8.決断と決意
「で、なんでこうなるんだ?」
真ん中にヘズとメイリを置いて、宴会は再開された。バルドルはメイリの隣に座っている。つまり、ヘズとバルドルは間にメイリを挟んだ状態で座っているのだ。
円卓には酒の杯がいくつも並べられていたが、料理の皿は少ない。まだ財宝を手に入れたわけではないのだ。ここで無駄遣いをするわけにはいかない。その代わりにエーギル手製の酒のつまみと、甘い菓子がいくつか出されていた。小皿に盛られた花形の菓子をヘズはそっと口に運ぶ。
「こ、この衣装は一体……」
隣でメイリが呆然と呟く。
「どっかの船の積荷から奪ったやつにでも入ってたんだろ? 相手の海賊達が商人から奪ったものとか」
いったん姿を消したリーグがなにやら船倉をごそごそ漁っていたかと思うと、腕に女物の衣装を抱えて戻ってきたのだ。それを着せられて、メイリは幾分不満顔だ。
ヘズから見れば……他の船員達から見ても、十分似合うし可愛らしいと思う姿なのだが。
「やぁ、それにしてもまさか女の子だったとはなぁ」
「ヘズよりずっと強そうなのにな」
「酷いよモージさん……」
メイリのことを知らされた船員達の反応は様々だが、驚いた顔をしても嫌な顔をする者はいなかった。先日のローク海賊団との戦闘の時に、真っ先に飛び出して行ったのが効いたのだろう。勇敢だ漢前だ、と誉めそやしている。
「あれ? じゃあ結局バルドルとの関係はどうなってんだ? 弟じゃないだろ?」
エーギルが首を傾げるのに、メイリが戸惑った顔をする。
「それは……」
「妹だ」
酒の杯を手に、バルドルが一言告げる。
「女だといろいろ不都合や危険があるから、男の格好をさせていたんだ」
「そっかぁ、そういえばもともとロークの一味でそんなことがあったとか言ってたな」
あっさりと納得して、エーギルは引き下がる。ヘズとメイリように新たな料理をこしらえ、二人の前へと置いてくれた。
ヘズは、それが滅多に出されない精緻な作りの特別な皿だということに気づいた。
「じゃあ、今日はヘズの功績を讃えて。それと、メイリの送別会だな」
「え?!」
送別会、と聞いてメイリが目を瞠る。
「どういうことだよ!」
立ち上がり叫ぶメイリに、顔色を変えずにリーグが答えた。
「お前には船を降りてもらう」
「あたしが、女だから?」
「そうだ」
メイリは柳眉を逆立て、ギリ、と唇を噛む。
「差別じゃないか!? そんなのって……」
「そうだ。差別だな。だが長年俺達はそれでやってきた」
「エイルさんは?! 女の人だろ!」
船医を指してメイリは叫ぶ。波打つ髪を肩に垂らした美人は、ヘズ以外では唯一メイリが女の子だということを知っていた人物だ。メイリもエイルには肩の傷の手当を任せたのだが。
「ごめんなさい、メイリちゃん。あたし、オカマなの」
ガンっとメイリがよろけた拍子に頭を壁にぶつける。バルドルも思わず飲んでいた酒を吹いた。ごほごほとむせている。
「き、気づかなかった……」
「とまあ、そういうこった」
ずれかけた話をリーグが元に戻す。
「どうして、女じゃダメなんだ。あたしの腕は見ただろ。あんた達にだって特別ひけをとるわけじゃない」
「そうだ。実力だけを言うならお前はメイナード一家として申し分ねぇ。だがな」
そこで、リーグは言葉を切る。
「海の神は女神。つまり、女だな。女は同性にとかく厳しい。だから女を乗せた船は女神に嫌われる」
「そんなの迷信だろ! あたしはそんなの信じていない! 海底楽土だなんて!」
「俺は信じてるんだ。他でもない。船長のこのリーグ・メイナードがな」
言い切る声に、メイリは口を噤む。誰も何も言うことができなくなり、場に沈黙が下りる。
「俺達は常に海の女神の加護を信じて船を走らせる。陸ではないこの場所では、奇跡としか思えないような場面にいくつも出会う。……だから、お前は船を降りろ」
今にも泣き出しそうな顔で、メイリは唇を噛み締める。先程から噛みすぎて唇を食い破り、端から血が滴った。
「船長」
