこの離宮にまで聴こえてくるほど。女は凭れていた長椅子から起き上がり、窓枠へとその手をかけて外を眺めた。アッマルは戻ってこず、歓声は鳴り止まない。

 こんなにも騒がしいのは、それこそ始まりの日以来に思える。あのときも賑わう人々の声が届き、溢れんばかりのそれに今にも押し掛けてこられるのかと怯えたものだ。震える自分を抱きしめて頭を撫でてくれた、あの優しくも残酷な王はもういない。遠くへと逝ってしまった。

「騒がしくありませんか?」

 ムクィストが窓枠へと手を掛ける。先代の王が彼女の為だけに建てたこの宮殿は、普段が静か過ぎるのだ。四方は湖水が囲っている。守護の為とはただの名分で、本当の理由を知るのもまた限られた者だけだった。

「窓を閉めましょうか。アッマルは日が暮れれば自ずと戻ってきます」

「へいき」

「ですが」

 何かを言いかけたムクィストが、ハッと口を閉じて顔を上げる。暫く廊下のほうを睨みつけていた彼は、そのまま女へと頭を下げると消えるようにその姿を隠した。

「ヒバ様」

 そんなムクィストと入れ替わるように、扉の向こうから遠慮がちに放たれた声は、彼女の侍女のものだった。

「ヒバ様、よろしいでしょうか」

「はいって、いいです」

「失礼致します」

 笑みを携えて扉を開けた侍女の名は、フィクリヤといった。この国の言葉で賢慮という意味で、彼女はその名に相応しく思慮深い。

「お寛ぎでしたか、ヒバ様」

 フィクリヤは勘の鋭さから入室間際に消え去った者の正体に気付いたが、問い質すことはなく、ただ長椅子に身を預けた主をその目で確認すると頭を垂れた。そして、視線を戻すなり、長椅子の傍らに用意すべきものが無いと知ると、さっと強張った表情で再び頭を下げる。

「これは申し訳ありません。今すぐ何か飲み物を、お持ち致しますので」

 フィクリヤは美しい。品のある美貌に知性を兼ね備えた彼女が、ヒバは好きだった。頭の後ろでひとつに結われた金の髪を、特に好んでいる。この国の民として当然である褐色の肌に、金の髪はよく映えた。屋内でこれほど綺麗なのだ。太陽の下でならばキラキラと輝き、もっと美しいに違いない。

「ヒバ様。侍女の数が日中あちらへと駆り出されていたことを、どうかヒバ様には御容赦願いたく……」

「フィクリヤ」

 気にしなくていい、とヒバは笑った。もともと多過ぎるほどの世話人の数だったのだ。けれども、そう言ったところで無駄ということは過去の経験から熟知している。彼女たちのなかでヒバはまだ敬うべき立場にあり、どこか神聖視されていると気付いていた。

「寛大な御心に感謝致します」

 生真面目なフィクリヤはまだ浮かない表情で、開いたままの窓の向こうへと視線を移す。ちょうど新たな賑わいが風に乗って聴こえてきたからだ。



 ――――万歳!

 ――――ヒシャム・ハイサム・ジャリル・ジア・アルットゥリ・エビ国王陛下、万歳!


「え……?」

 聴こえてきた新王の名に、ヒバは固まった。

 この国は世襲制度である。血の繋がりを重んじり、崩御した王の次にその座へとつくのは王の嫡子。此度も新王は先代の第一王子である皇太子と決まっていたはずだ。

「ヒシャム?」

 しかし、届いてくる民衆の歓声は、皇太子の名を呼んではいない。ヒシャム・ハイサム・ジャリル・ジア・アルットゥリ・エビ。ヒバが記憶する限り、それは皇太子ではなく、弟王子の名だったはずだ。王の十人の息子のうち最も幼かった末王子で、ヒシャムと呼ばれていた。彼と顔を合わせたのはヒバがこちらに来てから二、三年だけの間だったが、確かに覚えている。最後の面会は、彼が八つになる少し前だっただろうか。あの幼かった王子が新王なのかと目を丸くするヒバへ、恭しく礼をするフィクリヤが緊張を押し殺した声で告げた。

