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海底楽土  作者: 輝血鬼灯
9/10

9.海の底の楽園

 船を少し動かして海底洞窟の真上にまで移動させ、潜水服の準備を整えてメーナイド一家は洞窟の探索に乗り出すことにした。

 前回、島に上陸した際のように大半の人員を割いて乗り込んだ挙句罠にかかっていては意味がないと、今回は捜索に向う者は厳選された。

 入り口が判りづらいという事もあり、道案内のヘズ、船長のリーグ、副船長ヴィーザル、それからバルドルだ。人数が少ないだけに何か不慮の事態があったときのため、腕利きを揃えることにしたのだ。船に残る人数は二十人程度だ。

「いいなぁ、ヘズ。あたしも海底洞窟行ってみたかった」

「仕方ないだろ? まだ肩の傷治ってないんだし」

「そうだけどさぁ」

 力量に問題はないが怪我がまだ治りきらず留守番のメイリが、口を尖らせる。

「じゃあ、行ってくる」

「船の守りは任せた」

 ヘズ達洞窟探索組は、各々潜水服を着込んで海に飛び込む。四つの水柱が丸い冠のように立つ。

 中に入ると、海は先日と同じように青く澄んでいた。銀の鱗を輝かせて泳ぐ魚の群れを突っ切るようにして、一気に潜る。

 海底洞窟の入り口を見つけ、入り込んだ。ヘズの後からリーグ、バルドル、最後がヴィーザルだ。しばらく泳ぐと、空気のある空間に出た。浅瀬から水のない足場まで歩いて、潜水服を脱ぐ。

「本当に海の中なのに呼吸ができるんだな」

「ここからは慎重に行った方がいいだろう」

 岩壁を伝う水が音を立てる。濡れた岩に足を滑らせ、よろけたヘズはヴィーザルの手に支えられた。

「気をつけろよ」

「う、うん」

 一向はリーグを先頭、最後尾の守りをヴィーザルに任せ、間にバルドルとヘズを挟んで進んでいる。

 視線を感じて振り返ると、ヴィーザルとのやり取りを、前を行くバルドルが眺めていた。手にはあの地図がある。洞窟内の道をどう行くかは彼が指示していた。

「おい、大丈夫か。この辺りは罠がないみたいだが」

「大丈夫です、親方」

 リーグは先頭でカンテラを掲げもっている。暗い洞窟内を、その橙色の灯りが照らしていた。炎が揺らめくたび、壁に映る大きな影も蠢くのが不気味だ。

 さらに、洞窟内の道は枝分かれしていることが多いので、帰り道はわかりやすいように小型の使い捨てカンテラをいくつも置いていく。例え火が消えても、カンテラがあることを探ればなんとか出口まで辿り着けるだろう。

 以前の島の様子から考えれば、信じられないほど洞窟の中は平和だった。凹凸の激しい壁を水が伝うばかりで、それ以外にはものの動く様子がない壁下の窪みにはフジツボらの貝類がはりついている。

「もう少しで、地図の場所に辿り着きます」

 バルドルが口にする。いよいよかという緊張にいっそう四人の体は硬くなる。普通ならここは緊張が解ける頃だろうが、流石に海賊として十年以上経験を積んだリーグ達にそんな油断はない。

「ヴィーザル、背後を」

「了解」

 今まで通ってきた狭い通路から、どうやら広い空間に出るようだ。カンテラの灯りはまだ届かず暗いのでその中に何があるかは見えないが、広い空間だと言う事は何となくわかる。

 先頭を行くリーグが入り口で一度立ち止まる。防水加工された鞄の中からもう一つカンテラを出し、灯りを点けた。バルドルに渡す。

 バルドルは用済みの地図を畳み、カンテラを受け取った。

「行くぞ」

 リーグが足を踏み入れる。何か罠があるわけでもなく、洞窟内の広間は四人を迎え入れた。どこからか水が流れ込んでいるようだ。音が聞こえる。

 今更だからと常時眼帯を外すことにしたヘズの右目が、内部の様子を伝えてくる。何重にも重ねられた黒の紗幕を一枚取り払ったように、辺りがほんの少し明るくなる。カンテラの灯りがなくても様子がわかった。

