ep.9 木瓜湊斗と消えた対戦相手
1
教室に入ると、黒板にはホトトギスの絵が描かれていた。鳥の姿がとても伸び伸びと描かれている綺麗な絵だった。
暖かいというより、暑い、と言葉が出て来るようになった6月第1週の金曜日、本日は待ちに待った(?)球技大会の日である。
すでに登校していたクラスメイトたちは、学校指定のジャージに着替えていた。窓ガラスはすべて開けられていて、心地よい風が入ってきた。
「遅かったな。湊斗」
丹羽桧が意気揚々と近づいてきた。暑苦しいのはこの陽気だけで十分だ。
「朝から気合い入ってるな」
「当たり前だ」丹羽は胸を張って言った。「今日は授業がないし、終わったらすぐ土日だ」
「なるほどなぁ」
俺は含みのある返事をしながら、制服からジャージに着替え始めた。丹羽のやつ、授業をサボりたいだけじゃないか。
「なんだよ、嬉しくないのか?」
「そりゃ、嬉しいけどな。暑さでバテて球技大会どころじゃねぇんだよ」
「まだ6月だぞ」
あんぐりと口を開ける丹羽をよそに俺は、再び前方の黒板を見た。鳥の絵に気を取られていたが紙が何枚か磁石で貼られていた。
「丹羽、貼られているの、あれなんだ?」
「あーあれな」丹羽は振り返り、黒板を見た。「トーナメント表だ。男子はテニス、サッカー。女子は卓球にバスケだ」
「俺たちの対戦相手が決まったのか」
「おう。見に行こうぜ」
俺と丹羽は黒板の方へ向かった。丹羽とはテニスでペアを組んでいる。体育の時間に一人でいた俺を彼は誘ってくれた。
黒板の前には数人しか生徒がいなかった。ほとんどの生徒はもうトーナメントを見たということだろう。どれどれ、対戦相手は……。
「初戦は同じ1年。隣のクラスだ」
隣で言う丹羽を横目に俺はトーナメント表を凝視した。表に書いてある対戦相手には、小学校からの腐れ縁である桐紫月の名があったからだ。
「丹羽、絶対に勝つぞこの勝負」
「おい、お前、さっきと言ってることが──」
「あいつにだけは絶対に負けられねぇんだ」
鬼気迫る俺の目に丹羽は引いていた。その時だった。
「はーい。席に着いて」松浦先生が教室に入ってきた。
俺と丹羽、葵さんを除いて、他の生徒たちは驚いた様子だった。無理もない、1週間以上、松浦先生は学校へ来なかったのだから。
席へ着こうと黒板から離れると、葵さんと目が合った。彼女は微笑んで頷いていた。そんな彼女に俺は1回頷くだけ。我ながら無愛想だと思う。
全員が席に着くのを確認した先生は口を開いた。
「みなさん、おはようございます。1週間、私用で休みをもらってました。先生はもう大丈夫だから。心配かけてごめんなさい」
先生は小さく頭を下げたあと元に戻り、さらに続けた。
「今日は球技大会です。初めてだから、とにかくいっぱい楽しんで」
笑みを浮かべながら、いっぱいという部分を強調して言った。
ホームルームが終わり、クラスメイトたちは各々開会式のあるグラウンドへ向かった。
席を立ち、振り返った丹羽が行こうぜ、と言ったが、もう1人、こちらを見る女子生徒が俺の足を止めた。
「わるい、先に行っててくれるか」
「分かった。遅れるなよ」
丹羽が出ていくのを確認して、俺は女子生徒に視線を移した。
「おはようございます」葵さんがこちらに歩いてきた。いつも下ろしている髪を今日は後ろに結んでいた。
「おはよう。歩きながら話すか」
「はい」彼女は優しく微笑んだ。
廊下に出ると彼女から口火を切った。
「先生とはもうお話をされたんですか?」
「ああ」俺は頷いた。「早めに登校したらばったり会って、その時に──」
駐輪場に自転車が数えるほどしかなかった早朝のことだった。松浦先生の乗る乗用車が職員用の駐車場に停まっているのを見た俺は、慌てて校舎の方へ向かった。
昇降口から急いで階段を駆け上がると、上の階から降りてくる松浦先生の姿があった。丁度、2階から3階に上がる踊り場で先生と対面した。
「先生」俺は呼吸を整えた。「おはようございます」
松浦先生は少し驚いた表情を見せたが、すぐに優しい顔つきになった。
「おはよう。会議室でちょっと話そうか?」
俺は、先生の案内で職員室の隣にある会議室に入った。
「木瓜くん、あの時はあられもない姿を見せてごめんね。出ていけ、なんて言って」
「いえ、俺が余計なことを言ったせいです。謝るのは俺の方で──」
「余計なことなんかじゃない」先生は優しく言った。「木瓜くんのお陰で大切なことを思い出せたの」
実はね、と先生は“緑色のホトトギス”について語り始めた。大切な親友との思い出だと言っていた。
「今の先生の気持ちを黒板に描いてきたから見てみて」と先生は、晴れやかな笑顔で言った。
