3.メイナード一家
拾った漂流者の二人を街に届ける必要がなくなったので、グネーヴァル号は当初の目的どおり近隣の島の発見と海の探索に努めることにした。海は蒼く深い。浜辺や港ではなく海洋の真ん中、何処を見渡しても水平線しか見当たらない位置で見るとなおさらそう思う。
青であり蒼でありところによっては藍でもある。その下には楽園があると言う。死の女神の住まう楽園が。
「どんなところなんだろうな」
見張り台の上で一人、ヘズはポツリと呟く。
「何をだ?」
途端、声をかけられた。
「わぁああ!」
「おい、落ちるぞ」
驚きのあまりに思わず見張り台の柵を上半身が乗り出してしまう。片手で自分の体を支え、もう片手は双眼鏡を絶対に離すまいと掴みなおす。こんな高さから落として下の人間に当たりでもしたら命がない。
双眼鏡を持っているために体を支えられない不安定な左半身を、誰かの手が支えた。ゆっくりと体勢を戻す。ヘズは咄嗟に右目を片手で隠した。
「何しに来たんだよ」
先程声をかけてきた相手はメイリだった。短い黒髪を風になびかせて佇んでいる。ふと、落ちそうになった体を支えてもらったことの礼を言うべきかと考える。だがそもそもの原因は突然声をかけてきたメイリだったのだと気づき、開きかけた口を慌てて噤む。
「別に。暇だったんだ。」
そう言う彼は、昨日と同じ、睨み付けるような目をしていた。深い緑の瞳がきつい光を宿していた。人当たりの良いバルドルとはあまり似ていないような気がする。確かに二人とも女性のようなと言えば複雑だが中性的で優男系の顔つきをしているが、本当に兄弟なのだろうか。
「仕事は?」
「食事の支度を手伝えと言われた。その時間まであと二時間もある」
「だからって、何でこんなところに来るんだよ」
「いいだろう。一度こういうところに昇ってみたかったんだ。前の船ではこういう仕事は任されなかったからな」
「だったら、自分の担当の時に満喫すればいいだろうが」
何故わざわざこの自分の仕事中に邪魔をしに来るのか。
「別に邪魔をしにきたわけじゃない。ただ……この船の当番表を見せてもらったが、他の船員に比べてお前の見張り担当はやけに多いんだな」
ヘズの顔から一瞬にして血の気が引く。こうなれば、次に来る質問は一つだ。
「何故だ?」
それは、俺が、『海の女神の贈り物』をこの右目に持っているから。だがその言葉を口にはできない。劇的な演出とか、メイリに偏見の目で見られて馬鹿にされるのが嫌だとかいうわけではなく、彼を通してバルドルに知られるのが怖い。
「別に……俺、他の人より目がいいんだよ」
「片目なのに?」
「片目だからじゃないか?」
「ふぅん」
メイリはそれ以上詮索することはなく、海の上へと視線を戻した。柵の上に腕を置いて、顎をもたれる。見張り当番なんて、基本的に退屈な仕事だ。何処からが海で何処からが空かもわからない青一色の景色を延々と眺めるだけ。白や薄色の雲だけがそれを分ける指標となり、島が近付けば海鳥が飛んでくるのに出会える。岸から離れれば離れるほど仕事は暇になって行く。
こんなものをメイリは楽しいと感じるのだろうか。……俺も楽しいけど。
ヘズには金色の右目があるから、人よりも遠くの景色が見えるからだ。そのおかげで航海士が多少天候の予測を外しても、雨雲を早くに見つけて嵐を避けることができる。ナントカと煙は高いところが好きという言葉をふと思い出した。だがナントカに当たる部分は確か不愉快な言葉だった気がするので、はっきりとは思い出したくない。
メイリに背を向けて右目に双眼鏡を当て、意識を見張りに集中しようとした。その途端、またもやメイリがこちらに顔を向けずに話しかけてくる。
「なあ、お前さ」
