サレオス視点【1】デリバリーの理由
想像以上に波乱づくしだった郊外研修が終了し、マリーはテルフォード領に戻っていった。
ここにきて病弱設定は無理があるとは思ったが、やむをえないとも思う。
とにかく忘れたい、マリーのその気持ちはわからないでもなかったから。元気そうにはしているが、きっと俺が思う以上に傷ついたはずだ。
でもマリーがいなくなって数日、俺は違和感に気づき始めていた。
あるべきものがない、そんな違和感。日々、何事もなく過ぎているのに、妙に落ち着かない。言葉には言い表せない喪失感にジワジワと内側から侵食されているようだった。
そもそも俺の「日常」はどんなものだったのか。俺はこれまでどんなことを考え、何をして過ごしていたのか。考えるほどに息が詰まるような気がしたから、思考を放棄して、ただただ日々をやり過ごしていた。それなのに。
「おまえ、騒がしいテル嬢いなくて淋しいんだろ」
突然、ジュールがそんなことを言い出した。
淋しい?
淋しいとは何だ?
こいつは何を言いだすんだ。
マリーがここにいないのは当たり前だ。あいつは自分の意思で領地に帰っていったし、俺だってそれをどうこうしようなんて思いはまったくない。「仕方がないこと」なんだ。
俺はマリーがいなくなってから募っていた苛立ちを、ジュールに視線でぶつけた。でもあいつは悪びれもなく笑う。
「なぁ、サレオスならテル嬢のところまですぐに行けんだろ?だったら、このパンを持って行ってやってくんねぇ?」
「はぁ!?」
「え?」
「え?って……」
「だからパン」
「……おまえは何を言っているんだ」
こいつはアホなのか!?そうなんだな!?いや、わかっていた、わかっていたが!!!マリーの思考もよくわからないが、ジュールもたまに突拍子のないことを言い出す。俺の方がおかしいのかと思う瞬間すらあるくらい……。
「あ、そういえば決まったな。アリアナたちの処罰」
そして突然に話題を変えた。おい、ちょっと待て。俺にパンを押し付けるな。なぜ俺は今、パンを持たされているんだ……。
「フレデリックが直接伝えにいくらしいぞ。すでに今朝、こっちを#発__た__#った……っておい!サレオス!?どこ行くんだ!」
俺は気づいたら走ってそのまま寮に戻り、最小限の荷だけ持って飛び出していた。
突然、馬の準備を言いつけられたイリスは、特に何も問わないまま「気をつけてくださいね」とだけ言った。こいつ、本当に俺のこと放任だな。来なくていいが、ついて行こうとは思わないのだろうか。
「くれぐれも無茶しないように」
「ケガなどしない」
「そっちの心配はしていません」
「じゃあなんだ」
「勢いでマリー様を襲わないように、です」
「……チッ!」
「コラコラコラ!仮にもギリギリ王子なんですから舌打ちしない」
「……二、三日で戻る」
「そんなに飛ばす気ですか!?まぁテルフォード領くらいなら大丈夫ですかねぇ。でも、ゆっくりしてきていいんですよ?マリー様と一緒に何日か過ごしたらどうです?」
「遊びに行くわけじゃない。すぐに戻る」
「え、では何しに行くんですか」
「俺は……」
何しに行くんだ?このまま行けば、フレデリックがマリーのところへ行き、アリアナたちの処罰について伝えるだろう。俺が行く必要はない。
それに、シーナがそろそろ戻るはずだ。だから様子を見に行くというのもおかしい。
……俺は一体、何のために行くんだ?
