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海底楽土  作者: 輝血鬼灯
7/10

7.兄弟

 ローク海賊団との戦いはどうやら勝ち戦だったようだ。リーグを始めとする船員達は意気揚々と船内に戻ってきた。まだ残ってきていない船員もいるが、リーグやヴィーザルの様子を見ていると死人も怪我人も出ていないのだろう。だとすれば、血まみれになった甲板の清掃か。

「ヘズ、メイリの傷の具合はどうだ?」

 物音をきっかけに医務室を出て出口まで迎えに出たヘズの顔を見て、リーグは真っ先にそれを尋ねた。彼とバルドルを伴ってヘズは医務室に戻った。

 そして、その夜は皆おおいに浮かれ騒いだ。浴びるようにとはいかないが酒を飲んで踊りだすものまでいた。

「それにしても凄かったよなァ、船長のあの一撃」

「ロークの野郎が血相変えてたな」

 ヘズとメイリの知らない間に起こっていた出来事を、船員達が代わる代わる聞かせてくれる。あっという間に夜は過ぎた。

 リーグがロークに痛手を負わせたというのはどうやら物凄く劇的な場面だったらしい。だが、肝心の向こうの財宝を奪う余裕まではなくロークの負傷を契機に一味に逃げられ、収穫は全く無しだ。

「これはもういよいよシドレクスの財宝を見つけてやるしかねぇな」

「目の前で見せ付けてやろうぜ!」

 戦勝をあげたことによってやる気を取り戻した男たちが口々に言う。大海賊の秘宝など大半は信じていなかったが、今日のローク一味の様子を見ていると多少の信憑性はありそうだし、何よりここまできたら宿敵ともいえる海賊団を徹底的に負かしたいようだ。

 中途で戦線離脱したせいか、勝ったという実感がそれほどわかないヘズは呆気に取られて皆の意気込む様子を見ていた。海底洞窟の財宝はもちろん気になるが、それよりも今はメイリとバルドルのことに気が向いてしまっている。できるだけ今までどおり接するように努めているし向こうもそうだが、どうしてもどこかに違和感がある。

 彼……じゃなくて、彼女が大事なグネーヴァル号の一員で友人であることには変わりないのだが。

 そして今までよりさらに微妙な距離を保ちながら、日々は過ぎていく。三日ほど経った頃だ。

 いつものように、ヘズは見張り台にいた。

「そろそろ、この地図に書かれているポイントだな」

 例の地図を眺めながらエーギルが言う。ありったけの潜水服で海に潜り、彼らは洞窟の捜索に努めた。

 だが、地図を信じて辿り着いた一帯の海は暗く、空は雲のない面積の方が遥かに多く太陽も照っているのに不思議と辺りが暗く感じる。いや、薄曇の日もそれは変わらなかった。

 青というよりも、もはや黒に近いような色の海。一日では捜索しきれないだろうと二、三日続けて潜ったが、それでも収穫はない。

「なあ、もしかしたら俺達が潜れないぐらい深いところにある洞窟なんじゃないか」

「ほう。で、当時の海賊達は今の俺達より古い、発達していない装備で、装備で、どうやってそんなところに宝を隠したんだ」

「あ」

 そんなやり取りが船員達の間で交わされる。

 だが甲板での様子は知らず、ヘズはただ一人、見張り台で辺りを眺めながら風を感じていた。またいつローク一家や他の海賊達が襲ってくるとも限らないし、見張りは必要だ。だがどうにも下の様子が気になって集中できない。

