第2章:過去の影と、揺らぐ公爵子息の心
レオンハルトは、セリーナのあまりにも突飛な「結婚の要求」と、あの日の「誓い」の言葉に、ほとほと困り果てていた。社交界では、すでに「エインズワース令嬢がラングフォード公爵子息にストーカーじみた求婚をしている」と噂が広まっていた。彼はセリーナを「どこかおかしな女」だと認識し、なんとかして彼女を遠ざけようとした。だが、セリーナの覚悟は、彼の想像をはるかに超えていた。
セリーナは、レオンハルトが不在の時に、ラングフォード公爵邸に足繁く通った。そして、彼の部屋に、あの日の誓いを思い出させるための「証拠品」を置いていった。
ある日は、レオンハルトが幼い頃に好んで食べていたという、今はもう作られなくなった菓子を、自らレシピを探し出して焼き上げ、彼の執務室の机に置いた。またある日は、彼が幼い頃に読んでいた絵本の、特に印象的なページを開いたままにしておく。さらには、湖畔で拾った小さな白い石と同じ種類の石を、彼の部屋の窓辺に並べていった。
レオンハルトは、これらの奇妙なプレゼントに、最初はうんざりした。
「またか。あの女は、一体いつになったら諦めるのだ」
彼はそう言って、侍従にそれらを処分させようとした。だが、その白い石を見た瞬間、彼の頭の中に、一瞬、白い光が走ったような気がした。幼い日の、何か大切な記憶の断片。しかし、それはすぐに霧散し、掴み取ることはできなかった。
セリーナは、レオンハルトの行動パターンを詳細に観察した。彼が好む紅茶の種類、使う香水、訪れる場所。そして、彼の心を解きほぐすため、彼の屋敷で彼が好む音楽を奏でたり、彼が休日に訪れるという森の奥にある静かな湖畔を訪れたりした。湖畔の別荘は、もう残っていないが、そこに行けば、きっと彼も思い出してくれるはず。
彼女の献身的なアプローチは、時にストーカーじみていたが、そこには一切の悪意や打算がなく、ただひたすらに、あの日の誓いを果たしたいという純粋な想いだけがあった。
レオンハルトは、そんなセリーナの行動に、次第に苛立ちと同時に、奇妙な興味を抱くようになった。彼の周りの女性たちは、皆、彼の地位や財産目当てか、あるいは単なる浮気相手として彼の隣にいるだけだった。だが、セリーナは違った。彼女は、彼が何の功績も持たない幼い頃の自分との「誓い」を、何よりも重要視していたのだ。
そんな彼の周りの女性たちが、セリーナの存在を疎ましく思い、妨害を仕掛けてきた。
「あなたのような地味な令嬢が、レオンハルト様と釣り合うとでも? 身の程を知りなさい」
舞踏会で、レオンハルトの愛人の一人である侯爵令嬢が、セリーナに詰め寄った。セリーナは、毅然とした態度で彼女を見返した。
「わたくしは、レオンハルト様の誓いを信じております。そして、その誓いを、真剣に果たそうとしております。貴女様のような、遊び半分の愛などとは、わけが違います」
セリーナは、冷静に、しかし芯の強い言葉で言い放った。彼女の堂々とした態度に、侯爵令嬢は顔を真っ赤にして引き下がった。その様子を遠くから見ていたレオンハルトは、思わず目を見張った。セリーナの純粋さと、その裏にある芯の強さに、彼は今まで知らなかった感情を抱き始めていた。
夜、自室に戻ったレオンハルトは、机の上に置かれた、あの白い石を見つめていた。確かに、見たことがあるような気がする。そして、幼い日の自分と、小さな女の子が、手を繋いで湖畔を歩く姿が、まるで幻のように脳裏をよぎった。
彼は、自分の人生を顧みた。公爵子息として生まれた彼は、常に周囲の期待に応えるべく振る舞ってきた。社交界のプレイボーイも、彼にとってはある種の役割だった。だが、セリーナが持ち込む「あの日の記憶」は、彼の心に、今まで感じたことのない違和感と、そして空虚感を突きつけていた。
彼の心の中で、過去の純粋な自分と、現在の打算的な自分が、激しく衝突を始めた。セリーナの純粋な「愛」と、その裏にある幼い頃からの「誓い」が、彼の心を徐々に、しかし確実に揺り動かしていく。彼は、このままセリーナの言葉を「戯言」として片付けて良いのか、自問自答を繰り返していた。セリーナの存在が、彼の遊びのような日常を、真剣な感情で満たし始めていたのだ。