そして今に至る。
「いろいろ話してくれたよ。“緑色のホトトギス”について」
安堵した俺の顔を見るや葵さんは、悪戯な笑みを浮かべて言った。
「解決したみたいで良かったです。黒板の絵、とても綺麗でしたね」
「ああ。今にも飛び立ちそうな勢いだった」
東側の階段を2階、1階と降りていく。昇降口に着くと葵さんは言った。
「あの、球技大会が終わったら話したいことがあります」
葵さんは明るい表情から神妙な面持ちに変わった。
「今じゃダメなのか?」
「長くなりそうなので」
今まで目を合わせて話していた葵さんが目を逸らした。それでは、と言って彼女は小走りで自分のロッカーから靴を取りだし履き替えると、グラウンドの方へ走り去ってしまった。
2
総勢約600名。全校生徒がグラウンドに集結した。
2年生や3年生の先輩方は、クラスごとに違う色のTシャツを着ている。これがクラスTシャツというものなのかと、俺は辺りを見回す。赤や水色に紫。目がちかちかする。
葵さんは、他の色に紛れてどこにいるか分からなかった。
俺たち1年生は、学校指定の青いジャージや白い半袖の体操服を着ている。まだ入学して間もないのだ。何色にも染まっていない新参者ということなのだろう。
人が多い状況はどうも苦手だ。目や耳から入ってくる情報量が多すぎる。
乱雑だった色が分かれて、クラスごとに綺麗な色の固まりになり始めた。そろそろ球技大会が始まる。俺は自分のクラスに並んだ。
上下紺色のジャージを着た校長先生が朝礼台に上がり、開会を宣言した。全体で準備体操をすると、早々に開会式は終了し、生徒たちは蜘蛛の子を散らすようにグラウンドから離れていった。
「よっ、ここにいたか」丹羽が人混みを掻き分けやって来た。
「混んでるから、落ち着いたら動こうと思ってな」俺はまだグラウンドにいた。
「行こうぜ。トーナメント表確認しとかねぇと」
「わかった」
グラウンドの隣にあるテニスコートは、緑色のネットフェンスに囲まれ、コート数は3つあった。トーナメント表は白い模造紙に書かれていて、フェンスに貼り出されていた。
俺たちの試合は、第2試合でBコートで行われる。対戦相手は、小学校からの腐れ縁の桐紫月。絶対に負けられない。
『1年1組、木瓜くんと丹羽くん、運営テントまで来てください』
拡声器でこもった男性の声が聞こえてきた。人が多すぎるし、生徒たちの話し声でどこから聞こえてきたのか分からなかった。
再度、アナウンスが出たときにわかった。体育館の近くにある運営テントからだった。テントには紫月と男性教師がいた。
「どうしたんです?」テントに着くと、丹羽が聞いた。
男性教師が紫月を見て頷いた。お前が話せということなのだろう。紫月はめずらしく焦った様子だった。
「実は……ペアを組んでいる人がまだ来てなくてね。ホームルームの時にはいたんだが」
「校内放送で呼び出してみたらどうですか?」俺は男性教師に提案した。
「拡声器じゃダメなのか?」丹羽が横から入ってきた。
「こんな人混みだと拡声器は伝わりにくい。俺たちが拡声器の声に気がつくのに時間が掛かっただろ?校内放送ならすぐだ」
「そうだな」丹羽は納得した表情で頷いた。
男性教師がそうしよう、と言うと校内放送で呼び出した。
『1年2組の藤孝高くん、藤孝高くん、至急、体育館前の運営テントに来てください』
「紫月、これで来るはずだ」
「ありがとう、湊斗くん」紫月は少し安堵した様子で言った。
他のテニスコートでは試合が始まり、グラウンドの方では応援する声が聞こえる。少し待ったが、藤孝高は来なかった。
「藤くん、一体なにをやってるんだ」紫月に落ち着きがない。
「探しにいくか」丹羽が俺の方を見て言った。
「ああ」俺は空返事をしながら情報を整理する。
紫月が最後に藤を見たのは、今朝のホームルーム。校内放送を聞いても運営テントにやってこない。
頭の中の霧が晴れた。紫月の方を見ると、同様に閃いた様子で走り出したのはほぼ同時だった。丹羽も後から走ってきた。
「どうしたんだよ。2人とも」
「確かめたいことがある」俺は振り返りながら言った。
俺たちは昇降口に着いた。考えが正しければ、藤はまだ校舎の中にいる。
「紫月、藤の下駄箱の場所わかるか?」
「なんとなくだが」
俺と紫月は1年2組の下駄箱の後半部分を調べた。名前のシールが貼ってあればすぐだがそんなものはない。1つひとつ下駄箱を開けて調べる。
「いい加減教えてくれないか?なんでこんなことやってるんだよ」
「校内放送を聞いても藤はやってこなかった。丹羽はどう思った?」