「お察しのとおり、第十王子であられましたヒシャム殿下が御即位されました。ヒバ様に……ヒバ様におかれましては、湯浴みの準備を」

「フィクリヤ?」

「どうか、ヒバ様」

 なぜ、上に九人も兄王子をもつ末のヒシャムが新王なのか。なぜ、フィクリヤは急に湯浴みを勧めてくるのか。

 事態を飲み込めないヒバを置いて、周りは慌ただしくなっていく。ひとり、またひとりと出払っていたはずの侍女が増え、ついには入り口に近衛兵が姿を見せる始末。その尋常ではない様子に戸惑っていると、集まったそれらの者たちが一斉に頭を垂れた。



「ヒバ」



 華やかなその色は毒のよう。側近を従えて現れた人物を、ヒバは茫然と見上げた。

「久しいですね、ヒバ」

 フィクリヤよりも濃い褐色の肌と金色の髪は、この国を象徴するもの。後ろに撫でつけ腰まであるそれを豪奢な細工がされた皮飾りでひとつにまとめ、はっきりとした目鼻立ちを露わにしている。フィクリヤや他の者とは違うのは、その瞳の色だ。王族の直系にしか現れないという夕焼けの色が、ヒバを見つけ微笑む。

「こうして貴女と逢えるのは、もう七年ぶりになりますか。ヒバ、私を覚えておいででしょうか」

「ヒシャム、でんか……?」

「はい。ヒシャムです。覚えておいて頂けたようで嬉しいですよ。残念ながら、既に王子ではなくなりましたけれど」

 その言葉に慌ててヒバは長椅子から立ち上がった。いつもの癖だった。王族を前に座したままでなど、無礼にあたる行為だった。そういった甘えが今まで許されていたのは、先代の王がそれを望んでいたからで、今代の王もそうだとは限らない。

「でんか……いえ、へいかですね。ご、そくい、おめでとうございます」

「有難うございます」

 初めて逢った頃、まだ六つの幼い少年であった彼は、いつの間にかヒバの背を超えていた。今では見上げるまでに成長している。

「へいか」

「はい、何でしょうか」

「あの、さずかりもの……なに、でした?」

 この国に新しい王が立つ。それは同時に、儀式が行われる時でもある。新王の誕生を祝って、国御抱えの術師が力を合わせ召喚の儀をするのだ。それは授かりものと呼ばれる、謂わば術師たちからの貢物で、時代によって成果は異なる。ある王は見たこともない装飾品であったり、ある王は世にも珍しい小動物であったりと授かりものは目の前に現れるまで誰にもわからない。

 先代の王の授かりものは、ひとの娘だった。まだ成人に満たない異国の娘で、黄みがかった白い肌と闇のように深い色の髪と瞳。産まれたての赤子のように柔らかな顔立ちを含めて娘のすべてが珍しく、喜んだ王は授かりものをそれはそれは大事にしたものだ。まるで実の妹か娘のように可愛がり、宝物だとばかりに他者の手に傷付けられることを恐れた。王宮からは出さず、果てには閉じ込める為の離宮をも建て、特定の者以外の立ち入りを禁じた。

 先代の授かりもの――――ヒバがここ数年のうち会話を交わしたのは王を除けば、ムクィストとフィクリヤくらいだ。父の面影を感じない相貌を見上げ問えば少年王は答えてはくれず、うっすらと笑ったまま侍女へと視線を流した。

