柔軟という言葉の弱さ
駅前のベンチに腰を下ろして、コーヒーをひと口。まだ朝の気配が残る街は、どこか落ち着きがなく、人々は足早に交差点を渡っていく。スマートフォンを片手に、誰かの言葉をなぞるようにして。誰かの考えを、自分のように語りながら。
僕はそれをただ、静かに見ていた。
数日前、友人のユウキと久しぶりに会った。大学時代は思想や哲学について熱く語り合った仲だった。言葉を慎重に選び、誰かに左右されることを嫌った彼は、どこか頑固で、だがその分、信頼できる人間だった。
それが、数年ぶりに再会したユウキは、別人のように見えた。
「いや、今はそういうのもう古いらしいよ。多様性とか、柔軟性とか、そういうのが今の時代っぽいじゃん?」
笑いながら言ったその顔に、かつての頑なさはなかった。自分の言葉ではなく、流行の言い回しを借りて話す彼に、僕はどこか居心地の悪さを覚えた。
「あれ、お前って前はそういうの苦手じゃなかった?」
と聞いてみた。けれど彼は、曖昧に笑ってごまかした。
「ま、今はそういう感じなんだよ。俺も色々あってさ」
僕はそれ以上何も言わなかった。言葉を返す必要すら感じなかった。
人は変わる。わかってる。環境、立場、時間。積み重なれば思考は自然と磨り減り、時に研がれて、形を変える。数年かけて変わっていく誰かの考えを、僕は否定したくはない。
けれど。
ほんの数日、あるいは数時間で、自分の言葉を裏返すような人間を見ると、何かが引っかかる。
昨日は絶賛していたものを、今日は手のひらを返したように否定する。
「こっちのほうが流行ってるし、やっぱ時代ってこっちでしょ」と、口を軽く笑わせて。
それが悪いとは言わない。でも、そこに何もないまま、ただ空っぽの器を交換するように、自分というものがスカスカになっていくことに、気づかないのだろうか。
自分の考えが未熟だったと認めるのは、勇気のいることだ。だからこそ、変化には苦しみが伴う。その苦しみを経ずに、ただ周囲に流されているだけなのに、「柔軟性」という言葉で誤魔化している人間を見ると、なぜだか悲しくなる。
ベンチの隣に、高校生くらいの男の子が座った。イヤホンから漏れた音が、僕の耳にも届く。少し前まで流行っていたアーティストの曲。今では「もう古い」と言われることの多い楽曲だ。
男の子は、スマホでプレイリストを見ながら小さく口ずさんでいる。何度も聞き込んだのだろう。彼の顔には、確かにその曲を「好きだと思っている」実感が滲んでいた。
僕は、それだけでなんだか少し救われたような気がした。
人の流れが変わっても、誰かに笑われても、「これがいい」と思う心を、自分のなかに置き続ける。それは、簡単なことじゃない。でも、そんなささやかな芯を持っている人間を、僕はやっぱり信じたいと思う。
ユウキにもう一度連絡を取るつもりはない。彼の変化を責める気はないけれど、あの曖昧な笑顔のままでは、きっとまたすぐに別の何かに身を預けていくだろう。そしてまた、「今はこっちなんだよね」と言うのだろう。
それでも、僕は僕のままでいたいと思う。
誰かに「古い」と言われても、「今さら」と笑われても。
簡単には動かない、揺るぎのない小さな石のようなものを、心の中に一つだけ持っていたい。
それが正しいかどうかなんて、わからない。けれど、自分の言葉を自分で信じていたいと願う限り、僕は今日も、静かにその石を磨き続けるのだ。