水の魔方陣・焔の剣<10>
「貴女の騎士はここまで来るかしらね?」
薄い唇に微笑を浮かべ、くすくすとさざめくように美女が問い掛ける。
問い掛けた相手は、幼さをまだ面差しに残したものの、あと数年もすれば、輝くような美しさを身に着けるに違いない少女は、ティアンナ皇女レイシアだ。
「必ず、来ます」
レイシアは確信を持って答えた。
そう。必ず来る。己の命のある限り。あの人はそういう人。
「これは随分と信頼したこと。でも、ここに来るまで一体どのくらいの魔物の血を浴びるかしら。休む暇も無く、魔物たちと戦い続け、傷から入る魔物たちの体液の痛みに耐え続け――――ここに来たときに正気だとは限らないわ」
邪悪な笑みを、美女は浮かべる。禍々しさが美しいものだと、皇女はここに囚われてから知った。
水が波打つような薄い色の髪が、女の赤い瞳を際立たせている。
リベア――――無事でいて。どうか、神様。リベアをお守りください。
レイシアに出来るのは、祈ることでしかない。リベアだけでなく、アルセリアからの救いの手が自分に差し伸べられようとしていることを、彼女には知る由も無かった。
リベアの身体が魔物の懐に飛び込むのとほぼ同時に、血飛沫が上がる。
切羽詰ったように襲い掛かってくる魔物に対して、一番に飛び出すのはリベアだ。
魔物封じの焔の剣を手に、何かに取り付かれたように、剣を振るう。
もともとリベアの無茶な戦い方を見かねていたゼルダムは、焔の剣を得たことで、少しはリベアも安心できると踏んでいた。だがそれも最初だけで、鬼神のごときその姿に、余計に不安を煽られる。
何がリベアをそんなにも駆り立てているのか。レイシア皇女が囚われの身であると云う事か。
ゼルダムは、レイシアと初めて会った時を思い出していた。
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アルセリア王には、既に五人の愛妾と三人の子供がいる。
政治的な思惑やら何やらが絡まって、仕方なしに娶ったものだ。正妃の座を空けてあるのもその為である。
大国アルセリアに擦り寄ろうとする国は多く、側近の一人であるネイスト・ハンズなどは、ゼルダムに向かってこう言い放ったものだ。
「アルセリアは今や、押しも押されぬ西の大国です。その王は名君の誉れも高いし、おまけに独身とあれば、臣下としてはなるべく高く売りつけたいのが本音ですね」
アルセリア王の幼馴染であるこの男は、非常に辛辣な毒舌家で、会議の席上でゼルダム曰くの『古だぬきども』が固まるような発言をすることが、ままあった。
今日も、隣国の使者が姫を伴って来ている。
隣国ティアンナは、古の魔術に護られた小国だ。
皇女レイシアはまだ少女といってもいい幼さで、まだ王の夜の相手と云う訳にはいかないだろう。それだけにお飾りの王妃としては最適といってもいい。
列強の姫を娶れば、これ以上の野心を疑われかねない。これ以上、国を広げるような野心はアルセリア王には皆無だったし、側近も、現状維持をもって是とすべきだと云う王の意見に賛成している。
それだけに正妃選びには慎重になるべきだ。苦心の末に選んだのが、隣国の小国・ティアンナの姫という訳で、使者をもてなす為の会食は婉曲な見合いと云うことだ。
ゼルダムは会食半ばで席を抜ける。少女であるレイシアは酒席であることを理由に、もっと早くに席を抜けていたので、非難も少なかった。
元より主役がいないのだから、これ以上いても仕方が無いというのが、正直なゼルダムの気持ちだ。
庭には蔓を絡ませる茨の生垣が、黄色い可愛らしい小さな花を咲かせている。茨の迷路はゼルダムの母の気に入りで、よくゼルダムも幼い頃にネイストたちと遊んだものだった。
夜のとばりにその小さな花が浮かび上がる。
その幻想的な王宮の庭の景色は、すっかりひねた大人になった今もゼルダムの心を和ませるものだ。
そこに、青い服の少女がいる。
飛び跳ねるように少女は、茨の迷路を歩いていた。力強い歩みにきっと健康な子なんだろうと微笑ましく、その姿を追う。
青い夜着がひらひらと揺れていた。夜中に侍女の隙でも突いて抜け出して来たのだろう。
育ちの良さは物腰で知れる。着ている夜着も絹で、誰かに仕えているのでは無さそうだ。
臣下の誰かの姫君だろうか?