その場の空気をものともせずに、一人の青年がリーグに声をかけた。バルドルだ。
「何だ?」
「俺もこの船を降りるよ」
さらに場がどよめいた。あちこちで呆然と呟く声がする。ヘズは驚いて目を見開き、バルドルの顔を見た。彼の視線はまっすぐに船長であるリーグへと向けられている。
「この航海が終わったら、財宝探しが済んだら、俺とメイリはグネーヴァル号を降りる」
◆◆◆◆◆
ヘズとメイリの二人は昼間の疲れもあって遅くまで起きていられず、二人とももう休むと言って広間を抜け出した。夜半すぎ、宴会場となった広間ではいくつもの酒瓶が転がり、その合間には早々に酔いつぶれた者達がさらに転がっている。
バルドルは静かに杯を傾けていた。傷のない手の甲を眺める。普通首を絞められた相手は相手のその手の甲に死に物狂いで爪を立てるものなのに、そんな痕一つない。
つい数時間前には確かに人一人殺そうとしたのに今自分はこんなところで酒をあおり、宴に混じっている。
「なぁ、バルドルよ」
「なんだい、船長」
同じ様に杯を手に、リーグが話しかけてきた。口は開かないがその隣に坐している副船長ヴィーザルも話を聞いているのだろう。あとは、円卓の上を片付けるエーギルか。
「メイリはお前の妹なんかじゃねぇだろ」
「……どうしてそう思う?」
「似てないからさ。それにお前達二人の関係はどう見ても血縁には見えねぇ」
「そうかぁ……」
見抜かれてしまっては仕方がない。繊細さとは程遠い外見とは裏腹に、この男は細やかな性質だ。言わなくても少しの素振りで相手の様子の違いに気づく鋭さを持っている。
「ヘズの首の赤い痕」
気まずさよりも、どうにでもなれという投げ遣りな思いが先に立った。先程のあの場面を見られていたのなら尚更だ。
「いい大人が、子ども相手に本気の喧嘩とは情けねぇな」
「そうですね」
「俺もメイリには可哀想なこと言っちまったかな」
「それは構わない。どうせもう一年もすれば、あいつも女らしくなる。いつかは伝えなきゃならないことだったんだ。その役目をあんたに押し付けてしまったのはすまないが」
口を開いて乾いた喉を潤すために、また杯をあおる。注がれた酒は、蜜のような金色をしていて口当たりも良い。
「お前さんには言っとくかな」
リーグの声を背景音楽のように聞く。
「ヘズの右目を俺達は『海の女神の贈り物』と呼んでいるし、この船に乗って日が浅い連中はただそう思っているが、本当のところはそれだけじゃあねぇ。俺達グネーヴァル号の船員にとっちゃあ、ヘズそのものが『海の女神の贈り物』なんだよ」
「あの子は……ヘズはどうやって、あんた達のもとに来たんだ」
「捨てられていたんだ、海に」
「どこの?」
「あそこはオデューセンの北方の港町だったな。こう、闇夜に目立つ白い木箱に赤ん坊が入れられていてよ」
「オデューセン公国……ドレイスの南隣の国だな……」
バルドルはひっそりと呟く。それを聞かなかったようにして、リーグは言葉を紡ぐ。あの時の光景が今目の前に繰り広げられているかのように蘇る。
奇跡よ。
そう、幾度口走ったかわからない。リーグも、ヴィーザルやエーギルも、グネーヴァル号が小さな測量船だった頃からの仲間は皆、海の女神の住む都を信じている。そこに辿り着けなかった者達は。
十五年前には海に出て、十二年前までリーグ達はオデューセンに雇われて測量の仕事を行っていた。今のグネーヴァル号とは比べ物にならない程小さな船だったが、それなりに穏やかで幸せだった。
ところがある日、その平穏は破られた。航海中のリーグ達に、同じ国の私掠船が攻撃を仕掛けてきたのだ。
私掠船とは、海軍力を養うために国から海賊行為を認められた船のこと。けれど敵船でもないリーグ達の船が攻撃をされる理由はない。オデューセン国へと戻ったリーグ達はすぐさま王へと訴えでた。だが。
「あの国王は、違反した船ではなく、俺達を見捨てたのさ」
脅迫を重ねて、リーグ達グネーヴァル号の船員を解雇した。私掠船の攻撃で死んだ仲間達の弔いをする場所すらない。リーグ達は国を追われた。
