第四話 藤原先生のユニーク物理授業
翌朝、水曜日。
高等部一年一組のクラスメート達は、この日は学校へは向かわず、先日藤原先生から指示された通り三宮駅前に集合した。
朝のホームルームもこの場所で行われることになっていたので、保母先生も来ていた。
(もう、藤原先生ったら)
かなり迷惑そうな表情を浮かべながら。
八時半。保母先生は一組のクラスメート達が欠席の子を除き全員揃ったのを確認すると、連絡事項を手短に済ませ、急ぎ足で学校へと向かった。一時限目から他のクラスで授業が組まれてあるのだ。
それから数分のち、
「ぃよう、おまえさんら。ワシのしょうもない授業なんかのためによう集まってくれたな。ワシは今、めっちゃ嬉しいでーっ。それではご褒美に今から相対速度をお見せします! やっぱ物理っちゅうもんはな、ビジュアルで体験するんが一番脳内にインプットされやすいねん。百聞は一見にしかずやな。おまえさんらはJR新快速。ワシは、ほんまは阪神電車に乗りたいとこなんやけど、今回だけは仕方なくあの羊羹みたいな阪急に乗ってやる。阪神電鉄は地下走ってて見えへんからな」
藤原先生はグ○コポーズで走って来て、颯爽と現れた。今日も平安貴族の衣装だった。駅構内コンコースで四十名近くいるクラスメート達に向かってマイクは使わず、なぜか笏片手に大声で叫ぶ。
「うるさいなあ、もう」
四人の座っている場所は藤原先生のすぐ近くだったため、かなりの騒音域となっていた。
「河南よ、ワシの美声を迷惑がるとは一丁前やのう。ワシにアカペラで『六甲おろし』歌わせたら右に出るもんはおらへんねんで。罰として携帯番号教えてーな」
藤原先生は笏を右手に持ったまま、菜都美ににじり寄った。
「ちょっと先生。やめてーっ。それ、セクハラじゃないですか?」
菜都美は迷惑そうに振舞う。
「まあまあ、ええやないか。なっ!」
そんなことはお構いなしに、藤原先生はさらに顔を近づけて来て交渉してくる。
「ナツミン、ぜひ教えてあげて。今回の実験に使うだけやから」
早帆は藤原先生の烏帽子を外し、丁髷をペタペタ触りながら菜都美を諭した。
「わっ、分かった。早帆ちゃんがそう言うのなら……」
こうして菜都美は、しぶしぶ自分の携帯番号を教えてあげた。
「よっしゃ! それでええねん。これでワシと河南はいつでもコンタクトとれるな。それより浦上よ、ワシの丁髷、そんなに触り心地ええのんか? ハハハッ」
上機嫌な藤原先生はスキップしながら、阪急電鉄の乗り場へと向かっていった。それ以外のみんなは、彼からの指示通りJR新快速電車に乗り込む。
切符代は各自自腹で負担してやー、とおっしゃっていた。JRの定期券を持っている子以外全員、券売機に並んで購入する。そこで少し時間をとられた。
〈まもなく、発車します。駆け込み乗車は危険ですのでお止め下さい〉
この車内アナウンスから約五秒後、新快速電車の扉が閉まった。そして動き出す。だんだん速度を上げていくと、進行方向左側の線路二つ隣を走っていた阪急電車のマルーンに彩られた車体の姿をとらえた。ゆっくりと追い抜いてゆく。
その直後、菜都美の携帯の着信音が鳴った。もちろんマナーモードで。
「はいもしもーし。藤原先生でしょ?」
菜都美はやる気なさそうに応答する。
「どやっ! これが相対速度っちゅうもんや。おまえさんらから見たら、ワシ、どんどん後方に下がっていっとるやろ。せやからマイナスの符号が付くねん。ワシの方も実際は進んどるねんけどな。おまえさんらの乗っとる新快速が今、時速七十五キロくらいで、ワシの乗っとる阪急の方が時速七十キロくらいかな? つまり、新快速に対する阪急の相対速度はマイナス五キロ毎時っちゅうわけや……」
新快速電車内の窓から眺めると、阪急電車内で藤原先生が楽しそうに手を振りながら、車内を移動している様子が見受けられた。クラスメート達の何人かは彼を指差して笑っていた。他の乗客も一部。
「先生、声もっとしぼって。うるさいよ。てゆうか車内で通話はあかんよ」
「まあそんな細かいこと気にせんでええやないかあ」
菜都美は注意するも、藤原先生に悪びれる様子は全くなかった。
〈……次は芦屋、芦屋に止まります〉
新快速電車が完全に阪急の車体を追い抜かす頃、車内アナウンスも言い終わった。藤原先生の姿はこの車内からはもう見えない。
新快速電車の速度は、すでに時速百キロ近くに達していた。
「藤原先生、次で降りますよ」
菜都美は周りの多くの乗客に気を使ってか、ボソボソ小声で話している。この区間を走行する新快速電車は、ラッシュアワーでなくとも大抵混んでいるのだ。