そうゼルダムが考えたとき、ふと少女の歩みが止まった。
茨の蔓に絡まれたらしい。金色の髪が引っ張られていた。
しばらく少女がじたばたするのを眺めていたが、埒が明かないらしいと知って、ゼルダムは庭へと踏み出す。
そっと、本当にそっと少女の髪を掴んだ。
少女が驚いて振り返る。手には守り刀だろうか、短剣を構え、意思の強い勝気そうな瞳で見返された。
だが、そこにゼルダムの姿を見つけ、別の意味で驚いたような顔をされる。
「ゼルダム様――――」
「レイシア姫?」
てっきり臣下の誰かの姫だろうと思っていた相手が、今日の賓客だと知ったゼルダムは、驚きのあまり声を無くしてしまう。
「あまりに綺麗なお庭だったので、つい誘われてしまいました」
姫は、侍女を偽って庭の散策を楽しんでいたのを、口早に詫び、優雅に夜着の裾を上げ目礼しようとするが、髪が絡んだままなので、優雅とは程遠い印象になった。
しかも、すばやく短剣を背中に隠しながらだ。
その日頃のおてんば振りがありありと解る様子に、思わず笑いが誘われる。
「お待ちください。すぐに切って差し上げましょう」
髪に絡んだ蔓は、レイシア姫が解こうとした所為か、余計に絡みついていて、蔓を切らなければ取れそうに無い。
腰の短剣を取り出したゼルダムの腕を、レイシアはそっと押さえた。
「可哀想です。切るならわたくしの髪を」
レイシアは自らの短剣を差し出す。
幼いとさえ云える少女の決意をゼルダムは微笑ましいと思った。
元々、ゼルダムは深窓の姫君にあまり良い印象は持ってはいない。大人しいだけの女など好みでは無いし、かといって、かしずかれるのを当たり前だと思っているような気位だけ高い女も好きではなかった。愛妾をもっているのは、王族としての勤めを果たす為でしかない。
それが、この姫君はどうだ。自らの命を護る為に戦う気概と、優しさを兼ね備えている。
「なるべく切りたくはありませぬな」
そう笑って、ゼルダムはゆっくりと絡んだ蔓を解きにかかった。ふと、思いついて質問する。
「姫。私に剣を突きつけたとき、戦うおつもりでしたか?」
「あ、ごめんなさい。ゼルダム様だとは思わなかったのです」
「いえ、怒っているのではありません。どうか謝らないでください」
しゅんとなってしまったレイシアに、ゼルダムは優しく語りかけた。戦場で雄々しく駆け回ってる姿や、威厳たっぷりに会議で難しい顔をしているところしか見たことの無いものたちは、今のゼルダムを見れば、きっと目をむく筈だ。
「お答えください。姫。戦うおつもりでしたか?」
「いえ。わたくしの剣などものの役になど立ちません。それでも相手が怯めば逃げられる機会はございます。助けを呼ぶことも出来ましょう。囚われるのは避けろと云われております」
澱みの無い答えに、ゼルダムは感心してしまう。この姫君は幼いが、しごく真っ当な感覚の持ち主だ。自分自身とその立場をよく心得ている。
身分の高い人間を人質に取られては、兵さえ動かせなくなるものだ。
「万が一、囚われの身となったら、抵抗はしてはいけないと。必ず、助けに行くからと」
誇らしげに云うのに、ゼルダムは顔を上げる。
まだ、少女である姫の顔は何処か遠くを見ているようだ。想い描く人に云われたのかもしれないと、少しだけゼルダムはむっとした。
誰に教わったのかと問うと、『リベア』だと答えた少女の言葉を思い出す。
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レイシア姫は、多分、ひたすら待っているのだろう。リベアの助けを。
ならば、自分に出来ることはただ一つだ。
リベアを無事に姫の下へと送り届けること。
ゼルダムは自らの剣をふるって、その自分の誓いを果たそうとしていた。
リベアの剣が魔物の腕を落とす。
魔物は血を流しながら、腕を押さえて、リベアを睨みつけていた。
睨み合うリベアたちの後方から、もう一匹の魔物が襲いかかる。
それをゼルダムが切り倒そうと振り向くのと、ソルフェースの魔術の鞭が一閃するのは、ほぼ同時。
背中を護られていることを信じているリベアは、その気配に気付きながらも振り向こうとはしない。ひたすら目の前の魔物だけに対峙していた。
じりじりと間合いが詰まる。じっと目を見つめ、相手の隙をうかがった。
それに焦れたように、魔物が飛び掛ってくる。
リベアは一刀の元に、それを切り倒した。




