限りなく正常に近い女
背筋が凍るような冷気に、全身が震えるような強い殺気。パキッと木の枝を踏み折る音。
門の方を見ると、そこには黒い正装を纏ったサレオスがいた。その表情は仄暗く、濃紺の瞳は憎悪が渦巻いているように見える。
「貴様……マリーに何をしている」
いやぁぁぁぁ!右腕にぐるぐる渦巻いている紫色の靄がバチバチ鳴ってるー!本気で消す気!?
まさに魔王降臨なその姿に、私を含めた全員が絶句して恐怖を感じてしまう。
ってゆーかなぜこのタイミングでやってきたの!?公館からここまで単騎で駆けても10分以上かかるけれど!?
「マリーが気になって探知していたが……ヴィンセントが殺気立ったから来てみればこれはどういうことだ?」
ギロリと睨みつける凶悪な視線は、完全にヴィーくんに向かっている。
あわわわわ、護衛に厳しいサレオス!でも危害を加えられたわけじゃないのに!
「落ち着いてサレオス!別にたいしたことじゃ……」
何とかサレオスを止めようと一歩前に出ると、生徒会長が私の手首をぐっとつかんで引き留めた。
「うえ!?せ、生徒会長なにをっ!」
あまりの力強さに振りほどけず、私は放してくれと目で必死に訴えかける。が、生徒会長は何かを決意した顔で、私のことをじっと見つめて力強い声で言った。
「マリー嬢、一緒に逃げよう!」
「は?」
え、何から逃げるの?謎すぎて思考が停止する。
「殿下とうまくいっていないのでは?あれは……恋人間暴力というやつだろう?」
「はぁ!?サレオスはそんなことしない!」
あああ、サレオスがどんどん近づいてきているわ。不敵な笑みまで浮かべて、完全に魔王化してる模様……。お願いだから早くこの手を放してぇぇぇ!
「マリーに暴力などありえん。消すのはおまえだけだ安心しろ」
「待って!さすがに消すのはダメ!」
庭先に暴風レベルの風が起こっていて、なんだか台風の最中みたいになってる!ヴィーくんなんて殺気に当てられてちょっと震えてるし、キャサリン先生は……なんかお酒飲んで眺めてる!その余裕があるなら止めてくれませんか!?
私の縋るような視線を感じた先生は、ふふっと笑って言った。
「うちの敷地ではやめてくれないかしら~。血のにおいがしたら野犬が寄ってくるじゃないの」
しかしサレオスは生徒会長に狙いを定め、先生と同じようにふっと笑った。
「大丈夫だ、跡形もなくなるから後処理は必要ない」
あわわわわわ!これはやばい、ちょっと目がイッてる!サレオスの元に駆け寄ろうとした私は、生徒会長にまたもやぐいっと手首をひっぱられて身体が大きく傾いた。
「近づいちゃだめだマリー嬢!」
「きゃあっ」
「お前ごときが気安くマリーに触れるな!」
しかしその瞬間。
私の肩に下げていたバッグの中から、ポロッとあるものが転げ落ちる。
「あ」
--コロン……
地面を蹴って、すでに私の目の前まで詰めていたサレオスがピタリと動きを止めた。
私とサレオスの間にソレが転げ落ちた瞬間、庭を荒らしていた暴風がふわりと収束し、彼の右腕にあった紫色の靄も何もかも消えてなくなっていた。
「……」
サレオスも固まっているけれど、私も同じようにその場に固まっている。
春の陽気な日差しと、ここの雰囲気がまったくもって合っていない。
「し、失礼を……」
そーっと背後からヴィーくんが近づいてきて、中腰のまま私の脇を通り抜けると、私たちの視線が集中していたソレをこっそり拾い上げた。
転がっていたサレオス人形を。
「あ、あの……これはその……えへっ」
ヴィーくんから人形を受け取り、サレオスに笑いかけてみたものの、私が人形をもらおうとしていたことはばっちりバレてしまった!
生徒会長は訳がわからずその場に立ち尽くしていて、私の手をようやく放してくれた。
両手で人形を握りしめた私は、おそるおそるキャサリン先生を振り返る。お願い先生、サレオスに説明して!
「あぁ、サレちゃん、マリーにその人形あげてもいいかしら?」
「なっ!?」
きゃああああ!先生、言っちゃった!もうバレてるけれどストレートに言っちゃったー!
サレオスは即座に先生のもとに大股で詰め寄り、怒りのオーラを放つ。
「あんなものをマリーにやるなど……俺に生き恥をさらせと!?」
そんなに!?ものすごくよくできていてかっこいいのに!
「あらやだ、愛する人の人形が欲しいと思うのは自然なことよ、ねぇマリー」
こちらに笑顔を向けるキャサリン先生。私はもちろんコクコクと猛烈に頷いている。だって欲しいんだもん!
それを見たサレオスは、今度は私の方に向かって力なく歩いてきて、無言のまま人形に向かってゆっくりと手を伸ばす。
私はその手から逃れようと、人形を持ってヴィーくんの背中に隠れた。
「いや!もう私のだもの!」
「待て、マリーそれだけはダメだ……頼む」
ううっ、でも欲しい!防波堤にされたヴィーくんがかわいそうだけれど、ここは私も引けないわ!
