表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

おもかげ

作者: 木場 新

「夢十夜」に触発されました。

 きらきらと、川面が輝いている。暖かな陽光は、春の盛りの頃なのか、それとも小春日和の気紛れなのか。ちょろちょろとも聞こえる、穏やかな川の流れが目の前にある。

 午睡にまどろみそうな、気だるいほどの日の光。懐かしく、心地よく、しかし、眩しく明るいせいか、川原からの景色は周囲をぼんやりとさせて見える。三途の川だろうか。

 その川原の白い石を、不慣れに転がしながら、川上から人影がゆらゆらと浮かんできた。陽炎のようにして現れた男の姿は、ややうつむきながら何かを探しているような、若い旅人だった。

 旅人は、黙々と川沿いに歩き続けている。きらきらした川面が、容赦なくその業を背負ったような背中を射るばかりに、荘厳にして明るかった。

 旅人は川の流れる方向に従い、春のような日差しの中に遠く消えていった。

 静けさの中に、川の流れる音だけが響いていた。

 相変わらず日の光は傾くことなく、何も影を落とす物も無く、周囲を白く消し飛ばしてしまうほど、ただ明るかった。


 遠くからかすかに、ヒグラシの鳴く声が聞こえてくる。

 傾いた日差しは、その広い講堂の中ほどまで伸びてきていた。長方形に切り取られた夕日の真中で、やがて旅人が目を覚ました。

 旅人は、そこで果たしてどれだけ眠っていたのか。机に突っ伏したまま眠りに落ちたのか、座したまま顔を上げて、周囲を見回す。旅人以外、人の気配は無いようだった。

 階段状に座席が設けられ、扇型に広がるその最下段には、大きな黒板と教壇のある、木造の大講堂。その中の席の一角に、ぽつんと旅人がいた。

 黒板には、なにやら数式らしきものが長々といっぱいに羅列しているが、夕闇が迫っているせいか、旅人にはよく見えなかった。旅人は立ち上がると、後方の重厚な木扉に向かい、そこを観音開きに開け放った。

 いっせいに飛び込んでくる、ヒグラシの重なった声と、世界の終わりのような真っ赤な夕陽に、旅人の姿はシルエットを残して飲み込まれた。


 次に気付くと、旅人は見知らぬ街角に佇んでいた。

 真昼の空は抜けるように青く澄み渡っている。背の高いバロック建築の教会や洋館が、ひどくアンバランスに立ち並んでいる。どこもかしこも静かで、建物だけがそこに取り残されているようだ。

 その通りの先に、周りの建物よりも遥かに背の高い観音像が道を塞いでいた。白い観音像の足元まで、旅人が近寄ってみると、そこに一人、顎鬚を蓄えた男が、その髭を丁寧に撫でながら上方を見上げていた。

「これは、一体どうしたことですか」              

 旅人がそう尋ねると、顎鬚の男は旅人の方を見るでもなく、そのままで応えた。

 「彼は、ああやって自分の母親を弔っているのです。ここでは彼はああするしか術を知らないのですから。彼の母親が死ぬとわかっていたなら、彼だって孝行のひとつくらい、していたのでしょうが。私には、彼の気持がよくわかるのです」

 「彼、ですか……」

 旅人は怪訝に思い、男と同じようにして見上げると、遥か上方の観音像の顔のあたりに、小さく人の姿が認められた。

 よくよく目を凝らしてみると、観音像とばかり思い込んではいたが、うっすらとその顔形はまだ彫りあがってはいないようだった。その脇で彫師と思われる男が、どう手を入れようか悩んでいるふうだ。

 「彼は、ああしてずっと悩んだままなのです。今にしてひどく大切に思っていた母親の、その顔立ちを思い出そうとするのですが、いっこうに思い浮かんではこないのです。ですから、彼はあすこから先、ついとも仕上げることが出来なくなっているのです。本当に、母親を大切に思っていたのですがねぇ」

 そう聞いて旅人は、この顎鬚の男は、ここで随分のこと彫師の男を見守っていたのだな、と思った。

「彼は、あすこから降りてこられるのでしょうか」

 旅人がそう問いかけると、男は一層悲しげに目を細めて、観音像の顔の方を見た。それっきり、何も言わなくなった。


 しばらく彷徨い続けた旅人の眼前には、古びた建物がその身を誘っている。御影石のような趣のある、その白い壁には蔦が幾重にも絡まり、外観はいささか近寄りがたい雰囲気さえ漂わせている。

