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新しい靴を買いに行こう

掲載日:2026/05/04

 今日もミスをした。

 就職はゴールなんかじゃない。今の凜乃にはスタートですらなかった。

 何一つマトモにこなせなくて、怒られるために仕事をしていた。


「何でこんなこともできない」

「何で間違える」

「わからないなら何で確認しない」

「何でこんなこともわからない」


 先輩のいうことは一つも間違ってなんていない。いつだって正しい。

 語気が強くても、軽蔑の表情をあからさまでも。

 もうただ謝る以外できない。

 何故人並みに仕事ができないか。

 凜乃のほうが、知りたかった。



 仕事を始めてようやく一ヶ月が経った頃だった。


「凜乃」


 母親が風呂上がりの凜乃を呼び止めた。


「夕飯は?」


「職場で少し食べたから」


 それは嘘だった。

 食べる暇があるなら働け。という、冷たい視線の中ではとても食べられない。


(何かを口の中に入れたとしても、ゴムを噛んでいるみたいに味気ないし) 


 凜乃は食事なんてどうだってよかった。


「そんなに忙しい?」


「うん。忙しいから、すごく疲れた」


 言いながら笑う凜乃に、母親は首を振った。


「愛想笑いしなくていいから」


 いつも穏やかな母親のめずらしく強い口ぶりに、凜乃はうつむく。肩にかけていたタオルをギュッと握りしめた。


「凜乃」


 母親は宥めるように名前を呼び、


「ツライなら、辞めていいんだよ」


 そう続けた。凜乃は思わず顔をあげる。


「簡単に言わないで」


 声が震えている。胸がえぐれるような痛みが走る。


「すぐに辞めるのはよくないって。三ヶ月は続けてみてから考えなさいって。そういったのはお母さんじゃない」


 目を伏せて母親は押し黙る。確かに、アルバイトをすぐに辞めてしまう凜乃に対して、我慢が足りないと諭したことがあった。


「もう少し続ける。だって、ようやく内定した会社だから」


 そう言われると母親は何も返せない。就職活動の大変な時期も、どこにも採用されないまま卒業を迎え、その後ようやく入社できた会社だったことも、ちゃんと知っていた。


「もう寝るね」


 凜乃は母親の横を通り抜け、さっさと自室へと逃げる。

  もう心が麻痺していて、感情が揺れているはずなのに涙が出ない。母親の意見をきっぱり否定したくせに、胸が苦しいのは何故なのかもわからないまま、暗闇に落ちていく。

 父親はまだ帰ってこないだろう。


(仕事が好きな人だから)


 仕事を楽しみながら一家を支える凄い人。あんな風に働けたらいいと凜乃は思っていた。


(なれない。なれなかった)


 髪を乾かす気にもなれず、ベッドの上でぼんやり座っていた、その時だった。

 インターホンが鳴った。

 母親が玄関へ向かう足音を聞いていた。どうせ届け物か何かだ。はんこを押して、玄関扉が閉まっておしまいだ。

 ところが、母親の足音は凜乃の部屋へとやってきた。


「お客さんだよ」


 ドアの外から母親が呼びかける。


「誰?」


「美琴ちゃん」


「ーー美琴?」


 凜乃は立ち上がった。


「どうして美琴がうちに?」


「今玄関にいるから。来て」


 凜乃は急いで部屋を出た。

 

 (美琴が突然家に来た?)


 凜乃の中学生の頃から友人だった。たった一人の友だちと言っていい。

 玄関へ行ってみると、美琴は立っていた。


「実家から自転車ですっ飛ばして来た」

 