 正面に古びた木箱がある。

 そしてその横には、いつ死んだのかもわからぬ男・・・恐らく古代の海賊の白骨死体があった。

「宝の守人、か?」

 リーグが呟く。数秒、彼らはその男に黙祷を捧げた。そうして改めて、宝箱に近付く。

 朽ちた木箱は原型を保っているのが不思議なほどぼろぼろだった。流れ込む水が木を腐らせたのか、微かに異臭がする。だがその異臭すらも時間に流されて薄れているようだ。

「開けるぞ」

 リーグが言い、宝箱に手をかける。指先が腐った黴と泥の混合物という果てしなく嫌なもので汚れるが、潔癖な少女ではあるまいし気にしない。

 鍵のかけられていない箱はたやすく開いた。

 中から、眩いばかりの黄金の輝きが溢れる。

「った……やったぞ!」

 それは誰が言った言葉だったのか。ついに求めていたものをこの眼で見ることができたという喜びに、叫びたい気持ちを抑える。

「リーグ!」

 ふいにヴィーザルが叫んだ。警鐘を鳴らすように必死な響きに、広がろうとしていた感動の空気を打ち破られる。

「そりゃあよかったな、メイナード」

 ここ数ヶ月で嫌でも聞きなれた、しかしこんな場所で聞こうとは思ってもいなかった野太い男の声が響く。

「ローク!」

「何でここに……!」

 カンテラを邪魔にならないよう床の隅において、バルドルが剣を抜く。

「そういう、ことか」

「え?」

「始めから全部、あんた達が仕組んだことだったんだな。あの島の罠も」

「どういうことだ、バルドル」

 自分の剣に手をかけて敵を見据えながら、怪訝な顔をしてヴィーザルが尋ねる。

「あの島に仕掛けられていた罠は、どれも新しかった。俺達が来るのを見越して、こいつらが仕掛けていたんだろう」

「ええっ!」

 ロークの笑いが響く。

「よく気づいたな! 裏切り者のバルドルさんよぉ! その通り、あの島に仕掛けてあった罠は俺達がやったことだ。この洞窟もすでに見つけていたが、どうせなら寸前で宝を掠め取られるお前らの間抜け面が見たくてなァ!」

「マジかよ。趣味悪いなお前」

 リーグが舌打ちする。天国から地獄とはこのことだ。こちらはヘズを含めても四人。向こうは大人が十五人以上。

「今頃、お前らのお仲間も俺の部下達が追い詰めてるところだろうよ」

 人格を表すような下卑た声で、ロークが言った。


 ◆◆◆◆◆


「エーギル! もう十人以上は海に入ったぜ! 船長達は大丈夫なのかよ!」

「んなもん俺が知るかぁ! 今は自分の心配しやがれ!」

 グネーヴァル号は再び戦場と化していた。ヘズやリーグ達が潜ってしばらくしてから、突如ローク海賊団の船が現れたのだ。明らかに前回の戦いの時より戦闘員を増やし、メイナード一家も全員で応戦する。

 船長代理として船を預かるエーギルは舌打ちしたくなった。この分では、ローク一味はずっとメイナード一家の動向を探っていたのだろう。船の上も大変なことになっているが、気にかかるのは海底洞窟に入った四人だ。

 ヴィーザルもバルドルもリーグもかなり腕が立つ。だが、果たして洞窟内に逃げ場はあるのか。海に何人が入ったのか、正確な数すらこちらにはわからない。

 ローク一味の数はメイナード一家の倍以上だ。手練と言える相手がこちらにはそれほどいないが、向こうにもいないのが幸いだった。あとは個々の戦闘力に賭けるしかない。

 奮戦しているのはメイリとエイルだ。メイリは肩の怪我をものともせず身軽さを生かして短刀を振るっているし、エイルは女性のような顔で相手を油断させて一気に何人もなぎ倒した。