「フィクリヤ、湯浴みは後だ。他の者も下がっていい」

「…………お言葉ですが、陛下」

「二度は言わぬ」

 ぴしゃりと跳ね除けた王へと、それでも何か言いたげに顔を上げたフィクリヤだったが、冷然たる王の目にハッと口を噤んだ。

「用意を終えたら下がれ」

「…………仰せのままに」

 青褪めたフィクリヤは深々と頭を下げると、他の者に続いて部屋を後にする。その間、一度もヒバを見ることはなく、静かに閉ざされた扉が彼女の胸に不安を抱かせた。

「…………エビ」

 思わず口に出した名に、反応を示したのは王だった。

「それは、私でなく、父を呼んでいるのでしょうね」

「……」

「ヒバ、無言は肯定と変わらないのですよ」

 父親の名を引き継いでいくのが、この国の王族の習わしだ。彼の長い名の最後にも、先代の王の名が継承されている。授かりものであるヒバにしか呼ぶことを許されていなかった名だ。その呼び名の意味を当人は知っているのだろうか。若き王はかつて仰ぎ見た娘を今度は高い位置から見つめ、長い間待ち望んでいたものへと腕を伸ばし触れる。

「ヒバ、私は父のように貴女を閉じ込めたりはしません」

「へいか……?」

「花に触れるときも、砂祠を潜るときも、夢海を眺めるときも、常にともに。私の隣を歩く権利は貴女だけにある」

 血の色は気高く、王族以外は身に纏うことが許されていない。その禁色がヒバの視界いっぱいに広がった。それが新王を彩るものと気付いたのは、そのまま抱き上げられた後でのことだった。

「な、に? へいか、なにを」

 王の足は迷うことなく寝所へと向かっている。信じられない思いでヒバが王の顔を覗き込むと、思いのほか熱のこもった瞳に見下ろされた。疑心が確信に変わり、ぞっと背筋が寒くなる。

「酷くはしません。すべて私に任せてください。貴女と父が清い関係であったことは知っています」

「や、いやです、へいか……」

「…………ヒバ」

「だって、こんな、こんなこと」

 こんなこと、まちがっている。

 確かに彼が告げたとおり、先代の王はヒバをこの離宮へと閉じ込めて育てた。けれども、それを窮屈と思うことはあっても苦痛と感じることがなかったのは、そこにヒバへの悪意はなく、とても大事にされていたと知っていたからだ。慈しんでくれた。まるで、本当の親のように。

 授かりものは尊いものとして大事にされるが、それはあくまでも王の所有物としての話で、王族と閨をともにするためではなかった。ヒバの王は、行き過ぎるほどに実法だったあの王は、自身の末子が今しようとしている愚行を知ろうものなら何を思うことだろう。授かりものと己の子がなど、疑いもしていなかったに違いない。しかし、死人に口はなく、その答えを聴く術はなかった。

「……私はもう待てないのです」

 嫌だと訴えるヒバを痛ましそうに見つめる目は、けれども既に情欲に濡れている。己の腕のなかで震える身体を父がそうしたように甘やかに抱きしめ、額にそっと口づけを落とした。

「いや、や……ムクィスト!」

 最後の砦とばかりに影護衛の名を叫ぶ。いつものようにヒバの近く、部屋のどこかに身を潜めているはずだというのに、その姿を見せてはくれない。

「無駄ですよ、アレは忠実な王家の下僕。父が貴女を護るように告げ遺していても同じ。父亡き今、アレが最優先するのは私の言葉です」

 ムクィストどころか、ヒバ付きの侍女でさえも承知のことだ、と冷静な声が告げてくる。それを表すかのように、いつの間にか整えられていた寝台には普段、彼女が目にすることのない物が置かれていた。豪奢な細工がされた小瓶と、見るからに柔らかな布が何枚も折り重なり、その上には紐状と思わしき物まで。

「大切にします。父よりも、他の誰よりも大切にしますから、ヒバ…………どうか、私を愛してください」

 先代王の授かりものであるヒバは、今でも守護される立場にあった。その身を脅かせる者など限られている。王族、ましてやそれが国王となれば、それが可能だ。例えそれがどのような内容でも、国王の意思に背くことなど誰が出来ようか。