 凜乃も風呂上がりのスッピンだが、美琴も化粧っ気なしの、ボサボサ頭の姿だった。


「連絡ないから。しても全然返事ないから」


 突然の来訪に驚く凜乃を睨みつけながら、美琴は瞳に涙をいっぱい溜めていた。


「すごく、すごく、心配した」


 入社以来、凜乃はスマホを見るのも億劫だった。誰かからメッセージが来たら当たり障りなく返していたけれど、それすら面倒だった。もう誰ともやり取りをしたくなかった。


ーー大丈夫

ーー元気だよ

ーーそっちも頑張ってね


 そう返したら、おしまいにしたかった。それ以上、何も考えたくなかった。

 ついにスマホはほとんど見なくなり、仕事以外の要件は見ても未読のままだった。

 美琴が凜乃の肩を掴む。


「痩せてる。食べてないね。仕事、そんなにツライの?」


「忙しいだけだよ」


「食べない理由にはならないよ」


「違うの。三ヶ月働いてから辞めようって言っていたから、そこまで頑張るつもりで」


「ダメだよ!」


 凜乃が言い終わるより先に、美琴はピシャリと言った。


「今すぐやめて。友だちからの連絡に気付けないような仕事なんて、職場なんて」


 言った途端、美琴の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。頬が濡れるのを拭いもしなかった。凜乃の肩から手を離さない。


「うん」


 頷いた時、凜乃の心の奥に小さな火が点ったような気がした。胸の中が温かくなっていく気がした。今まで冷たい暗闇でいっぱいだったはずなのに。

 凜乃はもう一度頷く。


「辞めるよ。今辞める」


 凜乃はスマホを手に取り、すぐに電話をかける。


「こんな夜に誰かいるの?」


 美琴が怪訝な顔をするけれど、凜乃は苦笑いで答えた。


「どうせ社員の誰かは夜遅くまで残っているから」


 何故、もっと早くこうしなかったのだろうか。不思議なくらい迷いがなかった。


(美琴が来てくれたからだ)


 また罵られるからかもしれないから、怖くてできなかったかもしれない。それとも、考えることを止めてしまったからか。

 でも、今の凜乃なら言える。

 電話には上司が出た。いつも罵る先輩ではなかったことが、凜乃には何よりも救いだった。


「辞めます」


 そういうと、相手はすぐに理解してくれた。多分、上司もこうなることを待っていた。「彼女はこの仕事に向いていなかった」という決り文句が聞こえてきそうだった。

 電話を切って、凜乃は美琴を見る。


「美琴、ありがとう。辞められるって」


「よかった!」


 美琴が声を上げて泣き出すと、凜乃の両目からも堰を切ったように涙が溢れた。


「よかったよぉ」


 それから、二人はわあわあ泣いた。でも、何だかおかしくなって、すぐに笑った。子どもみたいに。


「泣いたらお腹すいた」


 凜乃は黙って見守っていた母親を見る。


「らーめん食べたい」


「インスタントで良ければ作りますよ」


 母親はいつもどおり、穏やかに答える。



 母親が作ったのは、もやし入り味噌ラーメン。

 美琴と二人で食べながら、凜乃はふとたずねる。


「美琴、返事がないから来てくれたの?」


「凜乃がきっと困っているんだって思ったから、飛んできたの」


 美琴は笑った。じんわりと胸が温かい。


「私も飛んでいく」


 凜乃は箸をおいて美琴を見つめていった。


「美琴が困ったときは、飛んでくから。光より早く現れるから」


 凜乃の目からまた涙が溢れ出すと、美琴もつられて泣き出す。


「鼻水も出た」


「お母さん、ティッシュどこ?」


 母親はそっとテーブルの上にボックスティッシュを置いた。二人は盛大に鼻をかみ、赤くなったお互いの鼻頭をみて笑った。



 次の日、凜乃は会社に行かなかった。

 今日から休んでいいというのが上司の指示だ。今、退職の手続きの連絡を待っている。

 凜乃は久しぶりに通勤服とパジャマ以外の服に着替えた。


「出かけるの?」


 玄関で母親に訊かれ、凜乃は頷く。


「靴を買いに」


「靴?」


「速く走るためのスニーカーね。美琴に呼ばれたら、すぐに駆けつけるために」


「いいね」


 母親が優しく笑う。長い間、母親の笑顔を見ていなかった。凜乃が笑わないから、母親も同じように心に影を落とし続けていたのかもしれない。


「いってきます」


 凜乃が言う。


「いってらっしゃい」


 母親のいつもの通りの声を聞いて、凜乃は玄関から出た。そして、しばらく立ち止まってしまった。


(青い)


 空は明るかった。明るくて、嘘みたいに青い。空に色があることをずっと忘れていた。


(空って青いんだ)


 考えながら、凜乃は大きく足を踏み出した。

 空でも飛べるんじゃないかと思うほど、軽い足取りで。

 

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