新しい靴を買いに行こう
今日もミスをした。
就職はゴールなんかじゃない。今の凜乃にはスタートですらなかった。
何一つマトモにこなせなくて、怒られるために仕事をしていた。
「何でこんなこともできない」
「何で間違える」
「わからないなら何で確認しない」
「何でこんなこともわからない」
先輩のいうことは一つも間違ってなんていない。いつだって正しい。
語気が強くても、軽蔑の表情をあからさまでも。
もうただ謝る以外できない。
何故人並みに仕事ができないか。
凜乃のほうが、知りたかった。
★
仕事を始めてようやく一ヶ月が経った頃だった。
「凜乃」
母親が風呂上がりの凜乃を呼び止めた。
「夕飯は?」
「職場で少し食べたから」
それは嘘だった。
食べる暇があるなら働け。という、冷たい視線の中ではとても食べられない。
(何かを口の中に入れたとしても、ゴムを噛んでいるみたいに味気ないし)
凜乃は食事なんてどうだってよかった。
「そんなに忙しい?」
「うん。忙しいから、すごく疲れた」
言いながら笑う凜乃に、母親は首を振った。
「愛想笑いしなくていいから」
いつも穏やかな母親のめずらしく強い口ぶりに、凜乃はうつむく。肩にかけていたタオルをギュッと握りしめた。
「凜乃」
母親は宥めるように名前を呼び、
「ツライなら、辞めていいんだよ」
そう続けた。凜乃は思わず顔をあげる。
「簡単に言わないで」
声が震えている。胸がえぐれるような痛みが走る。
「すぐに辞めるのはよくないって。三ヶ月は続けてみてから考えなさいって。そういったのはお母さんじゃない」
目を伏せて母親は押し黙る。確かに、アルバイトをすぐに辞めてしまう凜乃に対して、我慢が足りないと諭したことがあった。
「もう少し続ける。だって、ようやく内定した会社だから」
そう言われると母親は何も返せない。就職活動の大変な時期も、どこにも採用されないまま卒業を迎え、その後ようやく入社できた会社だったことも、ちゃんと知っていた。
「もう寝るね」
凜乃は母親の横を通り抜け、さっさと自室へと逃げる。
もう心が麻痺していて、感情が揺れているはずなのに涙が出ない。母親の意見をきっぱり否定したくせに、胸が苦しいのは何故なのかもわからないまま、暗闇に落ちていく。
父親はまだ帰ってこないだろう。
(仕事が好きな人だから)
仕事を楽しみながら一家を支える凄い人。あんな風に働けたらいいと凜乃は思っていた。
(なれない。なれなかった)
髪を乾かす気にもなれず、ベッドの上でぼんやり座っていた、その時だった。
インターホンが鳴った。
母親が玄関へ向かう足音を聞いていた。どうせ届け物か何かだ。はんこを押して、玄関扉が閉まっておしまいだ。
ところが、母親の足音は凜乃の部屋へとやってきた。
「お客さんだよ」
ドアの外から母親が呼びかける。
「誰?」
「美琴ちゃん」
「ーー美琴?」
凜乃は立ち上がった。
「どうして美琴がうちに?」
「今玄関にいるから。来て」
凜乃は急いで部屋を出た。
(美琴が突然家に来た?)