「畜生! リーグ、ヴィーザル、ヘズ……無事にもどれよ!」

 返り血を拭う暇もなく剣を振るいながら、エーギルは吼えた。


 ◆◆◆◆◆


 宝を手にする暇もなく、洞窟内は戦場となった。鍔迫り合いの音が響く。

「ヘズ、後の方にいろ」

「う、うん」

 ヘズも短刀を手にするが、分が悪すぎる。こんな洞窟内では彼の得意な弓は使えないし、第一さすがにそこまでは持ち込めなかった。

 救いは、リーグとヴィーザルとバルドル、ヘズ以外の三人が三人とも常軌を逸した強さだということだ。すでに一人当たり二人は倒している。

 ヴィーザルは二人を相手に剣を合わせているし、バルドルはロークを相手にしている。リーグも三人目を倒したところだった。

 ヘズも短刀で一人目をようやく倒したところだった。力で抑えられては勝ち目がない。身軽さで相手を翻弄して、急所が空いたらすぐに突き刺す。

 首を掻き切られた男がぴくりとも動かず倒れるのを見て安堵したのも束の間、すぐに次の敵が現れた。倒れた男の影に隠れて出てきた敵の眼は、爛々と輝いてヘズを狙う。

「てめぇ、この前の弓を使っていたガキだな! この傷の借りを返してやるぜ!」

 はっきりと向けられた殺意に背筋が凍りつく。誰とも知らぬ相手は、前回の戦いの時ヘズの放った矢によって傷を負った相手らしい。だが、そんなことを冷静に考えている暇はなかった。

 死角からの攻撃、濡れて滑る足場は悪く、あからさまに腕力の違う大人を相手にして疲労しているところに息継ぐ間もなく敵が襲い掛かってくる。

「ヘズ!!」

 リーグの焦った声。だが、彼もヴィーザルも自分の敵を相手にするのに精一杯で助けに走れない。

 逃げられない。

 ヘズは暗い死を覚悟する。振り上げられた刃が自分の心臓を貫く瞬間を想像した。

 だが、いつまでたってもその衝撃は訪れない。かわりに視界が深紅に染まる。黄昏の太陽にも似た紅い、紅い景色。

 頬に落ちた生温い雫は、血だった。

「バルドルさん!!」

 結び目を解かれて金の髪が宙を舞う。右目の力で、脇腹を染める深紅が鮮やかに見えた。

 深手を負ったバルドルの体が傾ぐ。何とか踏みとどまって相手に斬りつけるが、この機会を逃すまいとロークが彼を狙う。

「バルドル、覚悟!」

 咄嗟にヘズはバルドルの前に出て短刀を振るった。剣を振り下ろそうとするロークの間合いの中に逆に入り込んで、渾身の力で大男の眼に刃をつきたてる。柄から手を放して後方に斜め後方に飛び退った。

「ぎゃぁあああああああ!」

 悲鳴をあげてロークが左手で顔を覆う。左目から血を流しながら残った右目で射殺すようにヘズを見る。

「このっ……ガキぃ!!」

 怒りに任せて振り下ろされようとする剣をヘズには避ける術がない。得物はロークの眼につき立ったままだ。

 だが、その刃がヘズの体を両断することはなかった。他の敵を全て倒したリーグが、背後からローク海賊団の船長、ロークを袈裟懸けに斬りつけたのだ。

 ロークは倒れた。

「ヘズ! 大丈夫か?」

「バルドルさんが!」

 リーグの姿を見た途端膝から力が抜けてへたり込みそうになるのを堪え、振り返る。

 半身を朱に染めて、バルドルは床に膝を突いている。戦闘が終わったと知ったからか、ゆっくりとその場に座り込んだ。

「傷を見せてみろ、手当てを……」

「……しなくて……いい」

 防水鞄の中から治療用具を取り出そうとするヴィーザルに、息をするのも辛い様子で切れ切れにバルドルは告げる。

「もう……無理だ」

 血の気の引いた白い顔でバルドルは言う。

 リーグは床に置いてあったカンテラを持ってくる。その灯りで傷を覗きこんだヴィーザルが無言で顔をしかめた。脇腹から流れ出た血が地面を伝って足もとを汚す。血溜まり。眩暈がしそうなほど濃い紅だ。

