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第1章:湖畔の誓いと、記憶なき公爵子息

 セリーナ・エインズワースにとって、幼い頃に交わしたその「誓い」は、人生の全てだった。五歳の夏、両親の静養のため、王都から離れた湖畔の別荘で過ごしていた時のことだ。好奇心旺盛なセリーナは、森の奥深くへと迷い込み、足を踏み外して深い穴に落ちてしまった。恐怖と暗闇の中で泣きじゃくる幼い彼女の前に、一人の少年が現れた。彼の名は、ラングフォード公爵子息、レオンハルト。当時八歳だった彼は、セリーナの手をしっかりと握り、優しく微笑んだ。


「大丈夫だよ。僕が必ず、君を助け出す。そして、大きくなったら、僕がずっと君を守る。だから、その時は、君を僕の花嫁にするからね」


 少年レオンハルトは、セリーナを穴から救い出し、無事に別荘まで送り届けてくれた。その時、彼が差し出してくれた、湖畔で拾ったという小さな白い石は、セリーナにとって、彼の言葉の証であり、二人の「誓約」の象徴となった。それ以来、セリーナは、その白い石を肌身離さず持ち歩き、レオンハルトとの結婚を、人生で唯一、絶対の目標として生きてきた。他のどの男性にも目を向けることなく、彼の花嫁となる日を夢見て、淑女としての教養を磨き続けたのだ。


 月日は流れ、セリーナが二十歳になった頃、再びレオンハルトと再会する機会が訪れた。彼はすでに、ラングフォード公爵子息として社交界の中心に立つ、誰もが認める美貌の貴公子となっていた。だが、その隣には、毎夜のように異なる令嬢が寄り添い、彼は社交界一のプレイボーイとして有名だった。


 セリーナは、胸を高鳴らせて彼に近づいた。あの日の誓いを、彼が覚えていてくれるだろうかと。


「レオンハルト様。お久しゅうございます、セリーナ・エインズワースでございます」


 彼に声をかけると、レオンハルトはわずかに眉をひそめた。その瞳には、セリーナへの親愛など微塵もなく、ただ「どこかで見たことがあるような、地味な令嬢」を見るような冷たい光が宿っていた。


「……ああ、エインズワース令嬢だったか。お父上にはいつもお世話になっている」


 彼はそう言って、社交辞令のような言葉を口にした。その瞬間、セリーナの胸に、冷たい氷の矢が突き刺さった。彼は、覚えていない。あの湖畔での誓いを、自分を窮地から救った出来事を、そして、「僕の花嫁にする」という言葉を、完璧に忘れ去っているのだ。


 ショックだった。セリーナの二十年間の人生は、その誓いを中心に回っていたのに。だが、絶望に打ちひしがれる間もなかった。彼の隣で嬌声を上げる令嬢たちの姿を見て、セリーナの心には、別の感情が湧き上がってきた。それは、貴族としてのプライドと、そして幼い頃からの純粋な信念だった。


「わたくしは、貴方様の未来の妻として、ここにおります」


 セリーナは、毅然とした声で言い放った。周囲の令嬢たちが、ざわめいた。レオンハルトもまた、怪訝な顔でセリーナを見つめ返した。


「エインズワース令嬢、一体何を言っている? 私は君との婚約など、結んでいないはずだが」


 レオンハルトは、迷惑そうに、しかしどこか面白がるような表情で言った。彼の態度は、セリーナの怒りに火をつけた。


「いいえ、レオンハルト様。貴方は、わたくしに誓われました。『大きくなったら、必ず僕が君を守る。だから、その時は、君を僕の花嫁にする』と。あの湖畔で、わたくしが穴に落ちた時、貴方はそう約束なさいました! そして、この石も!」


 セリーナは、肌身離さず持っていた白い石を、彼の目の前に突き出した。レオンハルトは、その石を一瞥したが、特に反応を見せない。


「……そんな子供の戯言を、今さら持ち出すとは。エインズワース令嬢、君は一体、何を考えている?」


 レオンハルトの声には、明確な軽蔑の色が混じっていた。周囲のざわめきは、嘲笑へと変わった。しかし、セリーナはひるまなかった。


「子供の戯言などではございません! それは、貴方がわたくしをお救いくださった時の、神聖な誓約でございます! 貴方は、わたくしに責任を取っていただかなければなりません!」


 セリーナは、真っ直ぐに、吸い込まれるような瞳で彼を見つめた。その瞳は、純粋で、ひたむきで、一切の悪意も打算も感じさせない。むしろ、彼女の言葉は、まるで彼の心に直接語りかけるかのような、妙な説得力を持っていた。


 レオンハルトは、その剣幕にわずかにたじろいだ。確かに、どこかで見たことがある顔だ。そして、あの時の情景が、一瞬、脳裏をよぎったような気もした。だが、まさか、それが結婚の理由になるなど。彼は、困惑と苛立ちを覚えながらも、公爵令嬢のあまりの真剣さに、これ以上強くはねつけることができなかった。


「……分かった。とりあえず、この場は収めてほしい。後日、改めて話をしよう」


 レオンハルトはそう言って、セリーナから逃れるように、人混みの中へと消えていった。セリーナは、彼の言葉を「約束」と受け止め、その場に毅然として立ち尽くした。


 これは、忘れ去られた誓約を取り戻し、一途な愛を成就させるための、セリーナの孤独な戦いの始まりだった。


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