 旅人は躊躇することなく、入り口の扉をそっと押し開けると、黴臭い匂いの中へと歩を進めた。

 窓からの日光だけが頼りの空間。足を踏み入れてすぐ目の前に、真っ赤な絨毯がすっと、そのまま二階へと続く階段の先まで伸びている。

 旅人は、その絨毯の上に、か細く繋がっている赤い糸を目敏くも見つけた。まるで、旅人がそこに足を踏み入れるのを待ち望んでいたかのように、赤い糸は手繰り寄せるたびに、延々と赤い絨毯の上を、二階まで導いていく。

 旅人が、何かに取り憑かれたように、糸を手繰りながら二階へと上ると、それまで人の気配など無かったそこに、一瞬人影が本棚の隙間に垣間見えた。どうやら、図書館のようだった。

 旅人が、人の気配に気付き、本棚の隙間に見え隠れする人影を、糸を手繰りながら追いかけるけれども、それを遠巻きにあざ笑うかのように、いっこうに捕まる素振りは無い。

 旅人が夢中になっていると、手元に手繰り寄せていた赤い糸が、ぷっつりと途切れていることに気が付いた。同時に、追いかけていた女性のような人影は、「ふふふ」と笑ったかと思うと、もはや、どの本棚の隙間にも、その気配は無くなっていた。

 ひどく静かな図書館の中が、異様に広く感じられ、本棚が威圧感さえ伴ってくる。旅人は、手の中の途切れた糸を持て余し、呆然と立ち尽くしている。

 西日を受ける影が、少し長くなってきた。


 その図書館の前、もう日暮れが迫っている頃になり、あたりは薄暗くなっている。

 小さく風が渦巻いて、旅人の周りをくるりと回ったかと思うと、すうっと上空に吹きぬけた。

 目の前には、白亜の塔が聳え立っていて、てっぺんだけがかすかに夕陽に照らされ、赤く染まっていた。旅人が、ゆっくりと周囲を見回すが、周りにはいつものように誰の姿も無い。

 再び、白亜の塔の頂あたりを見ると、そこから旅人を見下ろしている、女の視線に気付いた。

 彼方から差し込む、オレンジ色とも金色とも見分けのつかない輝きを受けながらも、ただ女はほの白く、その目だけは旅人を見据えていることのみ感じられた。

 一瞬、旅人はこの世の終わりにも似た幻想の中で、美しいほどの呪縛に捕われてしまい、女としばらく見詰め合ってしまった。

 その瞬間、女は抱えていたものを、その腕の中より解いてしまい、それはみるみる白亜の塔の側壁を、なぞるようにスロウモウションで落下していった。

 ゆっくりと落ちてくるそれが人形だと判別できた瞬間、旅人はなんだか妙に切ない気持になった。やわらかに墜落した人形は、白亜の塔の麓で軽くはねると、旅人の足元まで転がってきた。旅人がそのまま拾い上げ、塔の上の女の姿を追うと、もう、そこには女の姿は無かった。

 ふいに、旅人はその肩を叩かれ、後ろを振り返ると、真っ黒の詰襟学生服を着た、背の高い坊主頭の青年が立っていた。

「あれは幽霊でしょう。ごらんください。もう、あすこには見えないではありませんか」

 旅人は、もう一度その塔の頂に目を凝らしたが、もはや夕闇に包まれていて、判然としない。

「でも、好きになりました」

 そう、旅人の口からは言葉が自然とこみ上げた。

「いや、およしなさい。恐ろしいことになりますよ。きっと。あなたは、あの幽霊の女に魅入られたようです」

「きみは、いったい何を知っているのですか。なにより、私があのひとのことを、ただ好きになってしまっただけなのですよ」

 旅人がそう言うと、青年は、旅人が腕に抱えた人形に目を移し、切なそうに口を開いた。

「あのひとは幽霊なのです。もう、ここには存在しないのですよ。それでも、あなた様は、かまわないと仰るのか」

 語気を荒げてそう言うと、学生服を翻し、青年は濃くなった宵闇の中へと、すたすたと姿を消していった。

 旅人は、その腕に抱いた人形を、ぎゅっと抱きしめる。目を閉じると、もはや宵闇の中か、自己の内なのか、意識が朦朧としてきていた。


 それからしばらく、いや、幾ばくかの時間が経過したのかも思いつかぬうちに、旅人は白日のもとに佇んでいた。優しく風にそよぐ木立の中、その合間からは、雲ひとつ無い青空がのぞいている。

