二日酔いじゃなかったらしい
「……ぷはぁっ!!」
まるで深海から浮上してきたように、大きく息をした私は、自分が寝ていたことに気づくのに数秒かかった。
突然、ぱっちり目が開いて呆然とする私の前には、初めて見る白いレースの天蓋がある。「あれ、ここどこだろう」と思いながら何度も瞬きを繰り返すが、まったく見覚えはない。
そうだ、確か頭が急に痛くなってそのまま眠っちゃったんだわ。とてつもなく長い夢を見ていた気がする。
「い゛、何時?」
自分の声がおそろしく掠れているのがわかる。聞き苦しくてびっくりだわ。
窓の外が随分と明るいような気がする。朝、じゃないわね。もう昼頃なんじゃないかしら。
二日酔いは引きずっていないみたいで、頭痛はきれいになくなっていた。体が少しだるいのは寝すぎたからかな……?
とりあえず起きてリサを呼ぼう、そう思った私は、右手で目のまわりをこすろうとするけれど手が重くてまったく動かない。寝返りをうって横向きになってみると、そこにはさらさらの黒髪の塊があった。
「サレオス!?」
びっくりして目を見開くけれど、やっぱり見間違えじゃない。そうか、右手はサレオスに掴まれていて動かなかったのね。
彼は両手でしっかり私の右手を包み込むように握っていて、ベッドサイドにある椅子に座ったまま倒れこむように眠っていた。
私は上半身を起こし、そおっと座ってみる。サレオスはまだ眠っていて、私が動いたのに気づいていなかった。
こ、これはさらさらの黒髪に触れるチャンス!?ドキドキしながらそっと指を伸ばす。
髪を撫でようと、左手の人差し指を彼の髪の束の中にゆっくりと差し込んでみた。が、その瞬間、ガバッと勢いよく彼の頭が持ち上がって美しい濃紺の瞳と目があった。
別にいかがわしいことをしようとしていたわけじゃないのに、私の口からはわりと大きめの悲鳴が漏れる。
「ひゃあああっ!」
「……」
しばらくの間、無言で私たちはじっと見つめ合っていた。だってサレオスが何も言ってくれないんだもの。
目が合っているのに茫然としていて、まるで信じられないものを見ているかのよう。おばけじゃないわよ、生きてるマリーですよって言ってみようかしら?
はっ!?しまった。
私ったらりんご酒で頭痛がして倒れたんだった!
しかもこんなに陽が高くなるまでぐっすり眠っちゃった。サレオスったらこんなところで眠るほど心配してくれたみたいだし、とてつもなく申し訳ないわ。
怒ってる?心配してただけ?
急にドキドキしてしまって、私は視線を逸らして口を噤んだ。
大きな枕で顔を隠し、ベッドの上でジリジリ後ろに下がる。
すると、いつもの低い声が悲壮感たっぷりに向けられた。
「まさか……俺がわからないのか?」
「へっ……?」
私は枕越しにちらっと顔をのぞかせて、濃紺の瞳を少し見つめたけれど、とんでもないことに気がついてまたすぐに枕で顔を隠す。
はっ!?どうしよう!寝起きだ私!髪の毛ボサボサ?目ヤニ大丈夫!?
サレオスの目の前で、私は慌てて顔を手で覆ってゴシゴシとこする。奇跡的に、目からねっとり糸を引くものもなく、岩石みたいな固いゴミが出ることもなく、寝起きの目ヤニ問題は大丈夫そうだった。
髪はもう……今さら無理だ!慌てて右手で髪を撫でつけるけれど、編み込まれた三つ編みからはいくつか毛束がはらはら落ちている。
どうにか逃げ場を探したかったけれど、早々に諦めた私は仕方なく枕を下に降ろした。
「サレオス……あの……おはようございます」
私が俯きがちにそう言うと、彼は濃紺の瞳を見開いた。
「……」
「どうしたの?あの、私、どこかおかしい?」
ええっと、寝起きがブスでびっくりしてるのかしら!?
なぜサレオスは何も言わないの!?
