水の魔方陣・焔の剣<1>
醜悪な魔物の上に厚刃の刀身が振り下ろされる。
とどめを刺す筈のそれは、寸でのところで空を切った。
「チッ…!」
大柄な魔物の意外にすばやい動きを目の当たりにして、相対していた男は悔しげに舌を鳴らす。
意思の強そうなと云えば聞こえは良いが、キツイ目つきがますますキツさを増して吊り上り、魔物を睨めつけた。
大型獣の体躯と、それに似合わない動きを備えた魔物の爪が、男を餌食にしようと襲い掛かる。
振り下ろされたそれを厚刃の刀身は、相応しい硬度で跳ね返し、男は反動を利用して後ろへ跳びすざった。
だが、たたみ掛ける様に振り下ろされる爪は、男に息つく暇さえ与えようとしない。
一合、二合、咬み合う爪とう刃とが攻防を続ける。
そんな正面からのぶつかり合いは、所詮人間である男の体力を徐々に奪っていく。
「く…そぉ!」
魔物の爪を受け止めた、男の額からは滝の様な汗が流れ、彼の限界を知らしめていた。
――――冗談じゃ、ねぇ! こんなところで……!
男の頭に浮かんだのは、自分に懐いていた幼い少女の無邪気な笑顔。暗い自分の人生を照らしてくれたそれ。
――――絶対に、助け出す!
そのためにも、こんなところで魔物のエサになるわけにはいかないのだ。
そんな、男の決意を嘲笑うかのように、魔物の爪は彼の目前に迫っていた。
魔物の醜悪な顔が奇妙に歪む。
それは明らかに、獲物を仕留める快感と飢えを満たすことの出来る期待に彩られていた。
ザスッ――――
肉を裂かれる音が、暗い森に響く。
だが、それは男のものでは無かった。
魔物の瞳が大きく見開かれ、地面がゆらぐ程の音を立てて倒れる。
その喉に突き刺さるのは、爪を受け止めていたのとは別に、男の左手に隠されていた、もう一本の細身の剣だった。
気の抜けた男が、その場にへたり込む。
国境の警備で幾度か魔物に出くわしたことはあるが、こんな大物を相手にするのは初めてだ。
いくら資源が豊富でも、小国に過ぎないティアンナが、独立を保っていられるのは、この大国との国境に横たわる黒の森の所以だ。
この森には人外の者たちが数多く潜み、森へ迷い込んだら最後、決して出て来ることのない。
そこへ敢えて潜入してきたのは彼なりの理由が存在するのだが、いきなりあんな大物が襲ってくるとは――――。
気楽に考えていた訳ではないが、これからの行程を思って、彼の気は一気に重くなった。
「ふん、意外とやるもんだな」
頭上から、気配もさせずに降ってきた声は、何処かからかう様な響きを帯びている。
聞き覚えのあるその声に、男は声のした方に恫喝の声を上げていた。
「姿を見せろ! とっとと降りて来い!」
「そんな怖い顔するなよ、リベア。可愛い顔が台無しだろう」
暗い森の枝を分けるようにして降りてきた年若い青年は、すっきりとした容貌をゆがめてそう云う。
男―――リベア・コントラは目の前に現れた美貌の男の、出会ってから幾度と無く繰り返されてきた言葉に、そんな場合では無いと思いながらも脱力した。
確かに、兵士としては幾分小柄ではあるものの、国境警備の兵に相応しいくらいの膂力と体躯は備えている。女に不自由したことは無いが、目の前の男のように困るほどもてた覚えも無い。おそらく、国境警備隊の中で一番若い隊長の肩書きが無ければ、もっと不自由したかもしれない。その程度の風貌だ。
それを『可愛い』などと、この男はまったくもって変わっている。
「第一、何しにこんな森に来た? 守護の魔術師の一人も無しで。死にたいわけじゃ無いだろう」
背の高い青年は、リベアを見下ろすようにして、冷たい視線を投げつけた。
「お前こそ何しに来た、蒼の魔術師? 城下の騒ぎは知っているだろう?」
今頃、城下は大騒ぎになっている筈だ。国境や街道でも無く、城下に魔物が現れるなど、ここ数十年無かった事態だ。
魔術師たちは城下の護りに余念が無い筈では無いのか。
「ちゃんとやるべきことはやってきた。この俺の守護陣に隙など無い」
「そんなことを云うが、その守護陣が破られたから、今の事態になっているんだろうが」
黒の森を国内に持つ常として、ティアンナでは魔術の素養を持つものには、高度な教育と破格の報酬が用意されている。
だからこそ、黒の森が国境にあっても、城下の暮らしは安穏としていられるのだ。
「破られたのは俺の陣では無い。普段なら他の術師の結界に手を出すことなどしないが、非常事態だったからな。リベアこそ、城下にいなくて良いのか?」
プライドの高い魔術師が、師でもない他の魔術師に結界をいじられたとあっては、今頃、その相手は歯噛みをして悔しがっているに違いない。
今更ながら、リベアは目の前の男がティアンナの最高峰の魔術師と云われる所以を知った。
「俺は騎士団を辞めてきた」
「皇女を攫った魔物の検討は付いていると云う訳だ」
城下に現れた魔物は、婚礼を3日後に控えた皇女と、侍女数人を連れ去った。
「紅の魔術師が、連れ去るのは何か儀式に使う為だと云っていた。だとすれば、連れ去ったのは黒の森の藍鏡の泉の主だろうと」
黒の森の魔物の中でも、もっとも力のあると云われる泉の主。それに立ち向かうのは、死を意味するのと同じことだ。
「それで、俺との契約はどうする気だ?」
「破るつもりは無かったが、結果としては破ることになるな」
リベアは、素直に頭を下げる。どうあっても自分は皇女を救いに行くつもりだったからだ。
蒼の魔術師がリベアの頬に手を掛け、上を向かせる。
視線を上げたリベアに、魔術師の証である紫紺の瞳が飛び込んできた。じっと自分を見つめるその瞳に、魅入られたように立ち尽くすリベアの唇に、魔術師はそっと己のそれを重ねる。
魔術師の舌がリベアの口腔を思う様蹂躙し、名残惜しげに放された瞬間、リベアは我に返って魔術師を突き飛ばしていた。
「そんな場合じゃねぇ。お前、ナニする気だよ」
「契約を果たしてもらうに決まっているだろう」
蒼の魔術師は、妙に熱い視線でリベアを舐めるように見ている。その視線は先程の魔物と変わりなく思えた。