 旅人はその並木道を歩いて抜けると、総ガラス張りの、不思議な形の建物の前に出た。

「探し物、ですかな」

 声がして後ろを振り向くと、ベージュのスーツ姿の老紳士が、山高帽を胸のあたりに脱ぎ留めて、旅人をにこやかに迎えた。

「なんだか、心が求めてやまないのです」

「あなたはお若い。それで、なのでしょう」

「そうでしょうか」

「しかし、大事なことです。……私が、あなたほどの時には、失ったものがたくさんありました。同時に、たくさんのものも手に入りました。何かを失うかわりに、何かを手に入れる。まあ、取り引きのようなことだと考えてはいたのですが、こうして時が経つにつれて、かつて失ったものに対する愛着のようなものが蘇ってくるのです。本当に、わからないものなのです。今となっては、ひどくそうしたことを、後悔しているのですよ。思い出してみては、幾度となく後悔するのです。ですから、こうしてこの場所に留まっているのでしょう」

 そして、老紳士は帽子を被り直すと、悲しげにつぶやいた。

「私の人生は、短すぎました」

「私は、これから、どうしたらよいのでしょうか」

 その問いかけが届かないのか、老紳士は少しの間を置いて、

「今日は、雲雀が高く上がりそうな空の具合ですな」

 微笑みながら、空を見上げる老紳士につられて、旅人もその先の青空を見上げてみる。 確かに、やわらかで、どこまでも澄んだ青空だ。

 視線を老紳士のもとへ戻すと、もう姿は無かった。


 赤い糸が、再び旅人の眼前に落ちている。

 なにかまた罠にでも嵌められるような心持で、その一端を手に取ると、手繰っているのか、手繰られているのか、そのまま続く、古めいた洋館の中へと吸い込まれるように、旅人は足を踏み入れていった。

 長い廊下には、両側に幾つも部屋への扉らしきものが並び、時折そのいくつかの奥から、女たちの談笑の声が聞こえてくる。好奇心から、そのひとつを開けてみても、まるで空耳だったかのように、その部屋には人の姿は見当たらない。開け放たれた部屋の窓の向こうから、小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 何度かそんなことを繰り返しながらも、廊下の奥まで糸をただ手繰り寄せながら、旅人は黙々と進んでいった。

 一番奥まった扉の前で、またしても赤い糸の先が、途切れていた。


 古めかしい木扉を静かに開けて中へ入ると、着物を着た女が、まるで旅人を待っていたかのように振り向いた。

「彼女でしたら、先ほどまでここにおりましたのですよ。なにやら、お別れを言いにきたとかで、たいそう悲しそうなお顔でした。あまりにもの悲しそうでしたので、私はなぜお別れですのと尋ねられませんでした。彼女がここを離れることは非常に残念でなりませんわ」

 見ると、テーブルの上には飲み差しの紅茶が、ほんのり温かみをたたえて残っていた。

「そうでしたか。私は、なんだか彼女を追って長い旅をしてきたような気がします。それなのに、ここにきてまでお別れとは……」

 旅人は、そう言うと肩を落とした。

 寡婦と思わせるその女は、ことのほか穏やかな顔つきで紅茶を煎れ直すと、旅人のもとにそれを運んできた。よくよく見ると、あの白亜の塔の女と年齢こそ違えど、雰囲気はよく似ていた。

「まあ、おかけください。せっかくですから、私のお話にお付き合いくださいませんか」

 立ち居振舞いが、どれひとつとっても落ち着き払っている。

「私も、旅に出たい気持はありますのよ。あてども無く、汽車に揺られながら何かを考えてみたり、只ぼんやりと、風景を眺めていたりしたいものです。けれども、私はここを離れられないのです。……いつ、あの方が訪れてくるやもしれませんから。やはり、私はこうして、ここで待っているのですよ」