 いい子にしていないと罰があたるよ。祖母の言っていたことは本当だった。両親の言いつけを破り、家の手伝いを放ったまま出掛けた先で大きな罰がくだったのだ。赤い穴へと真っ逆さまに落ちた少女は、国名も知らない異国の地で言葉も通じない人々に囲われている。迷子の自分を保護してくれた男は優しいが、それでも両親を恋しく想う心は止められない。元の場所へと戻りたかった。

「……ムクィスト」

 心細さからおもわず少年護衛の名を呼べば、宥めるように背を撫でられる。けれども一向に気が休まらないのは、向けられる眼差しがあまりに強いものだからか。

 王の許しを得てムクィストが連れてきたその子供は、子供と呼ぶには相応しくない峻烈な光を携えてヒバを見ている。王以外の王族との面会はこれが初でもあり、王族というのは皆このように恐ろしい存在なのかと震えた。

「こちらは王子殿下であらせられます」

「おうじ」

「陛下の、御子です。ヒシャム殿下と仰います。殿下、とお呼びください」

 ゆっくりと聞きとりやすく話してくれる声に耳を傾けていると、小さな手に腕をとられた。

「そなた、言葉が不自由なのか。響きもどこか可笑しいものだな」

 幼さゆえに王子は加減を知らない。力の限り引き寄せられたヒバが反射的に悲鳴をあげると、掴まれていた腕がパッと放された。夕焼け色の瞳が驚いたようにヒバを見上げていた。

「……なんなのだ」

「うう…………。ムクィスト、でんか、こわい」

 年下といえども乱暴な子供に怯えたヒバが少年護衛へと縋りつけば、更に険しくなった目が纏わりついてきた。

「…………来い。今日は暑いだろう? 父上には内密に、湖へ連れて行ってやる」

「や!」

 拒絶の声に、王子はますます柳眉を逆立てる。間に挟まれるかたちとなったムクィストが、困り顔で溜息を吐いた。

「殿下、彼女はもう十二歳になられますから、水浴びは許されないかと」

「十二だと? フィクリヤと同じくらいの歳に見えたぞ」

「……貴方様の従姉妹であられるフィクリヤ様はまだ九つでおられましょう」

 呆れた響きで答える護衛に、会話が早く理解ができない少女がぱちりと瞬きをする。そんな彼女を王子は暫く睨みつけるようにして熱心に見つめていたが、やがて口にした言葉はゆっくりと、相手が望む優しげなものだった。

「そなた、名は、なんという?」

「…………雲雀」

 バードウォッチングが趣味である祖父が、春生まれの孫娘に縁起がいい名前をとつけてくれた名前だった。

「ヒバ?」

 やはり親子だ、と少女は思う。雲雀と確かに告げたはずであるというのに、王と同じように返してきた。少女が聞き間違いを訂正するより早く、興奮を隠しきれない様子で王子が口を開く。そして、上機嫌にその手をとってきた。

「ヒバ、ヒバ(贈り物)か……! なんと相応しい名だろう。そなた、正しく神からの授かりものなのだな」

 頬を上気させ熱心に自分を見つめてくる王子を、ヒバはじとりと睨んだ。少女の手を握る子供の手は、例に漏れず濃い色をしている。大きさは彼女の妹と同じほどであるというのに、日本ではあまり見かけない色だった。神が本当にいるのなら、早く家に還してほしい。罰なら、還ってから、いくらでもうけるから。











「此処においででしたか」



「…………へいか」


 石畳みの上へ設置された木椅子に座ったヒバは、昼食を摂りながら庭を眺めていた。近衛兵を連れた王が現れたのは、ふとした拍子に蘇ってきた古い記憶に耽り、食事の手をとめたところ。少し離れた位置で立ち止まった兵達を置いて、ただ王だけがヒバの前へと歩み寄る。