「何だよ」
「見張りはよくやるけど、食事当番はほっとんどしねぇのな。料理下手なんだろ? だから見張りに回されてるんだな」
「な、なんだよ! 悪いのかよ!」
しまった、これじゃ否定になっていない。そう気づいたのは、メイリが喉の奥でくくっと笑った時だった。確かに、ヘズは見張りに向いているだけでなく、料理ができないので見張りに回されるというのもある。
それに、今下でリーグやヴィーザル達が帆の調節をしようと綱を引いている。力がないから、ああいった作業にも加われない。所詮自分は無力な子どもだ。女神の贈り物がなければ、今この船に乗っていることなどできなかっただろう。
「お前は、何でこの船に乗ってるんだ?」
「え?」
相変わらず海を眺めたまま、メイリが尋ねてくる。ヘズは双眼鏡を下ろし、右目を押さえた。唐突な質問に、言葉を出そうとした唇も空回りする。その短い沈黙をどう受け取ったのか、彼は言葉を足した。
「別に、答えたくないならそれでもいいけどさ。今までもいろんな船に乗ったけど、お前みたいに子どもがいるところなんて初めてなんだよ」
「俺は……」
予想もしていなかった質問に驚く。そうして、気づく。メイリの聞き方は酷く素直だ。知りたいから聞く。答えるのは相手の自由。バルドルの、口調は柔らかいけれどどうしても答えなければすまないような、あの尋ね方とは違う。だから、だろうか。二人が似ていないと思うのは。
自分が船に乗る理由なんて聞かれたことはなかった。ヘズのような子どもが海賊船と目されるグネーヴァル号に乗っていると知った者達は、こちらが奴隷やらリーグ達の血縁やら海賊志望で自分も将来悪さをする企みを持っているやら、適当な理由を自分達でつけてくれた。だが、真実はこうだ。
「俺は、海に捨てられていた子どもなんだ」
十二年前の今頃、リーグとヴィーザルやエーギル、昔からグネーヴァル号に乗っていたメイナード一家の創設組は、港から程近い場所を流れている木箱を見つけたのだと言う。
その中に詰め込まれていた赤子。それがヘズだった。当時十八やそこらだったリーグは、何の義理もないその赤子をわざわざ育てることに決めた。だから彼はヘズにとって父親のようなものだ。
「親方に助けられて、しかも育ててもらった。だからこの船の助けになりたい。それに……」
海底楽土をこの目で見てみたいから。
声には出さず、胸の内でだけ呟く。海の底にある楽園の話。測量を目的とするこの船は、潜水スーツで海に潜ることもある。深く暗い海の底も、いつかは見ることができるのかもしれない。
ヘズはまだ知らなかった。この船が浮かぶ大海原がどれだけ深いのか。生身の人間が到底辿り着ける場所ではないと。
妙なところで言葉を切ったヘズが先を続ける気がないのを見て取ると、メイリは口を開く。
「何だ、俺と同じか」
「え?」
その言葉に、今度はヘズが驚いた。
「俺も捨て子だ。海じゃなくて陸だけどな。孤児院を逃げ出して一人で路地裏でスリをしてるような時に、バルドルと会った」
「って、だってお前バルドルの弟なんだろ?」
それを言うと、しまった、と言うようにメイリの眉が歪んだ。だがすぐにぶっきらぼうに言い放つ。眉間の辺りが険しい。怒っているような口調だ。
「バルドルは優秀だから、捨てられなかったんだよ。俺は両親に嫌われてたってわけだ」
「本当か? 何かお前らって似てないし……」
「悪かったな似てなくて! どうせ俺はバルドルの足元にも及ばねぇよ!」
どうやらメイリは兄のことになると感情を爆発させるようだった。怒らせてしまったのを少し航海しつつヘズが口を開きかけた時、マストの足元からエーギルが怒鳴った。
「おーい、ヘズ! 見張りしっかりやれよ! 昼飯抜くぞ――!」