「その方を、信じているのですね。あなたにとって、よほど大事な方なのでしょうね」

女は、傍の花瓶に生けてある花にそっと手をかけて、何かを思い出しているようだった。

「あの方は、私がこの花を好きだということを知っております。あの方もまた、この花を好きだと仰っておりましたわ。……でも、気を付けていないと、すぐに枯れてしまいますの」

 そして、その花を見詰めると、淋しげにつぶやく。

「はかないものですね……」

 女はそう言うと、静かに目を閉じた。

 その姿を見詰めていた旅人も、やがて同じようにして、その目を閉じていった。


 胸の奥に、歌声が響いてくる。

 旅人は、静かに目を開けると、いくつもの蝋燭の灯りの海の中にいた。どこからか聞こえてくる、聖歌の合唱と思われる音色が、心地よい。 

 大きなパイプオルガンが、目にとまった。温かい蝋燭の灯りの群れは、その他にも、旅人の周りでちらほらと懺悔する人の影を、天井にゆらゆらと映している。

 大きな礼拝堂の中心には、しかしながら十字架もキリストも祀られてはいない。代わりにある、抽象的な銀河の渦のようなものが、旅人には一体何を表しているものなのか、皆目見当もつかなかった。

 ふと、旅人が窓際に目を移すと、若い女が、そこにもたれかかったまま、静かに声を殺して泣いていた。涙がぼとぼとと、止めどなく流れては落ちていく。

 少し前の方には、小太りの男の背中が、忙しなく揺れている。微かに食器が音を立てている。夢中になって、食事をしているようだった。

 旅人の脇を、幼い男の子を連れた老婆が小さく「すみません、すみません」と言いながら通り過ぎていった。

 蝋燭の炎が揺れると、天井の影が怪しく蠢いた。

 旅人は一番前方の席まで進んでいき、祭壇のような所に、抱えていた人形を置くと、人形と向き合い、そのまま深深と頭を垂れた。

 パイプオルガンが、大きな音をたてたかと思うと、蝋燭の灯りの群れが、押し寄せる波にさらわれるようにして、すうっと消えていった。

 礼拝堂は、無音の闇に包まれた。


 旅人は闇の中を歩いていた。

 次第に周囲に灯りが点り、それは道の両脇に点々と続く、ガス灯によるものだった。うっすらながら、足元が照らされ、レンガの緩やかな階段を降りている。

 旅人は、夜の庭園の中を、人形を抱えて歩いている。

 しばらく石段を降りていくと、繋がった灯りの先に、堅く閉ざされた黒い鉄扉が見えた。

 その手前、ぼんやりとしたガス灯に浮かび上がるようにして、あの白亜の塔にいた女が、立って旅人を見ている。

 女は、黒髪が長く、対照的に着ているものは真っ白だった。

 旅人は女に歩み寄っていくと、人形をその腕の中へと返した。

 女は、愛しそうに人形を抱きなおし、それから微笑んだ。

「ありがとう。ずっと探しておりましたの」

「もし、よろしければ、あなたのお名前をお聞かせください」

「いいえ、ごめんなさい……」

「そうでした。あなたは死んでいたのでしたね」

 すると、女は笑いながら、

「あら、どなたがそのようなことを仰ったのでしょう」

「あ、いえ、失礼しました。でも、なんだかあなたは青白いように見えるのです」

「……あなたは、おそらく夢をみているのでしょう。なにか、ぼんやりとその目に見えているのです」

「そうでしょうか」

 女は、それからふと、旅人の顔を覗き込むようにして見ると、

「私のことを、ご存知ありませんか」

「……あいにく、何もわからないのです」

「やはり、あなたは夢をみているのですね」

 女は、旅人のその答えに、悲しい面持ちになった。女の長い髪が、風に揺れている。

 俯いていた旅人は、再び女に向き直ると、

「……しかし、私はあなたをとても懐かしいように思います。ずうっとこうして、探していたのですから」

「私のことを、ですか」

「そうです」

 旅人の意志のこもった瞳を受け止めて、女はようやく、また微笑んだ。

「もう、私にはこの人形は必要ありませんね」

「なにか、大切なものだったのではありませんか」