だが陸の上で、彼らの行く場所などなかった。何処にも帰れない。
彼らの故国は多妻制で、人口増加の度合いが激しかった。出生率が高く、一方で寒冷な気候の土地は作物の生産性に乏しく、食糧不足に喘いだ。貧しい土地に余る人口は、豊かな外洋へと乗り出すしかなかったのだ。海賊の出現には、少なからずそんな背景がある。
けれど、従来の海賊達のように、海へ出てただ他者を侵略し略奪に終始するような、浅ましい海賊行為などリーグ達はしたくなかった。だから、仲間達それぞれが海に詳しいということを生かして、測量の技術を学び、その仕事に就いたというのに。
裏切られた。見捨てられた。もうどこにも行く場所はない。
あの夜、彼らは傷ついた船体を見ながら散っていった仲間を思い出して絶望に打ちひしがれていた。夜に月が昇り闇に星が照らそうとも何の光もこの目には映らないような気がしていた。どうやって生きていけばいいかわからない。
こんな目に遭ってまで、俺達は生きたかったのだろうか。
ヘズを拾ったのはそんな時だった。
「海に流されていた木箱を、俺は拾った。中には、どう見てもこの辺りじゃあ見かけねぇ赤ん坊が眠っていた。危うく海に沈むところだったってぇのに、呑気によう」
子どもの世話などしなれない十八や二十ちょっとの青年達が、四苦八苦しながら何とかその子どもの世話をした。どうせ暇を持て余しているからと子どもを海に捨てた相手を調べ上げ、絞り上げた。
「だが、わざわざ隣国の貴族の屋敷から赤ん坊を攫って海に捨てたその男は、俺達がいくら脅しても、自分でも自分が何をしたのかわからないなんて言うんだ。ふざけるんじゃねぇと胸倉掴みあげたが、本当にわかっていない様子だった」
その時に彼らは思ったのだ。この赤子は海の女神に魅入られたのではないか。彼女に引き寄せられて、ここまで連れてこられたのではないか。この金色の瞳は、その証ではないか、と。
「しばらく必死だったぜ。兄弟多くて弟妹の世話したことあるって奴でも、生後三ヶ月も経ってないような赤ん坊の世話なんかわかるわけねぇ。自分達もまだ二十歳越えるか越えないかで、ガキみたいなもんだったしな」
そしてその子どもの世話に明け暮れた何ヶ月の後、子どもが一人で歩けるようになった頃には、自然とまた海に出ていようかという気持ちになっていた。
「だからヘズは、俺達に取っちゃ『海の女神の贈り物』なんだ。金の眼とかそういうことよりも何より、あいつ自身に俺達は救われたんだよ。子どもってのはいいねぇ。若いってことは、それだけで無限の可能性に満ちているもんさ。生きようとする力が違うんだな」
「……あんただって、まだ若いだろうに」
「お前さんほどじゃねぇさ……人間、一度何もかも失ったって、やり直しの一度や二度ぐらいきくもんだ」
リーグは底に溜まった金色の液体を飲み干し、バルドルは硝子の杯から唇を離す。
「やり直し、か……」
考えたこともなかった。もう終わりだと、そんな言葉ばかりが頭を回っていた。
新たな酒を杯にたっぷり注ぐ。バルドルはだらしなく体勢を崩し、それを一気に飲み干した。
「おう、なかなか野蛮で海の男らしい格好じゃないか。いいのかい? 今までのお貴族様臭が抜けてるぜ。飲みすぎるなよ」
「わかっているさ。これで最後だ」
何もかもこれで終わりだ。
「明日、ヘズの見つけた海底洞窟に俺達は潜る。お前もそのメンバーだぞ。二日酔いなんて情けねぇこと言うなよ……そしてそれが終わったら」
にやり、とリーグは口の端を吊り上げて笑う。豪快で無骨な海の男の笑みだ。ふと彼は全てを知っているのではないかと、バルドルは思った。
「お前達は自由だ」
◆◆◆◆◆
朝日は何度見ても美しい。もっと言うなら、ヘズはその白金の陽光に照らされる紫の空が好きだった。ライラックやラベンダーの花に似た色の空を、雲がよぎる。
昨夜は宴で深酒をしたためか、他の船員はまだ起きてこない。副船長のヴィーザルだけは、二日酔いの影響もなくしっかりした顔つきで見張り台に上っている。