「ちゃんとやるよ!」
柵から顔だけ出して怒鳴り返した後、ヘズは双眼鏡に目を当てて、視線を海に戻す。メイリのいる方向に向って、ひらひらと手を振った。
「もうお前降りろよ。ここにいられると邪魔だ」
「何だと? ……お前の集中力のなさを人のせいにするなよ」
そうぶつぶつ言いながらも、メイリは毒気を削がれたのか見張り台を降りようとした。その気配を背中の方で感じながら、ヘズは青の彼方へと眼を走らせる。空、海、空、雲、波。他には何も見えない。双眼鏡を下ろし、別の方向を眺めようと、先程までメイリのいた場所に移動する。レンズを目に当てる前から、何かが右目に映った。
「船長!」
見張り台の上から叫ぶ。
「船だ! 船が見えるよ――!!」
◆◆◆◆◆
リーグは甲板に出て作業をしていた。昨日も今日も風に恵まれ、波は穏やかだった。帆の扱いさえ間違えなければ、船がよく進む。羅針盤の針が指すのより右、東の方向をグネーヴァル号は気持ちよく走る。
新入りのバルドルは細身で優しい顔立ちをしているが、力はあるようだ。リーグとエーギルに説明され、この船の仕組みを水でも飲むようにあっさりと覚えこんでいく。さらに、彼らが出航してきた港町や、近隣の国々などの事情にも詳しかった。剣と言うよりむしろ、そちらの方が役に立ちそうだとリーグは思った。
彼らは海に出ていることが多い以上、陸の情勢には疎い。その地に足を踏み入れて初めてその国の内情を知る。だがバルドルに言わせれば、王族周辺の権力形態や天候による食料の出来具合から少なからずその国がどんな状況下に置かれているかの察しはつくのだそうだ。
「なあ、兄ちゃんお前何者だ? ただの風来坊じゃあねぇだろ。それに金髪はお貴族様に多いもんじゃねぇか」
バルドルの背に流れる髪にちらりと目をやり、リーグは尋ねる。
「とんでもない。うっかりヘマして海賊船を追い出されるような男だよ俺は」
「それは弟くんの方だろ? 何やったか知らないが、たいした兄弟愛だな。こいつは俺の勘なんだが、ひょっとしてお前らがすぐ殺されずに小船一艘与えられたのは、お前がいたからじゃないか?」
海賊と呼ばれるようになって久しいリーグは、もちろん、船内でも腕が立つ。純粋な剣技は副船長であるヴィーザルの方が上だろうが、力では負けない。そして何より、何度も死線を潜り抜けてきた男だ。
グネーヴァル号の本来の目的は測量であり、専業の海賊ではないのでもとから武力を積極的に必要としているわけではない。また、商売のための積荷を守るために護衛を雇う商人でもない。
彼らだって始めから強かったわけではないのだ。最初の頃は、自分達が生き延びるので精一杯だった。相手を生かして返す余裕などなく、財宝を奪う気力などもなかった。争いを好むどころか、恐れていた。何度も死にかけ、ようやく今、少しずつ名が知れるほどには強さを手にした。それを望んでいたわけでもないが。
「お前とやりあうには、相当の腕が必要だろうな。戦って無駄に血を流すより、何とか言いくるめて船に乗せるほうが向こうにとって危険度が低かったんじゃないか」
「へぇ。さすがメーナイド一家の船長だ。いい線行ってるね」
口の端を吊り上げるようにして、バルドルは静かに笑う。上品な顔立ちにその仕草はそぐわないようだが、よく見ると酷く馴染んでいるようにも思えるのだから不思議だ。
「ただ一つ違うのは」
バルドルがそう口を開いたところだった。
「おーい、ヘズ! 見張りしっかりやれよ! 昼飯抜くぞ――!」
「ちゃんとやるよ!」
エーギルの怒鳴り声に、毒気を抜かれた。つられて見張り台を仰ぎながら、思い出したように口にする。