「形見、だったのです」

「そうでしたか」

「ひとつ、お願いがあるのですが。……この人形を、然るべき所に返してきていただけますかしら」

「ええ、私でよろしければ、参りましょう」

「なんとお礼を申し上げたらよいのでしょう。……あなたは、やはり……」

 女は、その瞳を潤ませながら、何かを言わんとしているようだったが、その先の言葉が出てくる様子がない。

 旅人も、なんとも胸が苦しくなる思いに言葉が詰まってしまい、この時、ただ時間だけが二人の間を流れ、そうして、ただ見詰め合い続けていた。

 女が口を開こうかという刹那、、天地が急激に旋回するような衝撃が二人を隔て、オーロラとなって旅人の眼前に噴出した。

 しばらくの轟音ののち、周囲を猛烈な明るさが包んだかと思うと、旅人一人を残して、その場から女は消えていた。

 真昼となった庭園に、旅人は、再び預かった人形を抱えて、一人立ち尽くしていた。


 舞台では、数人の男女が、袖の長い真っ白の衣装を身にまとって踊っている。時折くるくる回ったり、手に手を取って高く跳ねたり、いつまでも儀式のように舞い踊っている。

 旅人は、その円形の劇場の、高く見渡せる席に腰をおろして、その様子をずっと眺めていた。

 そこへ、痩せた背の高い男が歩みより、旅人の隣に腰をおろした。そのまま、男は旅人と同じように舞台の方を見ている。

 旅人は少し経ってから、その痩せた男に語り始める。

「束の間でした。やっと廻り逢うことが叶ったと思ったのですが。時はあまりにも、無情過ぎます」

 すると、痩せた男は旅人を慰めるように、

「彼女にとって、これは仕方のないことなのです。宿命なのです。それはまた、我々にとっても同じことです」

「私は、ここに辿り着くのが遅すぎたようです。私の知らぬ間に、彼女はここで永い時を費やしていたのですね」

 旅人は嘆息をひとつ吐くと、そのまま続けた。

「そうして、彼女は何も言わずに去って行くのでしょう。今の私には、彼女の行く先が、皆目見当もつきません」

 少し力を無くしたような旅人を、痩せた男は横目で見ながら少し間を置いた。それから旅人が顔を上げるのを待ち、再び男はことのほか柔らかい口調で諭すように言った。

「彼女は永い間、誰かを待ち望んでいるようでした。それがもしあなたなのだとしたら、おそらく彼女は、この先も変らず待ち続けるおつもりなのでしょう。例えまた、恒河沙たる星屑と散りばめられようとも、恒久の時間が流れようとも、彼女はその先で待っているおつもりなのですよ」

 舞台では、踊り手たちが気持ちを鼓舞させるかのように、一層激しく踊りの輪を広げていく。動きの激しさは、高ぶっていくようでも、彼らからは一切の音が排除されていく。

 その様を眺めながら、二人は風に吹かれるようにして、しばらくその場に黙っていた。

痩せた男は、長身ながら姿勢がしゃんとしていて、そよぐ風に長い前髪が微かに揺れている。

 それから、旅人はすっと立ち上がると、脇の人形を抱き上げ、

「私はこれを彼女から頼まれました。この人形を、戻してこなければなりません」

 そう言って、立ち去ろうとする旅人の背中に男が言った。

「彼女は、あなたのことを信じています」


 漆黒の闇の中、旅人の靴の音だけが響いている。ひんやりとした石の冷たさが、暗闇を通して肌に染みてくるようだった。ぼんやりとした、頼りない灯りが旅人の姿を、わずかに浮かび上がらせながら、螺旋状に階段を上がってくる。

 旅人は片腕にランプを、もう片方には、女から手渡された人形を抱えて、暗黒の石造りの塔を登っていった。

 いくら登っても、先に手ごたえの無い闇は、その中にあっては自らの存在を無へと返すかのように、禍禍しく纏わりついてくる。先へと進もうとする者の気力を殺ぐがごとく、周り一切の存在を打ち消している。

 旅人は、その中にあっても、自らの灯りを頼りに先へ進まなくてはならない。これは使命なのだと言い聞かせて、時が止まったかのような空間を、その先に待っている、闇の深奥の、ただならぬ威圧感と、刺し違える覚悟で迫っていくのだった。

