10.さよなら
嵐が過ぎ去った後の海はいつも穏やかだ。それは人の心も同じ。では、人の心は海なのだろうか。
右目に紺色の眼帯をして、ヘズは浜辺に立つ。太陽の熱で程よく温まった砂が素足を包んで零れる。心地よい。
この場所から眺める水平線は空との境などではなく、限りなく澄んだ青は混じりあいどちらがどちらともわからなくなっている。白い海鳥が賑やかに鳴いて飛びまわり、飛び散った羽が風に流されて目の前をよぎった。
さくさくと砂を踏んで波打ち際まで歩くと、サンダルを履いた足が濡れる。寄せては帰る波の先端は白く泡立ち、何度も近付いては離れ、離れてはまた近付き、けれど絶対に捕まえられない。
ヘズは今陸にいる。あれほど愛していた海ではなく、揺らぎない大地の上にだ。
彼はメイナード一家に別れを告げ、グネーヴァル号を降りた。リーグもヴィーザルも、エーギルやモージ、エイルもみんな引き止めてくれた。
『どうしても行くのか?』
尋ねてくるリーグの声を思い返す。
『はい』
答えた自分の声が蘇る。その瞬間、リーグの顔が闊達で無骨な海の男らしくもなく、情けない泣き顔に歪んだ。次の瞬間には、その顔すら隠れた。ヴィーザルが黙ったままヘズを抱きしめてきたのだ。
『いつでも帰って来い』
『はい』
その言葉しか返せない、表現力のない自分を本当に情けなく思う。いつも彼らが、こんな役立たずで足手まといの自分を本気で愛してくれたことをヘズは知っていた。メーナイド一家は自分のもう一つの家族だ。
だが、もうあの場所にはいられないと思う。今までもたいして役に立っていなかったが、今度からヘズは本当に何もできない子どもになってしまったのだ。リーグ達はそれでもいいと言ってくれたが、ヘズ自身がそれを許せない。だからもしもあの船に帰ることができる日が来るとしたら、その時は自分で自分のことを守れる、そして誰かのために何かをできるぐらい力をつけた時だろう。
今、ヘズの右目に金色の『海の女神の贈り物』はない。
あの日、海の女神のもとに置いてきてしまったのだ。
いや、取り返されたと言うべきだろうか。女神はヘズを殺さなかった。代わりに安息の地である海底楽土に迎えてもくれなかった。腕の中に抱えていた、バルドルの亡骸だけを連れて行った。
あの時、ヘズはいつか見た夢のように、女神の指が首に伸びるのだと思っていた。
けれど細くしなやかなその美しい指は首の後ろに回り、ヘズは彼女の腕に抱きしめられた。その後は覚えていない。
ただ、女神の浮かべていた、この上もなく優しい微笑だけが今は暗い空洞となった右目に焼きついている。今まで使っていた眼帯を今度は本当の意味で手放せなくなる。抉られた右目は、普通の人が見て気持ちのいいものではないからだ。
女神の腕に抱かれた後をヘズは覚えていないが、リーグ達他の船員達の言に寄ればこういうことらしい。彼はあの後、一人でに海面まで浮かんできたというのだ。金の瞳を血も流れないほど綺麗に抉り取られて、あの戦いの最中で解けてどこにいったかもわからなかったバルドルの髪紐を手に結ばれて。
目が覚めても、空洞となった眼窩は別に痛みを感じなかった。手当てを施されて医務室で眠っていたヘズが、起きて一番始めに見たのは、不安げなメイリの顔だった。
『メイリ……俺、海の女神を見たよ……バルドルさんは……兄さんは海底楽土に行ったんだ』
そう告げた途端、それまでバルドルが死んだと言われても涙を流さなかったというメイリが、初めて泣いた。寝台に身を投げ出して、声が嗄れるまで涙を流し続けた。
その彼女は、今ヘズの側にいる。
「ヘズ!」
砂浜が陸に変わる地点から同じように、波打ち際のヘズのもとまで駆けてくる。彼女も船を降ろされた身だ。どちらからともなく、何となく一緒に行こうということが決まった。
そうして、二人は今、大地の上にいる。
自分のような人間は立つこともできないと思っていた大地。
自分の居場所はこの地上の何処にもない。
今までそう思っていたから、海を愛した。海底の楽園に焦がれた。金色の瞳にまつわる辛いことの全てを女神のせいにして逃げて、甘えていた。
けれど、本当は違うのかもしれない。大地は彼を拒絶などしていない。ヘズが勝手に恐れていただけで。ほんの一歩の勇気さえあれば、いつでもここに立つことはできたのだ。
「メイリ」
「うん?」
「……行こう」
「ああ!」
男装をやめて少女の服を来た彼女は、十分愛らしく可愛らしく見えた。まだ、バルドルのことを思い出して泣くこともあるけれど、いつかは越えていけるだろう。
深く蒼い海の底に、その楽園はある。
そして俺達は、いつか必ず彼が眠るあの海に帰るのだ。あの波の下の楽園へ。この地上で自分ができる全てのことをやり終えたとき、今度こそ愛しくて残酷な、女神に愛されるような人間になって。
海底楽土に眠るだろう。
了.