「どうして!」

 ヘズは叫んだ。

 何故。なぜ。どうして。……憎んでいたのではなかったのか。俺を殺したいほどに。

 それなのにその人は今、ここで自分の代わりに血に染まっている。

「どうして……バルドルさん……」

「さぁ……な」

 床に置かれたカンテラの灯りに照らされながら、バルドルは笑う。口の端を僅かに持ち上げるだけの微笑。

 その時、四人から離れた場所で何かの音がした。こんな洞窟の中には似つかわしくない機械的な音だ。

「ローク、てめぇ、まだ生きてやがったか!」

 振り返ればリーグの言うとおり、先程絶命したと思われたロークが無理矢理体を引きずって岩壁に手をついている。先程倒れた場所から少し移動していた。血塗れた体を引きずった跡が残っている。

「てめ、えら……ぜって……ゆるさねぇ……道、づれに――」

 男の言葉が終わらぬ内に、海底洞窟は揺れ始めた。それと同時に、最期の執念によって動いていたロークの体が崩れ落ちる。

「何だ!?」

「まさか……この洞窟が崩壊するためのスイッチか!?」

 この洞窟がただの海底洞窟ではなく、古代の海賊によって隠れ家とされていた場所ならありえるかもしれない。さらに、メイナード一家を先回りして罠を仕掛けたりしていたローク一味がそれを知ることも。

「逃げるしか……!」

「バルドルさんは」

「いけ」

 上がる息の下、バルドルが口を開く。その端から幾筋もの紅い血が流れている。

「……俺は、おいて……行け……どうせ、助からな……」

「バルドル……すまねぇ」

 リーグが、骨が浮き出るほどきつく拳を握り締めた。バルドルに頭を下げると、ヘズの手を引く。

「行くぞ」

「行かない」

「ヘズ」

「俺は……置いていって」

「ヘズ、お前何を」

 驚愕の表情でヴィーザルが肩を掴んでくる。それをリーグが止めた。

「お願いです。メイナード船長」

 顔を上げたヘズの瞳を見て、リーグは一つ嘆息してから一言だけ告げた。

「後で、必ず追いついて来い」

 その言葉にヘズは言葉ではなく、やわらかな微笑で返した。

 リーグは無言で息を飲む。ヘズのその表情は余りにも、バルドルに似ていた。

 彼はそれ以上何も言わずにヴィーザルの肩を叩いて走り出した。グネーヴァル号の船長と副船長は無事にこの場を脱出するだろう。

 振動に合わせて、ぱらぱらと天井から細かな砂が降ってくる。砂はやがて小さな小石の粒となる。

「行かないのか……」

「一人では寂しいでしょう……それに、あなたに……まだ、言ってないことがあるから」

 ヘズはバルドルの目の前に座り込む。膝を立てて腕を伸ばし、青年の肩をそっと抱きしめた。

「ごめんなさい……」

 涙が溢れる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 いくら謝っても謝り足りない。自分達は許し合えたわけでも理解し合えたわけでもない。だからと言ってこんな結末を望んだわけではなかったのに。

「お前の、せいじゃない……」

 バルドルは静かに目を伏せる。

「それに……一人なんて……寂しく、ない……あの時から、ずっと……」

 一人だった。母の世界から忘れられ、家を失い、行く場所も帰るところもなかった。

「違う。あなたは一人なんかじゃない」

 メイリがいる。リーグやヴィーザルやエーギルにモージ、メイナード一家のみんながいる。それに。

「兄さん……!」

 思わずそう呼んだ。バルドルはそれを聞いて、ふっと口元を綻ばせる。ヘズは彼の右手を取って、頬に押し付けた。流れ出ていく血と水に濡れたせいで、凍えるように冷たい。それを、少しでも暖めたかった。