「私のいない時はこうして昼食をこちらで摂っていると聞きました」

「かぜが、きもちいい、から」

「それは良かった。ですが、あまり日の下にいると、せっかくの綺麗な肌が焼けてしまいますよ」

 幼かった王子は今代の王となり、彼が宣言したとおりヒバは行動範囲が広まった。こうして庭を自由に行き来することも出来る。けれども、四方を囲む湖水によって向こう側へと渡ることは安易ではなく、離宮の外へは王とともにでなければ叶わない。草叢で戯れているアッマルと同じ。仮初めの自由を与えられているだけ。

「ああ、ユネの花が咲いたのですね。貴女は本当に、この花が好きでおられる」

 貴方の父に初めて贈られた花だと言ったら、この純粋な若者はどういった反応をするだろうか。ふいに浮かび上がった邪心は、優しく微笑み向けられる顔に呆気なく消え去ってしまう。

「そうだ、次のまとまった休みには東の丘へ行きませんか。少し遠いですが、ユネが一面に咲く場所があるのです」

 雨が少ないこの地で水がどれだけ希少で、草花に価値があるのかは、ヒバとて知っている。王が新たに建設しているらしい宮殿にも惜しみもなく水が敷かれ、色とりどりの花が育てられている最中だと聞いた。父王と張り合っているつもりなのか。ヒバは尋ねたくなったがやめておいた。頷かれようものなら、どう反応を返していいのかわからない。

「ああ、あのアッマルはもう成体でしょう」

 草叢の中を駆けまわっては、湖水に浸かり水飛沫を跳ねさせる。落ち着かない獣を見た王が眉を寄せた。

「見る限りでは既に発情期に入っているようですね。どこかに預けたらいかがでしょうか」

 王が視線を外している隙に、ヒバは先ほどまで読んでいた紙切れを手の中から端へと投げ捨てた。そうすれば後はムクィストが回収して塵に変えてくれる。

「あずける……どうして?」

「アッマルは元々、気性が荒い生き物です。発情期はより一層野生化してしまい、主人といえど牙を剥くこともあるのですよ」

「……でも」

「大丈夫ですよ、ちょうど面倒見に相応しい娘がいますから」

「…………」

「私の言うとおりにしてくれますね? 貴女に何かあったらと不安で仕方ないのです」

 ムクィストが調べてくれたもののなかに、王の授かりものは人の子であったと記されていた。二代続けての縁を、是とする者もいれば非ととる者もいると。そして、王は自身の授かりものを迷わず神殿へと放り込んだと。

王を焚きつける何かが、その娘にはあらず、ヒバにはあった。だからこその結果だと、ふたりを昔から知る護衛の男は言うのだ。


 ――――ですから、よろしかったのかと訊いたのです。


 ムクィストが何を言いたかったのか、今なら解る。だが、すべては後の祭りだ。第一ヒバが新王の誕生に反対したところで、それが覆るとは思えない。

「ヒバ……?」

 それでも、もし、彼が王とならなかったならムクィストは先代の遺言に従い、ヒバを護ってくれただろうか。王族のなかでも最も優先すべきは現代王からの勅命。その次が歴代王だ。ヒバと出逢ったことで歯車が狂い、本来、王弟に留まる末王子が新王となった。王族といっても忘れ去られるほどの地位で生涯を終えたはずの男が恐ろしくもあり哀れでもある。

「眠いのですか?」

 薄く開いた唇に、男の親指が触れる。おとがいを持ち上げられたヒバは、睫毛をふるりと震わせた。闇夜の瞳がゆらゆらと揺れ、じきに覗き込む男の姿を捉える。映り込んだ男の目が一瞬にして愉悦に染まった。