 登る手前、この塔の巨大さに唖然と見上げてしまった旅人だったが、ここまで来て、どれほどの時間ただただ登り続けたのだろうか、ようやく足が平らに進むようになった。

 しばらく平らに続く石の回廊を進むと、暗がりが若干青白くなり、遠くに、窓のように切り抜かれて、外からの明かりが照らしている場所が見えた。ただ、それは月明かりのようで、微かな青い明かりだった。石壁が、四角く切り抜かれており、ひゅうひゅうと冷たい風が流れ込んできている。

 そこから外を覗くと、遥か下には、雲が恐ろしい速度で流れている。一体、どれだけの高みまで自分は登ったのかと、その目を疑うような景色が、眼下に広がっている。上空には、手が届きそうな月が、まんまるく輝いている。青い夜の世界だった。

 旅人は、そうして回廊の奥の大きな扉に行き当たると、躊躇うことなくその扉を押し開けた。足を踏み入れると同時に、旅人の手のランプが、力尽きたように消えた。

 またしても、そこは闇の中だったが、大きな部屋になっているようで、窓から、さきほども見た大きな月が、その明かりを放ち、幾ばくかは、うっすらと中が窺い知れるほどではあった。

 その窓の手前には、大きな机が伸びているようで、一番遠いところには、月明かりを背にした人の影が見える。かろうじて人影と思われるものの、一向に真っ黒で、どのような顔形なのか想像すらできない。その人影から伸びる影は、そこから机を巨大に覆い込むようにして、闇の海を部屋一面に広げていた。その影の威圧感なのか、旅人はその場から先にも後にも、もはや身動きがとれないほどに、緊縛されてしまっていた。

 しばらくの時間対峙して、闇の向こうにある人影は、身動きする気配すら無かったが、やがて旅人の心の内か、その耳になのか、やや年のいった男の声が届いた。

「きみか。まあ、いずれここに来ることとは思っていたがね」

 この時、旅人には遠くの人影が、鋭い眼光を放っているように感じられた。その人影に向けて、振り絞るようにして喉から声を押し出した。

「この人形は、あなたのものでしたか」

 すさまじい威圧感が迫ってくるようだ。

「もうずいぶんと昔のことになる。私が別れの際に、おそらく彼女に授けたものだろう」

「あなたは、こうしてこれまで彼女のことを見守ってこられたのに、ここにきてなぜ見放すようになさるのですか」

 闇の奥の声は、しばらく間を置いてから口を開く。

「彼女が旅立つということは、もう決まってしまっていることなのだよ。ここにも摂理というようなものがあるとするならば、それはつまりこういうことなのだ。きみは、これまで彼女を探していたようだが、残念なことになってしまったな」

「いいえ」

 旅人はそう言うと、闇の方へと、緊縛を振り解くと歩み寄った。

 大きな月を背にした、机の向こうの人影と対峙すると、向こうから伸びてきている、その闇に包まれた机の上に、女から預かってきた人形を、そっと置いた。

 人形は、闇に飲み込まれることなく、その場にまるで浮かんでいるように留まった。人影は、その様をじっと見据えているようだった。

「私は、これからも彼女を追い続けるつもりでおります。そうしてきっと、また探し出してみせるつもりでおります。私の心には、彼女の面影が焼き付いているのです」

「きっと、これまでよりも、永く苦しい旅になるのだぞ」

 いつの間にか、旅人に聞こえる闇からの声は、その威圧感を失い、まるで諭すかのような声に変っていた。

「わかっております」

 旅人は、闇の向こうの人影に向かって、ひとしきり強く答えた。それは、これまでとは違う、旅人の強い意志の表れでもあった。

 闇の宙空に浮かんでいる人形のその目が、悲しい光を一瞬点した。


 そうして、いつしか南天に煌々と太陽が輝くその下で、旅人は何かを思っていた。

この前と同じ、大きな円形の劇場で、それもこの前と同じ白い衣装の男女が、数人で輪を作り祈りを捧げていた。眩い太陽の光が、真上から劇場を照らしている。

 その旅人のもとへ、あの痩せた男がやってきて、何も言わずにその横へ腰をおろした。切なそうな顔をしている。懐から何か手紙のようなものを取り出すと、旅人に黙って手渡した。