凜乃の中学生の頃から友人だった。たった一人の友だちと言っていい。
玄関へ行ってみると、美琴は立っていた。
「実家から自転車ですっ飛ばして来た」
凜乃も風呂上がりのスッピンだが、美琴も化粧っ気なしの、ボサボサ頭の姿だった。
「連絡ないから。しても全然返事ないから」
突然の来訪に驚く凜乃を睨みつけながら、美琴は瞳に涙をいっぱい溜めていた。
「すごく、すごく、心配した」
入社以来、凜乃はスマホを見るのも億劫だった。誰かからメッセージが来たら当たり障りなく返していたけれど、それすら面倒だった。もう誰ともやり取りをしたくなかった。
ーー大丈夫
ーー元気だよ
ーーそっちも頑張ってね
そう返したら、おしまいにしたかった。それ以上、何も考えたくなかった。
ついにスマホはほとんど見なくなり、仕事以外の要件は見ても未読のままだった。
美琴が凜乃の肩を掴む。
「痩せてる。食べてないね。仕事、そんなにツライの?」
「忙しいだけだよ」
「食べない理由にはならないよ」
「違うの。三ヶ月働いてから辞めようって言っていたから、そこまで頑張るつもりで」
「ダメだよ!」
凜乃が言い終わるより先に、美琴はピシャリと言った。
「今すぐやめて。友だちからの連絡に気付けないような仕事なんて、職場なんて」
言った途端、美琴の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。頬が濡れるのを拭いもしなかった。凜乃の肩から手を離さない。
「うん」
頷いた時、凜乃の心の奥に小さな火が点ったような気がした。胸の中が温かくなっていく気がした。今まで冷たい暗闇でいっぱいだったはずなのに。
凜乃はもう一度頷く。
「辞めるよ。今辞める」
凜乃はスマホを手に取り、すぐに電話をかける。
「こんな夜に誰かいるの?」
美琴が怪訝な顔をするけれど、凜乃は苦笑いで答えた。
「どうせ社員の誰かは夜遅くまで残っているから」
何故、もっと早くこうしなかったのだろうか。不思議なくらい迷いがなかった。
(美琴が来てくれたからだ)
また罵られるからかもしれないから、怖くてできなかったかもしれない。それとも、考えることを止めてしまったからか。
でも、今の凜乃なら言える。
電話には上司が出た。いつも罵る先輩ではなかったことが、凜乃には何よりも救いだった。
「辞めます」
そういうと、相手はすぐに理解してくれた。多分、上司もこうなることを待っていた。「彼女はこの仕事に向いていなかった」という決り文句が聞こえてきそうだった。
電話を切って、凜乃は美琴を見る。
「美琴、ありがとう。辞められるって」
「よかった!」
美琴が声を上げて泣き出すと、凜乃の両目からも堰を切ったように涙が溢れた。
「よかったよぉ」
それから、二人はわあわあ泣いた。でも、何だかおかしくなって、すぐに笑った。子どもみたいに。
「泣いたらお腹すいた」
凜乃は黙って見守っていた母親を見る。
「らーめん食べたい」
「インスタントで良ければ作りますよ」
母親はいつもどおり、穏やかに答える。
母親が作ったのは、もやし入り味噌ラーメン。
美琴と二人で食べながら、凜乃はふとたずねる。
「美琴、返事がないから来てくれたの?」
「凜乃がきっと困っているんだって思ったから、飛んできたの」
美琴は笑った。じんわりと胸が温かい。
「私も飛んでいく」
凜乃は箸をおいて美琴を見つめていった。
「美琴が困ったときは、飛んでくから。光より早く現れるから」
凜乃の目からまた涙が溢れ出すと、美琴もつられて泣き出す。
「鼻水も出た」
「お母さん、ティッシュどこ?」
母親はそっとテーブルの上にボックスティッシュを置いた。二人は盛大に鼻をかみ、赤くなったお互いの鼻頭をみて笑った。
★
次の日、凜乃は会社に行かなかった。
今日から休んでいいというのが上司の指示だ。今、退職の手続きの連絡を待っている。
凜乃は久しぶりに通勤服とパジャマ以外の服に着替えた。
「出かけるの?」
玄関で母親に訊かれ、凜乃は頷く。
「靴を買いに」
「靴?」
「速く走るためのスニーカーね。美琴に呼ばれたら、すぐに駆けつけるために」
「いいね」
母親が優しく笑う。長い間、母親の笑顔を見ていなかった。凜乃が笑わないから、母親も同じように心に影を落とし続けていたのかもしれない。
「いってきます」
凜乃が言う。
「いってらっしゃい」
母親のいつもの通りの声を聞いて、凜乃は玄関から出た。そして、しばらく立ち止まってしまった。
(青い)
空は明るかった。明るくて、嘘みたいに青い。空に色があることをずっと忘れていた。
(空って青いんだ)
考えながら、凜乃は大きく足を踏み出した。
空でも飛べるんじゃないかと思うほど、軽い足取りで。