「そうです、それでいい」

 彼女の視界に入り込んだことが嬉しいのだ。表情だけではなく瞳までもを喜ばせてみせるヒシャムは、テーブルに置かれた皿に一瞬だけ視線をやった。

「食が進んでいないようですね」

「……」

「クルワノの姿煮は、お嫌いではなかったはずでしょう? これは身体にいい。もう少し食べてください……ヒバリ」

 返答がないことに焦れた男が、彼女の名を短く呼んだ。それは誰でもない彼自身によって、他の者が口にすることを許されていないものであり、先代王とて口にはしなかったものだった。

 王はヒバとは呼ばなくなった。ヒバリ、と。彼女の本来の名を、甘やかに声にする。

「何をそんなに気落ちしているのです。もうすぐ婚儀があるというのに」

 その婚儀が悩みの原因だといっても、この男には決して伝わらないだろう。兄王子の顛落をひとつの娯楽と思い、人を虫けらとも称するこの目の前の男には。

 軽々と自分を抱き上げる王の首に、それでもヒバは腕をまわす。自己保身か、それとも。ヒバ自身でさえ、とうに判別できなくなってきていた。ただ確かなことは、王が造りだす鳥籠は心地良く、ユネの花畠へと連れて行ってくれる日をヒバは楽しみにしている。草叢に臥せたアッマルが流される主人を憐れむようにひと鳴きしたが、王の手によって閉ざされた耳へと届くことはなかった。







──────END──────





































 女がいる。まだ若い女だ。綿毛のように柔らかな丸みを描く髪は背の半ばまで伸ばされており、見た目同様にふわふわとした手触りだと知っている。華奢な身体は少年のように膨らみに欠け、けれども触れれば確かに柔らかいのだから女とは不思議なのものだ。何もかもかもが男と違う。だから大切にしろと周りは言うのかもしれない。男ならば女子供は労わるべきであると教えられた。

 少女はいつも身体の線が出ないゆったりとした、まるで病衣を思わせる衣服を着けている。それも、装飾が一切ついていない地味なものを好んでいるようだった。掘りあてた後に磨かせた玉石も、細工師が涎を垂らすほど希少な黄金も見向きもしない。少女が欲しがっているものは、ひとつだけだ。それを知っているというのに、叶えてやれない未熟さが歯痒い。

「ヒバ」

 長椅子に身を預けたまま、ぼんやりと空を見つめていた少女は、声をかけたことで漸く来客に気付いたようだった。この様子では来訪を告げた侍女の言葉も、その侍女が席を外す際の挨拶も聞いていなかったに違いない。ヒシャムは呆れたように溜息を吐くと、瞬きを繰り返すだけの少女へと歩み寄り、断りもなくその隣へと腰掛ける。その行動に眉を顰める者はいても、自国の王子を咎める無法者はいなかった。

「ヒバ。そなた、何をしているか」

 余りある広さの長椅子は、座るふたりの距離もまたある。ヒシャムはそれに大人びた目を細め、隣にいる相手を見上げると矢継ぎ早に告げた。

「わざわざこの私が来てやったのだぞ。抱きつくくらいのこと、してみてはどうなのだ」

「……え、あの」

「わからぬのか。特別に許すと言ってるのだ」

 ふん、と鼻を鳴らすヒシャムに少女は困ったように首を傾げる。そして暫しの沈黙のあと恐る恐るといったふうに、その手を伸ばしてきた。ヒシャムや兄弟たち、侍女とも従者とも違う色をもつ手が、ヒシャムの頭へとそっと触れ、そのまま優しい仕種で撫でてみせた。

「…………、そなた」

 王子であるヒシャムの頭を撫でようとする者など、もうこの世の何処にもいないだろう。腹を痛めて生んでくれた実の母にさえ、ヒシャムはとうに許していない。王族の男として、嫌悪すべき行為である。

「そなた、私を馬鹿にしているのか?」

「なに……? はやい、わからない。ゆっくり、もっと」

「幼子扱いは、よせ、と言ったのだ」

 ゆっくり区切りながら教えてやる。袖から覗いた手首は、折れるように細い。六つであるヒシャムと比べてもその違いは分かるほどで、少女がいまだこの国の食事に慣れていないことを物語っていた。