丹羽は怪訝そうな顔で、「校内放送無視して、まわりに迷惑かけるやつ」
「藤くんはそういう人間ではないよ。この前の中間テストだって学年4位の学力だ。頭が良くて賢い。誰が見たって彼のことをこう言うだろう、優等生タイプの人間だってね」
「それはともかく、呼び出されても来ないのは何かしらの理由があるってことだ。紫月の話を聞けばアレしかない」
俺と紫月は下駄箱を開けながら言った。
「あった。藤くんの下駄箱だ。上履きがない」紫月が俺の方を見て言った。
「上履きがない……まだ中にいるってことか」丹羽が俺と紫月を交互に見ながら言った。紫月が頷いた。
藤は校舎にいる。ということは、
「藤、今頃どこかで倒れてるかもな」
「そんな、早く見つけねーと」丹羽の声が大きくなる。
「丹羽は運営テントに行って保健室の先生を呼んできてくれ」
テニスコートと体育館の間にある運営テントには、生徒が怪我をした時のための救護所がある。丹羽はわかった、と言って走っていった。
「さて、どこにいるか」紫月は腕を組み、目を瞑った。
仮に本当に倒れているとして、学校だったら誰かしらが気づくはず。球技大会で校舎には誰もいないとしてもだ。倒れても誰にも気づかれない場所は、
俺は東側の階段から4階へ駆け上がった。階段を上がってすぐ右手にあるトイレの前に来た。
「なるほど、ここなら倒れていても誰にも気づかれない……というわけか」遅れてやってきた紫月が言った。
俺と紫月はトイレに入ると、扉が閉ざされたままの個室が1つあった。鍵が掛かっていて入れそうにない。俺と紫月の問いかけに何の応答もなかった。
「くそ、入れねぇ。蹴破るしか」そう言って、俺が戸を何回か押していると、
「湊斗くん、待ってくれ」紫月が隣の個室の壁を登って身を乗り出し、藤のいる個室の様子を見ていた。
「どうした?」
「藤くんが扉にもたれ掛かってる。蹴破れば扉ごと彼を蹴り飛ばすことになる」
「じゃあどうればいい」
「僕が中に入って内側から鍵を開ける」紫月は、藤のいる個室に侵入し鍵を開けた。出てきた藤の顔色は悪く、ぐったりしていた。
俺がおぶる姿勢になると、紫月が藤の体を持って俺の背中に乗せた。立ち上がり、紫月がトイレのドアを開けると、階段を降りた。人をおぶって階段を降りるのだ、踏み外さないように慎重に降りた。
1階に降りて昇降口に着くと、丹羽と保健室の先生が待っていた。
「見せて」先生が駆け寄ってきた。俺は静かに藤を下ろした。
先生の判断で救急車を呼び、藤は近くの病院に搬送された。しばらく救急車のサイレンの音が耳から離れなかった。
助けることで頭がいっぱいで気がつかなかったが、藤をおぶった時とても軽かった。ぐったりしていて全体重が背中に乗っていたはずなのに。
球技大会は救急車が来て、生徒たちは騒然とし、一時中断されたが、数分経てば何事もなく再開されていた。テニスをするような気分ではなかった俺と丹羽は棄権した。
3
「話したいことがあると言われたのか?」
今朝、葵さんと話したことを紫月に話すと、早口でそう返ってきた。
早々に棄権した俺は、紫月と一緒にグラウンドの端にある木陰で時間を潰していた。時々吹く風は強く、涼しかった。
紫月には松浦先生の件で協力を仰いでいた。その後、どうなったのかを彼に報告しなければならないと思った俺は、お礼も兼ねて結末を話した。その時に葵さんとのことも話してしまった。
「そう慌てるなって」
「記憶を取り戻したのかもしれない。君が1番危惧していた事だぞ」
「そうだな」俺は頭の後ろを掻いた。
そうだなって、と言った紫月は、呆れた目を向けてきた。
「松浦先生の件で思ったんだ。思い出すことも悪くないんじゃないかって」
「楽観的だな」紫月が言った。
「姫花さんが心のバランスを保つために、過去の記憶を抑圧したのではないかと考え、君は姫花さんに近づこうとしなかった。思い出すのを恐れてね」
「そうだ。すべてを思い出してしまえば、葵さんの心が壊れてしまうかもしれない。高校で再会したと思ったら、俺のことをまったく覚えていなかったんだぞ?それだけ抑圧された記憶だってことだ」
「過去の人間である俺たちは会わない方がいいとも言っていたね」
「でも、葵さんの方からどんどん話しかけてくるんだよ。拒めねぇだろ」
「なら何故、姫花さんは僕の方には来ないんだろうね」紫月はうつ向き、消え入りそうな声で言った。
「紫月……」俺はこれ以上なにも言えなかった。
葵さんは俺に一体どんな話があるのだろう。球技大会が終わってからなんて待てない。あと数時間経てば昼休憩だ。何とか時間を作り、聞き出すしかない。