ep.1 奇妙な頼み事
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『ピーンポーンパーンポーン』
日常が壊れる音がした。
『1年1組の木瓜湊斗さん、至急、職員室まで来てください。1年1組の──』
流れてきたのは、担任の松浦先生の声だった。淡々とニュース原稿を読み上げる女性アナウンサーのようだった。
声で一瞬、教室にいる生徒たちの手は止まったが自分には無関係だと分かると、何事もなかったように帰り支度や部活動やらで日常に戻っていった。
これがなければ俺もいつものように帰れたのに。
「湊斗、何かやらかしたのか?」
そう言いながら俺の友人、丹羽桧が狐目の笑みを浮かべてこちらに近づいてきた。
「いや、呼ばれる覚えはない」
「だろうな。いつも教室でボーッとしてるような奴が呼ばれるなんて、ないない」
丹羽はバカにした口調で、手を顔の前にもっていき小さく左右に振った。
中々失礼だなコイツは。帰れない落胆で怒る気力もない。
「まぁ、とりあえず行ってみるか」
「湊斗、何も心当たりがないなら堂々としてればいいんだよ。呼ばれた理由を考えても分からないならどうしようもないだろう」
「たまには良いこと言うんだな」
確かに丹羽の言う通りだ。行けばすべてが分かるのだから、早いとこ済ませて帰宅すればいいだけだ。俺は重たい腰を上げて席を立とうとした。その時だった。大きな女子生徒の声が聞こえた。
「えぇぇーー」
俺と丹羽は声のするほうを見た。教室にいた生徒の視線は彼女に注がれた。
「すみません」
女性生徒は、体を何回も直角に曲げて謝罪していた。目が合ったような気がしたが、俺はすぐにそらし、丹羽の方を見た。
「なんだよ」俺は丹羽の狐目を睨み付けた。
「いや。可愛いよなあの子。葵さんだっけ」
「ああ」
「そういえばさ、この前、放課後にお前と一緒にいるところを見たって言う奴がいてさ。本当なのか?」
「ああ。いたよ」
おそらく丹羽が言っているのは、葵さんから出来上がった推理小説があるから読んでほしいと言われた時だ。やばい、まだ読んでない。
「付き合ってるのか?」
「そんな訳ないだろう。俺はもう職員室へ行く。至急って言われてるしな」
「話をそらすなよ、ちゃんと答えろって」
俺は丹羽の言っていることを背中で受け止めながら教室を後にした。丹羽がこの後なんといったか最後まで聞かずに。
職員室は2階の東側にある。4階にある1組の教室から出て、東側の階段を降りると職員室の前にはジャージ姿の生徒たちが屯していた。
上履きにデザインしてある線の色で分かる。目の前にいるのは先輩方だ。去年まで中学では俺の方が上級生の立場だったから変な感覚だ。
強めに退けとは言えないので、申し訳なさそうにしながら縫うように先輩方を避けてやっとのことで職員室に入った。
「失礼します。1年1組の木瓜です。松浦先生に用があってきました」
大きな声で言ってしまった。数人の教師の視線が伝わる。俺はそれに圧倒されながらも松浦先生を見つけた。先生は椅子から腰を浮かせてこっちこっち、と手を振っていた。
「いやーごめんね。いきなり呼び出して」
「俺、なんかやりました?」
「うん。もう、とんでもないこと」
「え?」
「冗談よ。そこ、座って」
笑った先生は近くにあった丸い椅子に座るように促した。先生の笑顔を見るに俺は怒られることは無いように見える。すこし安心した。
「早速、本題」松浦先生は机の引き出しから1枚の紙を取り出し、俺に渡してきた。
「これは……」俺は視線を紙から先生に移した。「世界史の答案用紙ですか?」
松浦先生が見せてきたのは、先週に行われた中間テストの答案用紙だった。点数の欄は空欄だが、バツの数と丸の少なさからしてこの答案用紙の生徒はおそらく赤点だ。なぜ俺にこんなものを。
「そう。見てほしいのは解答。大問3の問6を見て」
俺は視線を落とし、再び答案用紙を見る。先生の言っていた方を見ると、空欄に当てはまる言葉を選択肢の中から選んで答える問題。3つ目の空欄にはこう書かれていた。
「“緑色のホトトギス”ですか」
当然、問題の選択肢の中にそのような言葉はないし、世界史に緑色のホトトギスという名の事件も人物もいない。
「おかしいでしょ?」
「本人には聞いたんですか?」
「聞いたわよ。でもね」松浦先生は言った。「わかりません、としか言わないのよ」
「先生はこの言葉になにか心当たりはありますか?」
先生は首を横に振った。「だから困ってるのよ。なんでこんなこと書いたのかってね」
なんとなく先生が俺を呼び出した理由がわかった気がした。
「俺に聞き出せということですか?これを書いた意図を」
「お願いできる?」松浦先生はとても申し訳なさそうな表情で聞いてきた。
確かに生徒同士なら気を許して答えてくれるかもしれない。でも、いきなり“緑色のホトトギス”って知ってる?なんて聞けない。どうすれば……。
「それとなーく、うまいこと聞いてくれないかな?これがなにかのメッセージでサインならとか、助けを求めてるんじゃないかって思ったら気になってしょうがないのよ」
先生の目力に俺は根負けした。ここまで生徒一人ひとりを見てくれる先生は中々いない。力になろう。
「わかりました。それとなーく聞いてみます」
「ありがとう」先生は子供のような笑顔で俺の手を握った。
「でも、なんで頼むの俺なんですか?もっと相応しい人がいると思うんですけど」
「仲良くしてるところよく見るから。それに木瓜くんは他の人とは違ってちゃんとあの子を見て接してる」
上手く言葉で表現できないが、この人が担任で良かったと心から思う。いつかこの人を間違ってお母さんと呼んでしまいそうな気がする。
「わかりました。明日、早速仕掛けてみます」
「焦りは禁物だよ。鳴くまで待つことも大事だからね」
「はい」俺は席を立った。「では、さよなら」
「さようなら」松浦先生は笑みを浮かべ頷いた。
職員室から出ると、先程までいた先輩方はいなくなっていた。2階の廊下は静寂に包まれていた。
ふと、職員室とは反対側に位置する西側の端の教室に目をやると、2人の女子生徒が立っていた。片方は葵さんに見える。一体あんなところでなにを。
目が合うと、今度は彼女の方が目をそらした。彼女とは知り合い以上友人未満。偶然、廊下で目が合ったからといって話しかけるような間柄ではない。俺は階段を降りて昇降口に向かった。
「さて、どうするか」俺は上履きからスニーカーに履き替える。「あの狐目の友人にどう聞けば答えてくれるだろう」