「俺も海に潜りたいなぁ……」

 暇を持て余して下を眺めると、交代で服を着たり脱いだり、他の船員達は忙しく動き回っている。

「リーグさんはやっぱり目立つなぁ……ああ、バルドルさんの金髪も。ヴィーザルさんは潜ってるのかなあ、姿が見えないや……」

 怪我人のメイリは潜るわけにも行かず、舳先の方でエーギルと共に魚をさばいている。今日の夕食はムニエルらしい。

 そんな光景だけを見ていると、ひたすらに長閑だ。財宝探しの興奮も、敵船と戦う戦慄とも遠いところに自分はいる。

 だがそうやって平和な景色を見ながら、胸の内では形を持たない黒いもやのような感情が渦巻いていた。

 先日のメイリとのやりとり。バルドルに時折感じる冷たい恐れ。リーグ達にそれらを告げていない後ろめたさ。小さな感情が絡まりあって落ち着かない。

じっとしていると頭がどうにかなりそうだ。目を瞑り精神を落ち着けようとする。

 その瞬間、ある映像が瞼の裏に広がる。

(え?)

 それは海の中だった。暗い蒼の世界。その中でも特に入り組んだ岩壁地帯が見える。これはもしかして今、自分達グネーヴァル号がいる辺りではないのか。

 魚たちの目線から見る景色のように、揺らぐ水の中を進んでいく。するとある場所で視線は下がり始めた。もっと深い場所に潜っているのだ。そして。

「リーグさん!」

 右目にしたままの眼帯を毟り取った。目を開けるとヘズは見張り台の上から船長に向って叫び、その反応も返事も聞かぬまま見張り台から降りた。

 縄梯子の最後数メートルを飛び降り、もどかしくサンダルを脱ぎ捨てる。足首に紐をしっかり巻いて固定するのが常だけに、その作業はやたらと鬱陶しく感じられる。

「おい、ヘズ、どうした?」

「リーグさん、俺、見つけたかも!」

 両の目をしっかり開いて、訝り顔のリーグ達を置いて海に飛び込む。

「おおい! ヘズ! ……ヴィーザル、追いかけてくれ!」

 潜水服も着ずに海へと飛び込んだヘズを、上がってきたばかりでまだ服を脱ぎかけだったヴィーザルが慌てて追う。

 ヘズは素潜りで海の中を泳ぐ。海賊の中には泳げない者もいるが、メーナイド一家は船長であるリーグの方針で全員が一応は泳ぐことができる。ヘズは幼い頃からリーグやヴィーザルと共に海に出ていたのだから、その点は心配なかった。

 先程またしても『海の女神の贈り物』が伝えてきた映像を頼りに進む。一度海の中に入ってしまえば、外から水面を眺めるよりずっと明るく感じられた。これが光の反射の問題というやつだろうか。

 ヘズはあるところで見覚えのある岩を目にして止まった。二十メートル程潜り、その岩壁の突き出た突起の一つを覗き込む。思ったとおり、映像で見たのと同じ様な穴が開いていた。大人一人分ほどの大きさのそこに顔を突っ込む。まだ水の中だ。

 そこから更に一メートル程上がったところを過ぎると、急に足が地面、いや、岩についた。海底洞窟は入り口がわかりにくいが、そこに入ってしまえば中には空気があった。

 背後でザバァッと水音がする。驚いて振り返ると、潜水服を乱暴に脱いで顔を出したヴィーザルが怖い顔をしている。腕を振り上げたのを見て反射的にヘズの体が竦むと、彼は頬を打つ寸前で手を止め、深く溜め息ついた。

「はぁ……」

「ヴィーザルさん、あの」

「全く何を考えているんだお前は! 潜水服もなしに海に飛び込むなんて。ここは浜辺のある岸のような浅瀬じゃないんだぞ。それにいきなり姿を消して、リーグや皆が心配している」

「ご、ごめんなさい……」

 普段は寡黙というわけでもないのに物静かな印象があるヴィーザルに叱られて、ヘズは一気に冷静になる。

 乱暴に脱いだために足元の水で濡れてしまった潜水服を脇に抱えて、ヴィーザルは濡れた髪をかきあげる。軽く一つに結んだ彼の長い髪から、海水がとめどなく滴り落ちる。二人とも顔を拭う頃にはお互い頭が冷えてきた。