「ええよ。今日の授業の目的は果たせたからな。ワシの方は、これから今夜の阪○戦、ええ席とるために甲子園まで行ってくる! 当日券、今から並んどかんと手に入らへんからな。あのすっかり変わり果ててしもうたカー○ルサン○ースとも再会して来るわー。言っとくけどワシが投げたんやないでー、よう疑われるねんけど。にしても阪急使うたら西宮北口で乗り換えんとあかんのがちょっと面倒やわー。新快速のやつも西宮差し置いて芦屋なんかに止まりよるし。あっ、もう春日野道に着いちゃう。阪急減速してワシ、おまえさんらからどんどんどんどん引き離されるう。ここでお別れや。ほな、おおきにーっ」
阪急電車内にいる藤原先生は、他の乗客の迷惑などかえりみず大声で叫び回った挙句、ようやく電話を切った。
「あっ、先生。それ、授業放棄じゃないですか?」
プープー音の流れる菜都美の携帯、菜都美は電源ボタンを押して止めた。
「どういうつもりなの? あの先生」
そして即、メニュー画面に切り替えて、藤原先生の携帯番号を着信拒否設定にした。
「大胆な行動する先生っしょ? ナツミン、驚いたみたいやね」
「そりゃそうよ。あんなので、よく今までクビにならず教職務まってるわね」
菜都美は藤原先生の予想外の行動に拍子抜けしていた。
「今日のはまだマシな方なんよ。中学の時にやってくれたドップラー効果の説明の時は、サイレンの音聞かすためだけに救急車と消防車とパトカー呼んでたし。しかも大雨の日に。あのあとフジミッチー、隊員と警察官と校長からすごい叱られてたんよ。見てて面白かったけどね」
早帆は大きく笑いながら楽しそうに当時の出来事を話す。
「遠心力の説明の時は最悪だったなあ。遠心力をお見せしますとか言って藤原先生に私のカバン、廊下までぶん投げられたの。中に入ってた大事なペンケースや手鏡も割れたし。実践を通じて理解を深めるという藤原先生のお考えは私も共感出来るけど、他人に迷惑かけたらダメってことをもっと理解して欲しいな」
閧子は、少しムスッとしながら呟いた。
「傍若無人な平安貴族だね」
友梨はにっこり微笑んだ。
「私立だから異動もないし、これから三年間ずっとあの先生なのよね。なーんか頼りないなー。あたし、ただでさえ物理苦手なのに」
菜都美は眉を顰めながらぶつぶつ不満を漏らす。
「ナツミン、そのうち慣れてくるって。高等部でフジミッチーの授業を受けられるのは理系クラスだけなんやから、楽しまな損、損」
早帆はにこにこしながら言い、菜都美の肩をポンッと叩いた。
新快速電車が芦屋駅に到着し、扉が開くとクラスメート達は一斉にホームへ降り立つ。そして数分後にやって来た下りの各駅停車で学校最寄りのJR駅、灘まで引き返した。
みんなが教室までたどり着いた頃には、二時限目古文の開始時刻を少しだけ過ぎていた。
「皆さん、おかえりなさい」
古文担当の先生は怒っている様子は全くなく、むしろ快く出迎えた。
「あのう、先生。藤原先生は授業ほったらかして甲子園球場へ行っちゃいましたよ」
「これはよくあることだから、スルーしてあげてね」
菜都美の発言に対し、古文の先生はさらりと言い張った。彼女は授業開始後もしばらく、彼の話を続けてくれた。
「あいつはね、私の恩師なの。もう十年以上は前になるかな。当時からこんながさつな感じだったのよ。道頓堀に飛び込んだことも何度もあるらしいわ。外部生の子に言っておくけど、物理の授業ではデタラメを教えることも多いから、何でもあいつの言うこと鵜呑みにしないがいいよ」
その他にも通勤する時は阪神電車のみを利用するというこだわりを持っていること。阪神電車に乗る時は必ず一番後ろの車両に乗り、下車したあとは車両に向かってお辞儀をするという自分ルールを持っていることなど、藤原先生の素性を包み隠さず教えてあげた。
「あの、先生。藤原先生って物理の知識はほとんどないですよね? この前あたしが分からない問題質問しに行ったら、自分で考えやーって言って慌てて逃げていきましたし」
クラスメートの一人が発言した。
「その通りよ。中学レベルも怪しいくらいなの。物理教師のくせして物理の問題は全然解けなくて教えられる能力はない、そんな理由から私が中学生の頃は〝ニセ物理〟っていうあだ名でも呼ばれてたのよ」
古文の先生はさらっと教える。それがきっかけでこの授業のあと、藤原先生のことを〝ニセ物理〟と呼捨てするようになった女生徒が出始めたのは言うまでもない。