「そういえば船長、俺以外にもいるじゃないか、金髪」
「それに碧眼のヘズがな」
「そうそう。あの子はどうしたんだい?まさか貴族の家から攫ってきたわけじゃないんだろ?」
「人を勝手に人攫いにするなよ。俺達は海賊から宝を奪っても人間を売るような真似はしねぇ」
リーグは強面なので、外見だけなら人間を売るような真似をする人間に見える。
「あいつのことはあいつ自身に聞きなよ兄さん。それで嫌がられたら、嫌われてるんだなと思いな」
「酷いなあ。まだ何にもしていないのに」
まだって何だとは、周りでうっかり聞いていた男達には突っ込めなかった。
「いやあ、朝方会った時に右目の眼帯のこと聞いたんだけど、教えてくれなかったからさ。本人には尋ねづらいこともあるだろう」
「しっかり聞いといて言う台詞じゃねぇな、それは」
リーグは朝からヘズの様子がおかしいことに気づいていた。幾度か不安げにバルドルを見遣り、さらには何か物言いたげにリーグの方を見つめてくるのも知っていたのだが、幼いとは言ってももうそろそろこちらの手を離れてもいい年頃の少年としての人格を尊重して、放っておいた。
さりげなく気は配っていたのだが、やっぱり嫌われるようなことをしていたのか、この男。
リーグはまだ天を仰いでいるバルドルの様子を横目で窺う。立ち居振る舞いはこんな野暮ったい船に乗っているのがもったいないほど凛々しく優雅で、面差しも女性好きするような男だ。だが、どこか影がある。そしてそれは決して綺麗なものじゃない。長年の航海で様々な土地を訪れ人と出会い、また穏やかならぬ戦いを繰り広げたリーグには、それがわかる。
「バルドル」
先程暇を持て余して見張り台に上がったメイリが縄梯子を降りてきた。兄の側に歩み寄る。
「おう、メイリ。上は楽しかったか?」
「上そのものはね」
含みのある言い方に、周りで聞いていた男達が視線を交し合う。今現在見張り台にいるのはヘズのはずだ。また何か一悶着あったのだろう。
「そっか、よかったな」
微妙な顔をする弟を気にせず、バルドルはメイリの頭を撫でた。普段は毛を逆立てた猫のように威嚇してくるメイリも、唯一の兄には大人しく従う。そんな光景を見るともなしに眺めていたリーグの耳に、見張り台から怒鳴るヘズの声が届く。
「船長!」
「どうした!」
「船だ!船が見えるよ――!!」
西の方を指差しながら叫んでいる。その様子を見て、メイリが首を傾げた。
「あの方向……」
「どうした?」
「さっきまで俺が見ていた方角だ。でも何もなかったぞ」
甲板にいた男達もこぞって西へと目を向けるが、緩やかな紺碧の波間から遥かな水平線まで、何も見えない。
「あいつ、どんな目しているんだ?」
「ヘズは物凄く目がいいんだ」
「俺だって視力は悪くない」
「じゃあそれ以上にヘズは目がいいんだろう」
「獣かよ、アイツ」
リーグはそこから大声でヘズに尋ねる。海風に髪を嬲られながら、ヘズは叫び返した。双眼鏡は覗いたままのようだった。
「ヘズ! どんな船だ?!」
「海賊船―! 黒い帆がついてるよー!」
「何だと……おい、誰かヴィーザルを呼んで来い。部屋で剣の手入れしてるはずだ」
海賊船と聞いて、メイナード一家はどよめく。そろそろ倉庫の財宝も尽きてきたところだ。ここいらで罪のある相手からお宝を奪って一儲けしても罰は当たるまい(当たるだろう)と思っているようだ。
「ああー、来ちゃったかなー、これは」
「だろうな」
その中でただ二人、バルドルとメイリの兄弟だけは何故か渋い顔をしている。
「どうしたんだ、お前ら?」
尋ねるリーグに、バルドルが引きつった笑みを返す。
「このタイミングでこの場所に来る海賊ってさ、俺達がつい先日まで居たところだと思うんだよね」