 そうして、先程とはまた別に新たな興奮状態に包まれる。

「やったな、ヘズ。お手柄だ」

 改めて辺りを見ると、そこは確かに海底洞窟の内部だった。入り口は狭いが中は広く、ごつごつとした岩壁を絶えることなく水が伝っている。足元は先程通ってきた入り口に繋がる穴から流れこむ水がヘズの膝ほどまでを満たしていた。

 少し先は段差になっていて、そうしたいくつもの段差が造る複雑な構造がこの空間を海の中にもかかわらず水のない場所にしているらしい。

 いつか立ち寄った街で見た、水張りの神殿がこんな感じだったとヘズは思う。ただし、あくまでも感じだけだ。

 海の中自体が多少暗くてそろそろ目も慣れてきたとはいえ、洞窟内には明かりがない。岩壁の輪郭だけがなんとなくわかる。そして壁を伝う水の音が絶えず聞こえてくる。

 本格的に訪れるなら、防水措置の施された袋や箱の中に、灯りをつけるための道具を入れてもってこなければいけないだろう。壁を伝って水が降ってくるから、傘も必要だろうか。

「島のこともあるし、今はこれ以上進まない方がいい」

 しばらく冷静に周囲を観察していたヴィーザルが口を開く。ひっかけであったあの島でさえ御丁寧に様々な罠を仕掛けていた者が、本命の財宝を隠したこの場所に何も仕掛けていないはずはないと言う。

「そうですね。それに、こう暗くちゃ進みようがない」

「ああ。一度、船に戻ってリーグに報告しよう。その上で改めて対策を練るか」

 ヴィーザルが潜水服を貸してくれるといったが、ヘズは断った。第一、メイナード一家の中でも長身のヴィーザルが着ていたものでは、子どものヘズには大きすぎる。

「ではせめて、今度はすぐに海上へ顔を出せ。リーグ達が心配しているだろうからな」

 頷くと、ヴィーザルはようやく潜水服を着込んだ。ヘズは肺いっぱいに空気を吸い込んで、再び水の中へ。

 蒼い世界を登っていきながら、目元は自然に緩んでいた。


 ◆◆◆◆◆


 夢を見る。蒼く暗い夢を。

 そこが何処なのかはわからない。ただ夜のように暗く、海のように蒼いということしか知らない。その中で、自分は誰かを見つめている。

 信じられない気持ち、苦い心、ほんの少しの怒りと憎しみとそれよりずっと大きな哀しみと言う名の感情で持って、相手を見ている。こんなにも間近で見つめているのに、それが誰だかどうしてもわからない。怒っているのに悲しくて、同時に何故か胸の中には歓喜を携えていた。

 ただ待っている。目の前のその人が、この首を絞める瞬間を。それがまるで至福の瞬間のように。

 やがて目の前の影が動く。こちらに向い腕を伸ばしてくる。触れる指先の冷たさ。喉を滑る指の感触。そして。


 ◆◆◆◆◆


 すっかり忘れていた。梯子を上って船上へと上がった途端に、ヘズはそう思った。失敗した、と。

 深い紺色の瞳に真っ直ぐ捕らえられ、ふと、あることに気づく。

 海の女神の贈り物である金色の瞳を、ヘズは先日メイリに見せた。だが、その兄であるバルドルには一言も言っていないし、あの時の様子から考えれば、メイリが知らせるような素振りもない。彼女は意地っ張りのようだから、わざわざ自分が泣く羽目になったくだりをバルドルに話したりしていないのだろう。

