水の魔方陣・焔の剣<2>
冴えた光を放つ月が、夜空に掛かる。
その日、リベアはほろ酔いでご機嫌だった。
「おめでとう。リベア」
まだまだ幼さを残す皇女からの祝いの言葉は、つたないものだったが、自分に向けられたものだと思うだけで、心が震えた。
もともと貧困な家庭の口減らしで、城の兵士になったリベアである。御前試合などに興味は無かったが、それでも皇女の期待をこめた瞳に逆らうべくも無く、仕方なく出たまでだ。
だが、皇女は自分の騎士が負けるなどとは思ってもいないし、只でさえ皇女のお気に入りということで風当たりはきつい。ある程度の成績を残さなければナニを云われるか解ったものでは無い。
負ける相手が隊長クラスならば良いが、一般兵士に負けたりする訳にはいかなかった。
結果としては見事に準優勝。決勝で負けた相手は皇子の教師役で近衛師団の隊長バース・エデンとあっては上出来と云っていい。と云うか世渡りの下手なリベアにしては出来すぎだった。
何事にも真剣で熱くなりすぎるきらいの有るリベアが怖かったのは、負けないことに夢中になるあまり、怪我を負わせてはいけない相手に怪我を負わせたり、勝ってしまうと角の立つ人間に勝ってしまったりすることだ。
しかし、初出場のリベアの組には、高貴な身分の騎士はおらず、リベアは存分に腕を振るうことが出来た。
しかも、決勝の相手であるバースが、リベアの腕前に感嘆し、近衛の騎士にどうかと言ってくれたのだ。今まで、皇女のお気に入りと云うだけで優遇されていると云われていたリベアの実力を認めてくれた人間が出来ただけで、他人のリベアを見る目が変わったことを、リベア自身が感じていた。
その夜の宴会では、初めて他の隊のテーブルに呼ばれ、振る舞い酒を受け、リベアは何時に無くご機嫌だったのだ。
つい酒を過ごしてしまい、酔いを醒ますつもりでふらりと庭に出た。下弦の月の美しさに誘われるように散策を楽しんでいたリベアは、いつの間にか、魔術師の住まう西の宮に迷い込んでいた。
「不味いな」
見つからぬうちに帰ろうとしていたリベアだが、どうやらそれは遅かったらしい。
「リベア・コントラ隊長ではありませんか?」
柔らかい声が宮の上から降ってきた。どうやら、見つかってしまったらしい。閉鎖的な魔術師たちの住まいに迷い込んだ自分自身を、リベアは心の中で罵倒する。
「すまん。月の美しさに誘われて迷い込んでしまった。すぐに出て行く、許してはもらえないか」
云いながら、階段の上にいる魔術師を見あげる。
魔術師たちは、男女に関わらずいずれも美しい容姿をしているが、その中でもこの男はとびきりだった。
かといって女性的なのでは無い。美しさの中に、硬質な男性的なものがある。紫紺の瞳がリベアを見下ろしていた。
「別に咎め立てする気はありません。リベア殿は本日の主役の一人でしょう。このような所におられてもよろしいのですか?」
柔らかい笑みを浮かべたまま、魔術師が階段を降りてくる。その顔に見覚えがあった。
「はじめましてですよね。正式には。私の名はソルフェース・クライ」
「ああ。何度か見掛けたことはあったが……。一応、はじめましてだな。蒼の魔術師殿」
リベアは用心深く応えた。蒼のソルフェース。この国では最高峰といわれる魔術師の一人だ。通常、魔術師には名乗る習慣は無い。それはその真名を魔術の封じに使われる為だ。
正式な名を告げるのは、自分より上位の魔術師に限られる。
「ソルと呼んでもらっても構いませんよ。リベア殿になら」
だが、リベアの用心を、ソルフェースは鼻先で笑い飛ばした。馬鹿にしたような言い草に、只でさえ薄いリベアの抑制心は切れ掛かっていた。
「それに、魔術師としてではなく、話があるのです」
「話――――だと?」
すんでに走った殺気に近いものを感じて、リベアはその場を飛びのいた。
リベアが寸前までいた場所を、鋭い切っ先が掠めていく。
「魔術師ッ?」
「へぇ、中々の腕前だ。やはり御前試合の上位者ともなると違うものだな」
ソルフェースは長い刀身を隙無く構えていたが、それは唐突にその手に現れたようにしか見えなかった。
「貴様、一体……」
何故に切りかかられるのかさっぱり解らず、ただ唖然とするリベアとは反対に、ソルフェースはゆったりとした笑みさえ口に刻んでいる。
「俺は、今まで誰にも負けたことが無いんだ。お手合わせ願いたい」
魔術師は先ほどまでの丁寧な敬語もかなぐり捨てていた。
本気だ。そう悟ったリベアは腰の剣を抜く。
「俺は、そんな訳の判らん戦いをする気は無いと云っても、無駄なようだな」
お互いに、剣の位置は確実に相手を屠ることの出来る処だ。