 旅人も、それをわかっていたように黙って受け取ると、その場で広げてみる。

 女からの短い別れの手紙だった。

<こうして、次の世界でもお会いするのでしょう。私は、あなただけを見詰めております。時の果てからでも―>

 そう書かれたものを一気に読み終えると、再び旅人は立ち上がり、遠い空を仰ぎ見た。

 青く抜けるように澄んだ空。一瞬、どこかと意識が繋がったような感覚になった。

 旅人の頭の中に、教会の鐘の音が鳴り響いてくる。祝福の鐘の音。白い教会の中へと、旅人の意識が吸い込まれていく。

 木扉が、音も無く大きく開かれると、ぶわっと中で視野が広がる。

 白々と輝く草原のような空間に賛美歌が遠く木魂し、朝靄なのか、真昼が明滅いるのか、眩すぎて識別しにくいその中で、旅人の意識は女の姿を探していた。鳥になったような視点で見回すと、遥か先を歩く人の姿を捉えた。

 女は、純白のウエディング・ドレスに身を包み、その目は閉じられ、しかしながら満たされた表情で、浮かんでいるのか歩んでいるのか、その姿は、透き通るほどに白くなっていた。長く後ろに引きずられたトレーンの端を、数人の子どもがかろうじて捕まえ、そのまま彼らを引き連れて、どこかへと進んでいる。

 やがて行く先に、輝く巨大な十字の印が出現したかと思うと、次々とそれは姿を変えていき、ゆらゆら揺らめきながら、聖母、如来、瀑布、龍の群れ、数多の星、太陽、めまぐるしくイメージを移し変えながら、オーロラにも似た揺らめきとなって、しばらく留まった。

 いずこから老婆が現れると、女に優しく微笑みかけ、その手をとった。女はその身を預けながらも、一度身を低くすると、次の瞬間には、背中に大きな白い翼がふわりと広がって、音も立てずに一度羽ばたいた。

 鐘の音が、急きたてるように鳴り始め、後ろの子どもはそれぞれに手を離し、距離をとり始める。

 旅立ちの支度が整ったのだろうか、女の手をとる老婆も何度か頷くと、揺らめきの増した幾重ものオーロラの方を指差した。

 女は、揺らぎに同調するように、透き通るほどの白さを増していき、目を閉じたまま背を伸ばすと、その背中の翼を大きく羽ばたかせ始める。

 天空を割って、光の柱が降りてくる。眩い光の道標となって、彼方までと女を繋いで、まっすぐ伸びてくる。

 その光に包まれる間際、女は、旅人の意識に気が付いたのか、閉じていた目を開くと振り返り、届かない声で何かを囁いた。

 そうして、光が女を包んだ瞬間に、世界は弾けた。

 旅人の意識も、気付くともはやそこからは遠ざかっていた。

 小さな点に呑まれていく。


 旅人には、女の最後の言葉が届かなかった。

 それゆえに、またこうして、その言葉を聞くために旅に出ている。引き止めることも、追いつくことも叶わなかった、かつて女のいた地を離れ、自らの想いを遂げるために、歩き始めた。

 どうだろう。こうして旅を続けるから、男は旅人なのであって、こうすることは、旅人にとって本望だったろう。ただ、これまでは、あてども無く何かを探し求めて、歩いていたのだろう。何かが一体何であるのかわからず、それを無下に追い求めるようにして、本当のところは彷徨っていたに違いない。

 しかし、今度は旅人には標がある。その心に刻まれた、あの女の面影が標となる。微かで儚い面影だが、それを唯一の頼りとしていくのだ。

 旅人には、かつてのような、業を背負ったような足取りは、もう無い。どれだけ果てしなく、永い道程であろうとも、その先を見据えて、着実に歩を進めていく。使命を、その内に宿していた。


 川面は、きらきらと穏やかに輝いている。

 淀みを湛えず、さらさらと流れ、川幅はどこまで溯っても、また、下っていったところで細ることも無く、普遍の様相を呈していた。

 真昼のごとく、白く輝くそのほとり。どこへとそそがれていくのか、その川の流れに再び沿いながら、旅人が、遥かさらなる下流を目指していた。

 やがて、ゆらゆらと遠い陽炎のようになって、旅人の姿が、日の光の中にすうっと溶けていった。


 他に何も存在しない陽光の中、穏やかに川が流れている。

 いつまでも、その流れは変ることは無い。



 <完>

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