 そしてここ数日間、バルドルから何か話しかけられることもなかった。

 自分は海に飛び込む時に、思いっきり眼帯を放り投げて船を飛び出した。その場に誰がいるかも確認しないで。

 ヘズが梯子の一番上に足をかけたところで、手が差し伸べられたのだ。金色の髪。紺の瞳。

「バルドルさん」

 いつものにこやかな表情はそこにはなく、ひたすらに彼は押し黙り無言でヘズを引き上げてくれた。その顔に、いつもの得体の知れない怖さを感じる。

船の中でこのことを知らなかったのは、バルドルだけだったのだ。

「驚いたよ」

 落ち着いた声だ。だが、内面までそうなのかはヘズには推し量れない。低く囁いて他の者には聞かせない。

「話があるんだ。後でいいけれど」

 思いもかけないバルドルの言葉と背筋の寒くなる無表情にヘズが固まっていると、彼の横から顔を出したリーグがヘズの肩をつかんだ。自分の方へと向き直らせる。

「ヘズ、お前結局どうしたんだ?」

「あ、えっと、……海底洞窟の位置、わかったよ」

「本当か!?」

 驚くリーグの様子も、ヘズにはいまやたいした問題ではない。

「詳しい様子は、俺よりヴィーザルさんに聞いた方が……」

「ああ。おい! ヴィーザル、ヴィーザル! ……ヘズ、よくやったなお前、今日はもう休んでいいぞ」

 偉いぞ、とがっしりした手のひらでヘズの頭を撫で、リーグは潜水服を脱いだヴィーザルの方へ歩いていく。残されたヘズは、バルドルへと顔を向けたが、彼はフイと顔を横に向け身を翻すと、他の船員達と共にヴィーザルを取り囲む輪に加わった。

 入れ代わりのように、乾いた布を抱えてメイリがヘズのもとへ向ってくる。

「船長が、ヘズは疲れているようだから休ませてやれってみんなに……」

 歯切れが悪く口ごもるのは、彼女も先程のバルドルの態度を見ていたからに違いない。

「メイリ」

 差し出された布でまず顔を拭いた。髪からも服からも、ひっきりなしに雫が垂れる。身震いしそうだった。それは濡れた肌が温もりを失ったためか、それ以外の理由か。

「俺、バルドルさんに話があるって言われたんだ」

 メイリがきゅっと口を噛んだ。

「どうすれば、いいんだろう」

 どう言っていいのかわからない。

 いくら同じ金髪碧眼でも、先程真正面から手を差し出すバルドルの姿を見た時、まるで自分がもう一人いるようだなどと思ったなんて。


 ◆◆◆◆◆


 駆け足で時は進む。かつて雷神トールを怒らせて僕とさせられた俊足のスィアールヴィが走るように。

 空は太陽の血のような赤い残照を残して忍び寄る宵闇に沈み、黄昏と別れを告げて夜を迎えた。

 海底洞窟を見つけてついに財宝探しも佳境を迎える。今日は前祝だと他の船員達は酒をあおっていた。皆で集合し会議をする際に使う一番広い船室は宴会場と化し、飲みすぎる仲間達にリーグが釘を刺して回る光景が目に浮かんだ。

 だが、ヘズはその明るく慣れた映像を瞼裏からさっと振り払う。目の前に視線を戻すとバルドルが眉をしかめて立っている。

 甲板には強めの風が吹いていて、早々と昇って来た月の光は蒼い。海の中に潜った時と同じ様な青さだ。薄い瑠璃の杯に似たような色があったと思う。

「……お待たせしました」

「いいや」

 素っ気ない返事。彼の視線は、眼帯を外したヘズの右目にと向けられている。形の良い唇が薄く開かれ、囁くように言葉を紡ぐ。その声は風に流されもせず、ヘズの耳にしっかりと届いた。