「もちろん、ただでとは云わん。リベア殿が勝ったのなら、この蒼のソルフェースが守護に就こう」
騎士団自体に守護の魔術師が就くのは、別段珍しいことではないが、個人的にとなれば、話は別だ。余程の高貴な騎士ならともかく、たかが国境警備の兵士にとなれば、破格の待遇である。
「それはまたすごい。だが、俺が勝ったら。と云うことは、負けた時の条件もあると云う訳だ?」
お互いに一歩さえ引けない状況だと云うのに、リベアはまだ無為な争いごとはしたくないと考えていた。自分のプライドなどたいしたものでは無い。条件が呑めるものなら、呑むつもりで、リベアはソルフェースに問い掛ける。少なくとも、城内で魔術師と争ったと云うだけで、後ろ盾など無い、リベアごときの首は簡単に飛ぶ。
「まだ、その気にならないと云う訳だ。まぁ、俺はどちらでもいい。リベア殿、貴方のその躯、俺の自由にさせてもらう」
にやり笑うと美男子の魔術師の顔に、下卑た色が浮かんだ。
あまりに似合わないその表情と言葉に、リベアはあっけに取られてしまう。
「魔術師の趣味は変わっている」
口に出したのはそれがやっとだ。魔術師自身も、同僚の魔術師たちも、一様に見目麗しい賢者たちだ。それが何故に、平凡を絵に描いたような自分であるのか。
「リベア自身が知らないだけだ。剣を振るう貴方は充分に美しい」
余りにストレートに云われて、リベアはそんな場合では無いというのに、頬が熱くなった。
「リベア、いいか?」
戦う条件はそれでいいのか。と、問われて、リベアは再び剣を構えた。頭を下げろと云われれば、いくらでも下げるが、その条件はさすがに呑めない。
「本気で行くぞ」
「望むところだ」
リベアの宣言に、ソルフェースが応えた。
ソルフェースはすばやい動きで、リベアを翻弄する。
振り下ろされる刀を受け止めているだけだ。
だが、リベアの剣は実用一辺倒の厚刃のものだ。うまく逃がせば、ソルフェースの持つ細身の剣等、ものの数では無い筈。
何合も打ち合って、魔術師の疲れを待つ。
自分より長身ではあるものの、兵士である自分に、実戦経験の無い魔術師が対抗できる筈が無いと高を括っていた。
渾身の力で振り下ろされたソルフェースの剣を、余裕を持って受け止める。
余裕が無ければ、リベアの方が圧倒的に不利だった。と云うのも、これも御前試合と代わらず、相手に怪我をさせてはいけないと云うハンデが存在していたからだ。
受身に徹し、疲れたところを見計らって、一撃で打ち倒すことしか、完全な勝機は無い。
月明かりが剣を振るう二人を静かに照らす。
だが、ふっとソルフェースの斬撃が止んだ。
どうやら、疲れを誘う作戦は見破られてしまったらしい。
そうなると、今度は自分で打ち込んで行くしかない。だが、実用重視の厚刃の剣は、闇雲に振り回しては己が疲れるだけだ。
慎重に隙を突いては剣を繰り出していく。
振り下ろしたリベアの剣を、ソルフェースはギリギリのところで飛びのいた。
着地した間もあればこそ、次の斬撃がソルフェースの頭上に振り下ろされる。
繰り出されるそれをソルフェースは剣で受けようとはしなかった。さすがに、こんな細身の刃では受け止めることが出来ないことは解りきっているらしい。
「覚えているな?」
ソルフェースが念を押す。
先ほどの条件のことだと、いくら鈍いリベアにも察しは付いた。
それに応えることなく、リベアは身体をかわすソルフェースに無言で突きこんでいく。
ソルフェースは、だが、今度は避けることをせずに、剣を受け止めた。
打ち込む力に、ソルフェースの剣がしなる。
じりじりと力を強めるリベアとソルフェースの視線が絡んだ。
「覚えているな」
確かめるように、もう一度ソルフェースが云う。それにリベアがうなづいた。
瞬間――――リベアの剣が宙を舞った。
リベアは信じられずに、呆然と己の剣の行方を追う。勝負は付いていた。
戦場ならば、自分の片腕は飛んでいた筈だ。
「俺の、勝ちだな」
息を荒くして、正面に立つ男を、リベアは悔しげに見つめたが、それでどうなることでもない。
「ああ。お前の勝ちだ。蒼の魔術師」
リベアの言葉に、蒼のソルフェースがニヤリと笑った。
むっとしたが、リベアには逆らうことは許されていない。
「リベア。俺のものだ」
そっぽを向いたリベアの躯を引き寄せて、魔術師が囁いた。
「勝手にしろ」
乙女でもあるまいし、こんなところで恥ずかしがっている方が馬鹿馬鹿しい。
所詮は、魔術師の気まぐれだろうが、付き合わされる方はたまったものでは無い。悔しさに唇を噛み締めても、どうしようもなかった。