「お部屋に飾って、毎日おはようとおやすみを言うの!一緒に寝るんだもの!」
私は必死に叫ぶ。あ、眺めてニヤニヤしようと思ってることは言わないわ。リサに人形の着替えのバリエーションを作ってもらおうと思ってることも。
サレオスはよほど嫌なのか、この世の終わりのような顔をして私に語りかけてくる。
「それくらい俺が毎日言ってやる。だから人形はここに置いていけ。そんなものマリーが持ってると思うとさすがに……」
「やだぁぁぁ!持って帰るー!もうこの子は私のものなの」
ヴィーくんを間に挟み、私たちのやりとりは続く。
「マリー、では他には何が欲しい?この世にあるものなら何でも用意するから!」
「やだ、この人形が欲しいの」
「多少の無茶も叶えるから、何が欲しいか考えてくれ。聖竜や闇竜ぐらいなら明日にでも狩ってくるし、虹色の鱗で髪飾りをつくるとかネックレスをつくるとか」
私は全力で首を左右に振る。それはもう、もげるかと思うほどに。
「いや!」
サレオスは前髪をぐしゃっと握り、顔を顰めている。
「くっ……マリーは何が欲しいんだ。何でも用意する、約束する」
その言葉にピクリと反応した私は、ヴィーくんの背後からそっと顔を覗かせる。
「何でも……?」
結局このやりとりは5分ほど続き、最後は私が折れて人形を手放した。
だって、おはようとおやすみのキスもしてくれるって言うんだもの!しかも今度デートに連れて行ってくれるって。
さらには、姿絵を新しく描かせて私にくれることも約束してくれた。
卒業したら制服ごと一式もらう約束も取り付けたわ!婚約式や結婚式の衣装も全部私にくれるって。もちろんサレオスの着た本物の衣装よ。大量のオプションをゲットした私はご機嫌になる。
「主様、結局のところ取引になっていないのでは?サレオス様は特に身を削ってません」
ヴィーくんのツッコミが入るけれど、私は満足しているから気にしないわ。
「おいヴィンセント、マリーが気づいていないんだから余計なことは言うな」
サレオスに睨まれたヴィーくんは小さくなって「すみません」と呟く。
「先生、このお人形お返しします!」
私は惜しみつつもキャサリン先生に人形をそっと手渡して、踵を返すとサレオスの腕の中にすぽっと飛び込んだ。
「約束、忘れないでね!」
「あぁ、だがなぜ俺の制服など……?」
あれ、ものすごく腑に落ちないというか不思議がられているわ。わがままだったかしら?
でもここはもう、ストーカーを妻にするということで諦めて欲しい。抱きつきながら、彼のみぞおちあたりに額をぐりぐりと擦り付ける。あぁ、幸せ!
「そろそろ戻ろうか、用事も済んだろう」
サレオスはそういうと、私のことを抱き上げて優しく笑った。彼の腕に座るみたいになっているけれど、魔力を使っているらしく重くないみたいね。
私は満面の笑みで彼を見つめて頷いた。
「ふふっ、お迎えに来てくれて嬉しい……って、んん?」
なんか忘れてるような……。
「あ」
「どうしたマリー?」
周囲を見回してみると、そこには放心している生徒会長がいた。
人形騒動ですっかり忘れてた!
生徒会長は、キャサリン先生に肩をポンポンと叩かれて慰められている。
「もう諦めたら?」
生徒会長は何も見えていないようで、先生の言葉にも反応しなかった。大丈夫かしら……?
私が心配していると、サレオスが意地悪い声で皮肉を言う。
「そうだ、アルベルトも人形にしてもらえばいい」
え、人形って罰ゲームみたいな位置づけなの?痛いのかしら、人形の型とるの。
しかしサレオスの提案に、キャサリン先生は困ったようにため息をついた。
「私、ノーマルな男は趣味じゃないのよね~」
どういう意味!?サレオスは普通じゃないってこと?
「俺は普通だ」
すぐにサレオスが反論するも、先生はケラケラ笑って否定した。
「やだ、そんなわけないじゃない。私はねぇ、内側のドロドロが滲み出ている男が好きなの、サレちゃんみたいな」
「失礼だな」
あれ、そういえばお父様も人形にしてもらったって話をしてなかったかしら。お父様もドロドロしてるってこと?それはわかるけれど……。
今度は私がキャサリン先生に対して反論した。
「サレオスは優しい人ですよ?頼り甲斐があっていつも見守ってくれて、ドロドロなんてしてないわ」
ところが先生はぎょっと目を見開き、すぐに心配そうに私の瞳を見つめる。
「マリーは別の治療が必要なようね。後遺症かしら?重症だわ」
患者扱いされてるー!
「おい、マリーは限りなく正常に近いはずだ」
サレオスがフォローしてくれるけれど、私はここで違和感に気づく。
ん?限りなく正常に近いって……それは異常だということでは!?サレオスを見つめると、自分の失言にまったく気づいていないようで優しい笑みを返された。
「……」
「どうした、マリー」
み、認めましょう!私はあなたのストーカーだもの、正常ではないかもしれないわ!ただし、あなた限定だからね!?
抱きかかえられた状態で首元にぎゅうっとしがみつくと、ものすごくイイ匂いがした。はぁぁぁぁぁ……好き。
「世話になったな。マリーは連れて帰る」
サレオスはそれだけ言うとくるっと後ろを向いて、道に停めてある馬車の方へと向かった。キャサリン先生は笑顔で手を振っている。左手にはサレオスの人形を持って……。
私はそのとき、咄嗟に生徒会長に向かって叫んだ。
「生徒会長!お気持ちは、ありがとうございます。でも私は、サレオスが一緒じゃないと生きていけないんです!ごめんなさい!」
ちょっと浮上して正気に戻った彼は、力なく笑って手を振ってくれた。やっぱりいい人だわ!
「あぁ、見てればわかった。なんかごめん」
キャサリン先生に肩を抱かれて慰められた生徒会長は、そのまま一軒家の中にしずしずと入っていった。