「メイリが俺の弟じゃないことは、すでにあいつから聞いているだろう」

「どうして?」

「君は途中から、あいつが女だということに気づいていたようだからな。それに、今の反応が何よりの証拠だ」

 驚きもせずに言葉を受け止めたヘズに、バルドルは小さく息をつく。軽く息を吸って、語りだす。

「俺はドレイス国のベリア伯爵が長男バルドル・ベリア。もっとも、ベリア伯爵家なんて、今は滅びた家だがな」

 ドレイス国は、メーナイド一家が普段航海しているこの海よりもっと北の方にある国だ。当然、ヘズも訪れたことはない。

「十二年前、ベリア伯爵の屋敷に何者かが侵入し、生まれて数ヶ月の赤子を攫っていった。それこそが俺の本当の弟。髪の色は金、そして瞳は……左目が紺で、右目が金」

 ヘズは思わず右目を押さえた。

「君が……俺の弟なんだろう。ヘズ」

 顔立ちはよく見てみなければ似ているかどうかなんてわからないほどだ。だが、余りにも特徴的なこの右目。こんな容姿だからこそ自分は無関係だと思おうとしたのに、それこそが彼の弟の目印だったなんて。

 バルドルの弟は金髪碧眼。だが両方とも金の蒼い瞳なんて誰も言っていない――!

「お、俺は……」

 生き別れとなった兄に再会した。こういう時何と言えばいいのだろう。十二年前、バルドルは八歳かそこらだったろうが自分は生まれたばかりの赤子だったし、急に貴族の身分などと言われてもピンとこない。バルドルの立ち居振る舞いに感じられる上品さは船内の誰もが感じていたが、自分がその身内などとても実感が湧かない。

 だが昼間、日の光の下で真正面から見据えてきた彼の顔立ちは、ほんの少しばかり自分と似ていたのではないかと思う。

 それに、何よりも気になることは。

「うぁ!」

 こちらが胸を襲う戸惑いに動けないうちに、音も立てない静かな歩みで近付いてきたバルドルがヘズの肩口を掴んで押し倒した。力ずくで押さえ込まれて受身を取れず、オーク材の硬い床で強かに頭を打つ。

 一瞬視界が真っ暗になり真っ赤へと色を変え星が散った。きつく瞑った目を痛みが引く頃にようやく開くと、恐ろしいぐらい無表情で、バルドルが上からこちらを覗き込んでいる。結んでいない長い髪が垂れてヘズの頬を撫でた。

「何故、ベリア家が滅んだと思う?」

 骨が軋むほどに強く腕を押さえられる。痛いとも言えずに、こちらを見下ろす青年の紺色の瞳を見つめた。

「母上の狂乱のせいだ」

 答など最初から期待していない口調で落とされる声。

「俺が海に出たのは六年前。ちょうどその頃、屋敷は惨劇の場となった。そして母上を狂わせたのは、その六年前に、次男が誘拐された事件のせいだ」

 ――何よりも不思議だったのは、俺が弟だと言いながら、どうしてこの人はこんな冷たい目で俺を見るのか。

「攫われた弟の手がかりは、伯爵家の力を持って調べても手がかりすら掴めなかった。まるで神隠しのようだと言われていた。もともと繊細なところのあった母上は、精神を病んで……それ以来、俺を見なくなった。庭の薔薇の茂みをかき分けて、お前を探していた」

 声は淡々としているのに、その瞳に宿るのは海の底でも揺らめくだろう炎だ。

 ああ、だからだったのか。ヘズはずっとバルドルが怖かった。この紺色の暗い海の色の瞳が恐ろしかった。

 それは、この瞳の中に、自分への憎しみの光が宿っているのを知っていたからだったのか。

「お前にわかるのか! ……こんな海の果てでも、海賊達に可愛がられていたお前に。母が手にしていた刃物であやまって父を刺し殺す瞬間を見てしまった子どもの気持ちが!」

 覗き込む彼の長い金髪が、ヴェールのようにヘズの顔の周りを囲った。

「気が触れた母上は、俺を見なくなった。お前がいなくても俺はいるのに。ここにいるのに」

 あの日、攫われて屋敷から姿を消したのはヘズの方だ。けれど彼女の世界そのものから抹消されてしまったのは、兄であるバルドルだった。

 目の前にいるのに見てもらえない。相手にしてもらえない。ここにいるのに。確かにいるのに。弟はいなくなったけれど、自分はいる。けれど忘れ去られてしまった。その心から。……そして家自体も惨劇によって滅びた。