「ヘズ……」

 眠るように瞳を閉じたまま、バルドルは最期の息をつく。

「ありがとう……」

 目を見開いたヘズは、彼の頬を透明な雫が、一筋だけ伝うのを見た……。


 ◆◆◆◆◆


 潜水服を着込む余裕など到底なく、リーグとヴィーザルは素潜りで海面へと上がってきた。顔を出した二人を、血に濡れ疲弊してはいるが明るい顔のエーギルが出迎える。

「リーグ! ヴィーザル! 生きてたか!」

 エーギルの横から、こちらも同じく薄汚れた格好でメイリが顔を出した。海面の二人に向けて救命具を投げる。二人は厳しい戦闘の後にも関わらずそれにつかまり、何とか自力で船まで泳ぎ着いた。

 甲板へと上がるなり、メイリがリーグに詰め寄る。

「バルドルとヘズは!?」

「バルドルは……」

 顔を横に向け、メイリから視線を背ける。その仕草が意味するものは明白で、メイリはその場にへたり込む。呆然と呟いた。

「嘘……だ。だって、あたしと一緒に船降りるって……一緒に、陸で生きようって……」

「メイリ」

 名を呼んだきり、かける言葉を見つけられずにリーグはただその場に立ち尽くした。エーギルが彼のいない間の出来事を報告する。

「船長。副船長。こっちは勝ったぜ」

「本当か?」

「ああ。苦戦だったがな。ロークを始めとする手練は皆そっちに回ってたみてぇだ。俺達だけでも何とかなった。重症の奴もそうはいねぇ。怪我人はエイルが見てるし、今、他の奴らは向こうのお宝を奪いに乗り込んでる」

「そうか」

 報告を聞いて、とりあえずこちらは無事だったかとリーグは安堵する。だが、まだ全てが終わったわけではない。

「リーグ……ヴィーザル。なあ、ヘズはどうしたんだ?」

「そうだよ、ヘズは? あいつはどうしたの?」

 エーギルと、何とか立ち上がったメイリが不安な表情で尋ねてくる。震えるメイリの肩を支えてやりながら、それまで沈黙していたヴィーザルが口を開く。

「ヘズは……」


 ◆◆◆◆◆


 ああ、もう動くことができない。

 手も足も無事で、どこかに深い傷があるわけでもない。だが、足に力が入らないのだ。どうしても。

 振動が段々大きくなり、降ってくる砂が小石に変わっても、ヘズはその場所を動けないでいた。バルドルの血に濡れた手を両手でしっかりと握り締め、二度と開くことのない瞳を見つめていた。

 そんな自分をこの上もなく愚かだと頭の冷静な部分は蔑むように囁く。だがそれすらも打ち消して頭が痛い。ガンガンと響く。

 リーグさん、ごめんなさい。

 俺は追いつけない。ここを動けない。

 あれほど捜し求めていた宝を、ついに彼らは持ち帰ることができなかった。ローク海賊団の一味も、メイナード一家も。朽ちた木箱の中で人知れず古代のままの輝きを放つ金貨達は、このまま洞窟と共に本当の海底に沈む。そこはもはや生身の人間は辿り着けないほど深く暗い場所だ。

 そしてヘズも、このままバルドルと共にそこへ向うのだろう。不思議と安らかな兄の顔を眺めると、また涙が出てきた。今はただ、祈ることしかできない。

女神よ。残酷で美しい海の魔性よ。

 どうか連れて行って。波の下の都、常若の楽園へ。

 俺達はこの地上の何処にも居場所がないから。

「どうか……」

 洞窟の細い通路の奥でも壁が崩れたりしたのか、やがて広間に水が入り込むようになってきた。静かにこの場を満たす水に、ヘズは自分の体を預ける。冷たささえも心地よく、いずれ訪れる死の瞬間をひたすらに待った。やがて頬を伝い落ちる涙さえも、体を浸す水の中に混じる。

 その時、視界に映ったのはたゆたう長い髪だ。もはや息もできないほど、頭の上まで浸水した暗く蒼い世界。いつかの夢で見たこれは、海の中だったのか。

 焦がれ続けた真実に触れて、ヘズは水の中で微笑む。胸には哀しみと愛情が一枚の花弁の表と裏のように翻り翻り存在していた。

 目に映るのは、愉悦に歪む金色の瞳。

 満ちた水の中でキラキラと踊る金貨の舞の中で、死の国に住まう女神が、両手を広げて彼を抱きとめようとする……。


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