ヘズは船内から甲板へと出た。上で身じろぎしたヴィーザルに手を振っておいて、船の舳先へと回る。そこには船縁にもたれるようにして、バルドルが座っていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
傍目には表情を変えずバルドルは一応返事をする。いつも口元に湛えている笑みではなく、もしかしたらこちらの方が彼の素顔なのではないかとヘズは思った。
「バルドルさんは、何をしにここへ」
「……別に、朝日を見に来ただけだよ」
「好きなんですか」
「……まあ」
「同じですね。俺もこの時間の海が一番好きです」
何を言い出すんだといった顔つきで、隣に腰掛けたヘズの方をちらりと一瞥する。彼からしてみれば、昨日自分を殺そうとした相手に警戒心もなく近付くヘズは不思議でならないのだろう。
「……どうして、昨日俺を告発しなかった。お前が言えば、あの船長はすぐに俺を放り出しただろうに」
「リーグさんはそんなことしないよ。それに、バルドルさんだってもう俺を殺す気なんかないんでしょう」
「何故そう言える。まだたった一晩だ」
「だったら、何で昨夜船を降りるなんて言ったんですか?」
バルドルは答えない。
「何故」
その代わり零れ落ちていくのは言葉なのか感情なのか。
「何故、俺がお前を殺そうとした時、抵抗しなかった」
「何故バルドルさんは、手の力を緩めたんですか。メイリに突き飛ばされる前に、あなたは力を抜いていたでしょう」
「……お前が、先に抵抗する力を抜いたからだ」
隣に座っただけで視線を交わさず朝焼けを眺めたまま、兄弟は話を続ける。
「……お前は、俺の弟なんかじゃない」
「俺は、グネーヴァル号の船員、メイナード一家のヘズです」
「……だから、殺す必要もない」
家族なら、兄弟なら、バルドルにとってそれは憎しみの対象だ。だが、ヘズはもうすでに、ずっと前からメイナード一家の者だった。海に捨てられたとは言っても詳細は知らず、だからこそ実の両親への憎しみではなく、海底楽土への憧れを抱いた。
バルドルがヘズを憎んでも、ヘズは彼を憎まないのだ。それを知ってバルドルもようやく気づく。
「弟が攫われたのは弟のせいじゃない。母上に俺の存在を忘れられたのは悲しく苦しかったが、それは君のせいじゃない」
今まで、十二年も離れていて顔もろくに覚えていなかった家族だから憎めたのだ。だがバルドルはヘズ本人が憎かったのではない。それよりも、母親に忘れ去られ家で惨劇に出会い、自らの行き場をなくした哀しみを憎しみに変えてぶつける場所が欲しかっただけだ。
「俺は、この船を降りる。メイリと一緒にやり直すよ」
太陽はその輝ける姿の全貌を水平線から見せたところだ。そろそろ皆も起き始めて来る頃だろう。朝の海風は清々しく吹き渡り、髪をなびかせる。バルドルの長い髪が陽光を反射して輝くのを見て、ヘズは初めて金という色は美しいのだと知る。
バルドルのことを、兄とは呼べない。けれど彼に出会えたことは、ヘズにとって、不幸でも哀しみでもない。
海の女神よ。
俺は初めて、あなたに礼を言いたい。遠く隔たれて会えるはずもなかった人に会えたこと。再会とはとても思えないが、その中に自分と同じ心を感じたことを。
いや、それだけではなく、リーグやヴィーザル、エーギルにモージ、グネーヴァル号のみんな。港町で出会った人々。メイリ。たくさんの人に出会い、ものごとを知り、それはこの海でなければ永遠に知るはずのなかったことなのかもしれないから。
自分は今まで海底楽土を、哀しみをぶつける場所にしていたのかもしれない。バルドルが弟の存在をそうしたように。金の瞳は忌まわしいものであると同時に、リーグ達の役に立つためには必要不可欠なものであった。愛憎を同時に秘め、嫌いながら焦がれた。海の底の楽園に棲む女神のように。
けれど自分の痛みを、誰かのせいにはしたくない、もう。
絶対に。