 この地上の何処にも居場所がない。帰れない、何処にも。

 だから。

「お前なんか死んでいればよかったんだ」

 伸ばされる腕。首に触れる指先は、凍えているかのように冷たい。だが何故か、視界を覆いつくそうとしているその顔には憎しみではなく、ただ深い悲しみだけが在った。

(ああ)

 俺はこの光景を知っている。夜の甲板に差し込むのは薄蒼い月光。

 幾度も夢に見た。得体の知れない予感のように。

『待っていたからだよ』

 ふと思い出す。いつかの彼の言葉を。こんな時なのに。こんな時だからこそ。

『死んで、海底楽土に辿り着くのを。あの時はそれでもいいかと思っていた。どうせ俺達に、地上での行き場所なんてないんだから』

 朝焼けの甲板で昇ってくる朝日に照らされて、けれど彼は影を背負っていた。ライラックの薄紫の花弁を敷き詰めたような空が、そのまま彼の心を表しているようだった。

 ヘズは体の力を抜く。柔らかな喉首にバルドルの指が食い込んだ。謝る資格すら自分にはないのだ。彼のために何もしてやれない。

 苦しさに顔を歪めているのが自分ならば、悲しさにバルドルの眉も歪んでいる。同じ色の瞳から放たれる視線が交錯した。

 居場所がないのはずっと自分の方だと思っていた。グネーヴァル号を降りたらどこにもいけないのだと。けれど。

 ふっと唐突に、首を絞める手が緩んだ。

「だめぇええええ!!」

 悲鳴にも似た制止の声は、もはやヘズの耳には届いてはいない。甲高い少女の声に、バルドルが肩を揺らす。その彼を突き飛ばすようにして、メイリが飛び込んできた。

「何やってるのバルドル! ヘズはお前の弟なんだろ! どうして殺そうとするの!」

 全体重をかけてヘズの上からバルドルを突き飛ばしたメイリは、そのまま彼の胸倉を掴んで問い詰める。緑の瞳には涙が浮かんでいた。

 解放されたヘズは、酸素を求めて大きく咳き込む。こめかみにじっとりとした汗が浮かび、咳き込みすぎて涙が浮かんだ。

「ごめん、ヘズ……本当のこと言えなくて。……お前が本物の弟だとわかったら、偽者(あたし)はお払い箱になるんじゃないかと思った……」

 消え入りそうな声で、メイリが言った。そのことを後悔しているのか、強く唇を噛む。それは彼女が悔しさをこらえる時の癖だ。

「おい、どうした!? お前ら!」

 騒ぎを聞きつけて、リーグとヴィーザルが船内から甲板に上がってきた。他の船員達も、なんだなんだと顔を出す。その彼らを抑えてから、リーグがヘズ達の方へ歩いてきた。

「何をやらかしたんだお前ら……」

「な、何でもないよ……親方」

 まだ軽く咳き込みつつ、ヘズは答えた。

「ちょっと……喧嘩になっただけ」

「お前と、バルドルで?」

「ああ……」

 リーグは不信の表情で、それぞれの表情を見比べた。泣き顔のメイリと、疲れた表情のヘズ。だが俯くバルドルの顔はわからない。

「バルドル」

「ああ、悪い……船長。ちょっと、ふざけすぎたんだ」

 ようやく顔を上げたバルドルは、いつも通りの彼だった。口元には笑み。けれどそれはいつもより深く、自嘲するような皮肉の棘を食んでいた。

「そうか……それならいいが。……ところで」

 納得はしないが黙殺する、そんな様子で眉をしかめたまま、リーグは話題を変えるように意味深なところで言葉を切った。

「メイリ……お前、ひょっとして……」

 体当たりをかけたときに服が乱れて、肩で縛っていた布地がほどけている。メイリは一瞬顔を赤らめてそれを直し、しまったという顔をした。

 バレてはいけない人物に、ついにバレてしまったのだ。

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