「サレオス様。よく考えてください。あなたは何しに行くんですか?」
あぁ、またこの顔だ。いつもそうだ。何もかも知っているように、こいつは笑う。それがものすごくイラッとくる。
「パン」
「は?」
たまにはこいつも困ればいい。イリスの呆気にとられた顔を見て、胸が少しだけスッとする。
俺はそのまま馬に乗って、かなり飛ばしてテルフォード領へ向かった。
◆◆◆
「サ、サレオス!?」
邸に侵入してきた俺を見て、マリーは唖然としていた。大きな茶色い目を限界まで見開き、しばらくの間ただ放心していた。
「ええええええ!?サレオスなの!?」
「そうだが。誰に見えるというんだ?」
来るはずのない俺に驚いたマリーは、信じられないといった表情で立ち尽くす。そんなに意外だっただろうか、俺がここに来るのは。
マリーは動揺しつつも、部屋に迎え入れてくれた。
「サレオスは何でここに?」
きた。イリスに言われたように、マリーからも聞かれると思っていた。まさか「なぜ来たのか自分でも理由が見当たらない」とはさすがに言えない。だから俺は、とりあえず預かりものだったパンを手渡した。
「ど、どうも、ありがとう……」
マリーは明らかにオロオロしていた。手のひらの上に乗せられたパンに、目に見えるほど混乱している。その顔を見てつい笑ってしまった。
あぁ、そうだ。マリーがいないとつまらない。笑ったり、怒ったり、狼狽えたり、落ち込んだり……マリーがいないと俺の日常には何もないんだ。
しばらくして落ち着いたマリーは、ソファーに座り、いつものように俺に笑いかけた。
「あの……。ありがとう、こんなところまで来てくれて」
先ぶれもなく、勝手に窓から侵入してきた俺になぜ礼を言う?しかもやってきた建て前はパンだ。今思えば、それは絶対におかしい。不自然にもほどがある。こんな遠くまでパンを持ってくるヤツはいない。
「勝手に来たのに?」
あぁ、俺はいつもこんな言い方をしてしまう。でもマリーは嫌な顔ひとつせず、何てことないように笑った。
「そう、勝手に来たのに。でも嬉しい」
「……そうか」
「うん」
ただ、さすがにパンだけではごまかしきれなかった。たいていのことは丸め込めるマリーにさえ「パンのために7時間もかけてっていうのはさすがにびっくりだわ」と言われてしまった。
やはり素直に信じてはくれなかったか。
俺は仕方なく、アリアナたちの処罰が決まったことを告げた。マリーをまっすぐ見つめ、さもこれがここに来た理由であるかのように話した。
マリーはそれを信じ、病弱設定を中断して学園に戻ると決めた。
……ほっとした。
またいつでも会えると思うと、こんなにも心が休まるものかと驚いた。
そして、それがたまらなく危険なものにも思う。まさか俺も、父王や兄上のように……。
それだけは嫌だ。あんな風にはなりたくない。
父王は母上を亡くしてから表情も気力も亡くして飾り同然の王になってしまったし、兄は現状幸せそうだが姉上なしでは眠れないなど意味の分からないことを言っている。
絶対にあんな風にはなりたくない。
だから俺は、マリーに会うだけ会ってすぐに帰ろうとした。でもさすがに夜に単騎で帰らせるわけにはいかないと、マリーに強く説得された。長くいればいるほど離れがたくなる。だから帰りたかったが、無理に出ていくのも合理的でないと思った。
そして翌朝。
やはり離れがたくなってしまった俺は、ついマリーに一緒に帰るかと言ってしまった。俺はいつからこんなに意思が弱くなったんだ。
頭がおかしいんじゃないかと思う。それなのにマリーは、パッと嬉しそうに笑って「帰ります!」と即答した。
よほど療養生活に飽き飽きしていたのだろう。まさか即答で帰ると言われるとは……。弟に何か言われて口げんかをするマリーはかわいらしかった。
そんなマリーを見ていて、俺はふと思い出した。「あ、そういえばフレデリックが今日ここに来るんじゃないか」ということを。
「サレオス?どうしたの?」
マリーがきょとんとした顔でこちらを見上げている。俺の中で何かどす黒いものが湧き上がってくるのがわかった。
「くれてやるものか」
「え?何を?パンはくれたよね?」
「ちがう、そうじゃない」
なぜ俺がここに来たのかは自分でもよくわからないが、とにかくマリーをフレデリックに会わせたくないと思ってしまった。でも思ってしまったのは仕方がない。早いうちにここから連れ去ってしまおう。それがいい。
「すぐに出れば、暗くなる前にエルリックと合流できるはずだ」
「わかった。そんなに荷物なんてないから、すぐに着替えて出られるようにするわ」
マリーは何も疑わず、躊躇わずに出発の準備をした。……驚くほど早かった。レヴィンが「はやっ!」と呟いていたが、俺も同じことを言いかけた。
ただ、マリーに悪いことをしたと思ったのは帰りに加速しすぎたこと。
「うぎゃぁぁぁぁ!」
「マリー、舌噛むぞ!腹に力入れて耐えろ!」
フレデリックの馬車とすれ違わないために、街道をひとつ迂回した。だから俺が来たときよりも加速しないと、こちらに向かっているエルリックに合流できない。
もちろん、そんなこと一言もマリーには教えていない。
途中、休憩のときに涙を滲ませながら崩れ落ちているマリーを見て、さすがに申し訳なく思った。マリーに負担をかけてまで、無理にでも連れ帰りたいなんて本当にどうかしている。
「サレオス?どうしたのそんな顔して」
「……大丈夫かマリー」
「ふふ……大丈夫よ。ええ、将来の練習だと思えば何とか……がんばるわ!」
よくわからないがマリーがやる気に満ちていた。練習、が何の練習なのかはわからないが、とにかくこの移動に慣れようとしているみたいだった。
こうして無事にエルリックと合流し、俺たちは寮へと戻ってきた。