「どうしたの?」
心配になって問いかけると、彼の右手がゆっくりと私の顔に近づいてきた。
「?」
なんだろう。よく見ると手が少し震えてるみたい。
……寒いの?
あ!こんなところで毛布もかけずに眠ってたからね?二日酔い(?)の私なんて放っておけばよかったのよ。どこまで優しいの!?
彼はゆっくり椅子から立ち上がり、震える右手が私の頬にそっと触れた。少し手が冷たい。私は頬に触れるサレオスの手に自分のそれを重ね、どうにか温めようと試みる。
あぁ、この大きな細い手が好きなのよね。思わずスリスリしてしまいそうなのをなけなしの理性で堪えていると、ようやくサレオスが言葉を発した。
「マリー」
「はい?」
様子がおかしいサレオスに少し戸惑っていると、今度は突然覆いかぶさるようにして抱き締められた。
彼が座っていた椅子が、ガタンッと音を立てて後ろに吹き飛ぶ。
「うぐっ!!」
痛いぃぃぃ!ぎゅうぎゅう締め付けられて思わず聞き苦しい悲鳴が漏れる。
どうしたの!?なんでこんなことに?大げさよ、二日酔いくらいで……。何だか死にかけたくらいの反応なような気がする。
「マリー、よかった……無事でよかった」
いやいやいや、奇跡の生還みたいになっちゃってる!私は何とか彼の胸を手で押しやると、その目をじっと見つめて尋ねた。
「おおげさよ。どうかしたの?」
彼はなぜか泣きそうな顔をして、私の頬を親指でなぞる。
「どこか痛いところは、つらいところはないか?俺のことは、ちゃんとわかるのか」
縋るように声を振り絞るサレオスのことがわからなくて、私の頭の中はどんどん混乱する。わかるもなにも、サレオスはサレオスよね。りんご酒だけで、そこまで酩酊状態じゃないんだけれど。
私はとにかく大丈夫ということを伝えようと、思いつくままに答えた。
「大丈夫よ、痛いところなんてないし、元気だし……ちょっとまだ体はだるいけれど休むほどでもないわ。サレオスのことだってわかってるわよ」
そういって笑って見せると、今度は優しく抱き締められて背中を撫でられた。薄い寝巻のせいで、背中に大きな手で触れられると感触が妙にはっきりあってドキドキしてしまう。ここにきて心拍数が爆上がりで、また倒れるかもしれない危機に陥った。
「二日酔いで倒れるなんてごめんなさい。心配かけちゃったよね!?」
堪らず私は声を上げる。
「は?」
あれ、違うのかしら?低い声が、聞いたことないくらい上ずっていた。
「え?だからお酒で……ほら、リュックさんと一緒に酒場で、りんご酒飲んで、それで頭痛がしちゃって。それで倒れたんでしょう?私ったら」
「……」
サレオスはゆっくり体を離したと思ったら、私の肩に額を置いてため息をついた。
「マリー、ちがう、そうじゃない」
「はぃ?」
私が間抜けな返事をすると、サレオスはベッドサイドの椅子を魔法で元の位置に戻し、それに座ってこちらをまっすぐに見つめていった。
「思い出したんだろう?……昔のことを。トゥランに来たときのこと、俺のことも。頭痛はそのせいだ」
はっ!?そうだわ、私ったら、起きたらサレオスがいて舞い上がっちゃって。肝心なことを忘れてた!