「確か、そなたは甘味を好むのだったな」

「かんみ」

「菓子だ。砂糖菓子なら、食えるのだろう?」

「おかし! わたし、すきです」

 侍女に用意させた菓子をキラキラとした目で見つめている。興奮しきった態度に、ふ、と笑みが零れる。

「そなた、本当に年上か?」

「なに、ですか? あの、むずかしい」

「ああ、いい。ほら、口を開けろ。食べさせてやろう」

 桜桃色のぷっくりとした唇が、促されるがままに開く。覗いた舌の上には球状に練られた砂糖菓子を乗せてやると、スッと熱で溶けていく。

「ん!」

 ヒバの口が、幸せのかたちをつくった。

「おいしい」

 砂糖は希少なものだ。限られた量しか作れない。それを、この娘は知っているだろうか。知らなくても問題はないことだ。この国の食事が苦手な少女のために、ヒシャムの父である王はすでに手を打っている。ヒシャムが王でも同じことをするだろう。それだけの価値がこの娘にはあると自然と思う。

「もっと、食すといい」

 ――――そして、覚えていろ。私のことを。


 兄弟のなかで唯一ヒシャムが離宮への出入りを許されているのは、この身がまだ幼いからというただひとつの理由からである。十五の成人を過ぎた六人の兄たちは対面すら叶ったことがなく、ヒシャムの直ぐ上の兄である第九王子は八歳となった先月から離宮へと近付くことを禁じられた。

 王族にとって八つの歳を迎えることはひとつの節目で、その年になると男女学びの場をともにすることはなく、王子は剣技を王女は舞踊を習い始める。その慣習に倣い、第九王子は異性が住まうこの離宮から遠ざけられたとされているが、本当のところは父の一言があったせいだろう。ならば末王子の己もまた八つの歳までだとヒシャムは察していた。あと二年経てば、顔さえ見ることは難しくなる。

「…………我が父ながら憎らしい」

「はい?」

 手に持たせてやった菓子を頬張っていたヒバが、目を丸くして隣を見る。

「なに、いいました?」

 ヒシャムとしては思わず言葉にしてしまっただけの、ただの独り言でしかなかったのだが、どうやら聞き損じたと勘違いをしているらしい。申し訳なさそうに下がった眉が可愛らしく、ヒシャムは声をあげて笑った。それにますます不可解とばかりに首を傾げる少女は、ヒシャムのものではない。父王の授かりもの。父のものだ。

「なんでもない。気にするな」

 だが、欲しい。

「占術師から告げられた内容を考えていただけだ」

 王族の男は歳をひとつ重ねる度に宣託をうける。ヒシャムが六つの折にうけたそれは、あまりに突拍子もないもので、背信行為ととられても不思議ではなかった。耳にした瞬間は首を刎ねてやろうかとも思ったが、幸いにも兄王子たちは笑い飛ばし、余計な諍いは起きてはいない。

「でんか……?」

「くだらぬと思ったが、あれは的を得ていたのかもしれぬ」

「……、わからない」

 ヒシャムの話す言葉は難しい、と。またもや首を傾げる少女の眦が微かに赤い。侍女たちの話では、未だ夜になると故郷を恋しがって泣くこともあるらしい。その願いを叶えてやることはできないが、似た景色ならば知っている。少女が暮らしていたという遥か先までのびた湖。

「決めた」

 十いるうちの最も遠い位置で誕生したせいか、ヒシャムは王座には興味がなかった。だが、目指す先に得るものがあるのなら違う。かつて、王族の祖は賊であったと云うが、それが残っているやもしれぬとヒシャムは笑う。ヒシャムはもう決めた。決めてしまった。どうしても、欲しいのだ。ならば力尽くでも奪い取るしかない。不可能なことではないはずだ。ヒシャムにはその血が流れている。

「ヒバ」

 夢海をともに見よう。



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