10年前に何があったのか、思い出したんだった!なんだろう、思い出したっていうか「最初からあった」ことを知ったというか、うまく表現できないけれど確かに今の私には10年前にトゥランに行った記憶があった。
そう、なんで忘れてたんだろう。黒い髪の小さな王子様。あんなに大好きだったのに。
「……レオちゃん?」
ちょっと遠慮がちに、伏し目がちにそう呼んでみた。真正面から呼ぶのはちょっと気恥ずかしいような感じがして。
サレオスは少し間を空けたけれど、はっきりと返事をしてくれた。
「なんだ」
おおっ!やっぱりレオちゃんだったんだ。私は嬉しくなって、もう一度呼んでみる。
「レオちゃん」
「……」
あれ、今度は返事がない。ちょっと眉間にシワが寄っていて、返事をしたくないみたいだわ。嫌なのかしら、昔みたいに呼ばれるの。じっと見つめるも、やっぱり返事は返ってこなかった。
「ねぇ、レオちゃん。おお~い?」
「その呼び方は……」
「ダメ?」
「……」
ま、いっか。私も呼んでいて変な感じだもの。サレオスはサレオスだわ。
それにしても大きくなったものね。まさかこんなにかっこよくなるなんてびっくり。改めてサレオスをまじまじと見つめ、締まりない顔でへらへらしていると、ちょっと不服そうな顔をしている黒髪の王子様が諦めたようにため息をついた。
「マリーが生きていてくれるなら、呼び方くらいは些細なことか……好きにしてくれ」
「あら、何だかおおごとね。生きていれば、なんて」
自分に何が起こったか知らない私は、サレオスの言うことが大げさすぎてついくすくすと笑ってしまう。ちょっと眠っていただけなのにな、なんて思っていると、ふと疑問が湧いてきた。
……おおごと?
あれ、何か私、忘れてるような気がする。何だったかしら……すごく大切なことがあったような気がするの。
サレオスと見つめ合ったまま真剣な顔をしていると、ゆっくりと立ち上がった彼の顔がだんだんと近づいてきた。
おろしたままの白金の髪をそっと撫でられ、その手が優しく頬に添えられる。私はぼおっとしたまま、濃紺の瞳を見つめていた。
なんだったかしら。何か忘れてる気がする。今にも唇が触れそうになったとき、私は思わず声を発した。
「ねぇ、私、何かを……」
サレオスの動きがピタッと止まる。これ以上ないほどの至近距離で、私たちは互いを見つめていた。
「なんだ?何か気になることでも?」
「私、夢を見てて……何か大切なことを」
言いかけて気づいた。そう、私はとても大事なことを伝えなきゃいけなかったんだわ!
「ふっかつのじゅもん!」
突然叫んだ私にサレオスがびっくりして身体を離した。
あわわわわ、こうしちゃいられない!忘れる前にメモよメモ!
「急いで紙と書くもの持ってきてー!」
--バタンッ!
私が叫んだと同時に、部屋の扉が大きな音を立てて開き、リサとクレちゃん、それにお母様が飛び込んできた。
「えええ!?なんでみんないるの!?しかもお母様がなんでここに!?」
リサは私の顔を見て、健康状態のチェックに入っている。クレちゃんは近くにあった書机の中から紙と万年筆を取り出して渡してくれた。
「も~、一気にそこで畳みかけるようにキスして、適当に押し倒して既成事実を作ればアランを説得する手間が省けるのに!ほんっと、奥手なんだからサレオス殿下は……」
ひぃぃぃ!何てこと言うのお母様!
あああ、でも今はそれどころじゃない!私は必死で、紙の上にあの長すぎる謎の呪文を書き綴っていく。うわ~これ絶対間違ってる気がする。
「くっ……なんだっけ、あああ~最後の方が出てこない!」
額に手をやり、うんうん唸って苦しんでいると、クレちゃんが別の紙を持ってきてくれた。
「ねぇ、もしかしてそれ、マリー様がうわごとでずっとしゃべってたことかしら?一応、何かのためになるかしらってメモしておいたんだけど」
嘘ぉぉぉぉ!?さすがクレちゃん!
「クレちゃぁぁぁぁぁぁん!!ありがとうーーーー大好き!!!!」
やっぱり私はクレちゃんなしでは生きていけないわ。賢者のふわふわマシュマロボディにひしっと抱きついて、私はつい頬ずりしてしまった。
クレちゃんがメモしてくれていた内容と、私が覚えていた内容をすり合わせると、ルキナ様の思念体が遺したふっかつのじゅもん(?)が完成した。
サレオスにそれを手渡すと、不思議そうな顔でその紙をじっと見つめていた。私がルキナ様の思念体から伝言を預かったことを話すと、とても驚いた顔をしていた。でも何か思い当たるところがあるらしく、すぐにカイム様のところに伝えに行くという。ちょうど部屋に入ってきたセダさんという従者の方と共に、サレオスは部屋を出ていった。




