昔の話をしようか【後】
トゥランからアガルタに戻るときのこと、たまたま立ち寄った港町で、事件は起きた。幼いマリーが南の国の王族に目をつけられ、世話役だったミリヤという女性と共に誘拐されかけてしまったのだ。
侯爵は膝の間で組んだ手にぐっと力を込めて、思い出すほどに苛立ちが露わになっていく。
「そいつは、各国の美しい容姿をした幼女を集めているような特殊な趣味の男だった。されど腐っても王族、金だけはあるから傭兵を雇ってマリーを攫おうと……!」
憎しみのこもった目で殺気を放つ侯爵に、二人は何もかける言葉がなく沈黙を続ける。
「やつらは一般人を装ってマリーを攫おうとしたらしい。ミリヤが応戦したものの、女の身一つで傭兵30人はさすがに分が悪すぎた」
「……」
「それでミリヤが雷魔法で全員を黒焦げに」
「!?」
「マリーは一般人が突然黒焦げになったと思ったらしく、その場で嘔吐し泣き崩れたそうだ。それでそのときのことがトラウマに」
(そっちですか!?攫われかけたことがショックじゃなくて身内!?)
イリスは10年前に会ったミリヤことを思い出していた。薄茶色の髪を後ろで一つにまとめた、品のある優しそうな侍女にしか見えない20代前半の女性だったような気がするが、どうやら中身は苛烈な部分を持ち合わせていたらしい。
「もちろん娘は攫われずに無事だった。だが、その後さらに追っ手がきて目の前でミリヤが背に矢を受けて怪我を負ってしまい、マリーは自分のせいだと大泣きして……あの子はただ、私たちの好きな茶葉を密かに買いに出かけただけで、何も悪くなかったのに」
悔しそうに話す侯爵を前に、サレオスが眉根を寄せて切り出した。
「それにしても、当時の大臣ら上層部は何をしていたんです?あれはあくまで外遊でしょう、そのときに官吏の家族が襲われるなど失態以外の何でもないはず」
サレオスの言葉に対し、やるせなさを存分に含んだ諦めのようなため息が侯爵から漏れる。
「当時も今もあまり変わらんが、アガルタの水源の3割は南の国が握っている……そのせいで、当時たかが外務大臣補佐だった私がいくら娘を守ってくれと頼んでも、上はまったく聞く耳を持ってはくれなかった」
南からの資源確保と一人の娘、どちらを優先するかは役人である自分にわからないはずはなかった、が、それでもあらゆるものが許せなかったと侯爵はいっそう表情を険しくした。
「全員葬ってやろうかと思った、が、妻が『このとてつもない恨みを一瞬で晴らすつもり……?』と凄んでね」
「……」
「その後、アガルタに戻ってから数年がかりで報復を……じゃなかった、まぁ、そのなんだ、メアリーはあれ以来、武具と魔法道具の商会を立ち上げて日々研鑽に勤しんでいるよ。そして幼少から武具や魔法道具で遊んでいたレヴィンは、ご存知のようにあんな感じになってしまって……それは今は置いておこう」
5年前には35歳という最年少で大臣になり、国内の有力貴族に根回しもしてきた。どこの派閥にも属さず、のらりくらりと中立を保ってきたのにはいつ何時でも多数派に入り込むためだったという。「力を持たなくては娘を守れないと学んだのだ」と淋しげに笑う侯爵に、サレオスは同情した。
「ここ十年で随分とじじいどもには去ってもらったよ。だが水源を何とかしない限り、またいつマリーが狙われるかもしれんし、マリーだけに限らず犠牲になる娘が出るかもしれん」
この世界の水源は、源泉にある鉱石に所有者を魔力で刻み込むことでその権利を主張できる。もちろんそこは頑丈な砦が築かれていて、所有権を強奪でもしようものなら戦争に突入するのだ。
堪らずぎりっと奥歯を噛みしめた侯爵を見て、イリスがぼそっと呟いた。
「あの国は無茶苦茶ですからね……」
アガルタだけでなく、トゥランでも南の国との水源諍いはたびたび発生していて、それは最大の懸念事項でもある。
しかも8年前、南の国で発症した疫病の処理でまったく政府が機能しなかったために対策が後手に回り、それがトゥランにも蔓延して多くの命が失われた。そしてその病は外遊に出たサレオスの母である王妃やその侍女にも感染し、命を落とす原因にもなったのだ。
侯爵は大きく息をつき、いったん気持ちを落ち着かせてからまた話を再開した。
「よりによってマリーを狙った変態は、各国を遊び歩いていたために南の王族が多数犠牲になった流行病から逃れた……これがどういうことがわかるか」
眉を顰めたサレオスは、湧き上がる憎悪をどうにか抑えて喉から声を振り絞る。
「現、国王か……」
マリーが受けた恐怖を思い、爪が食い込むほど強く拳を握りしめたせいで、彼の細く長い指からはわずかに血が滲んでいた。イリスは無言でハンカチを差し出すも、サレオスはそれをもう片方の手で制した。
「あの男に絶対にマリーを見せてなるものかと、徹底してパーティーには子供たちを出さなかった。王太子妃候補にしたくなかったのもあるが、病弱という噂を流して私たちは娘を領地に閉じ込めたんだ。エルリックがうちに来たのはちょうどその頃だな……」
「マリーをかばったミリヤは今どこに?」
「彼女は事件がなくても、結婚してエルリックと代わることが元から決まっていた。重傷だったが回復し、予定通り結婚して今では隣の領地で元気に暮らしている。しかしその後のマリーはすっかり気落ちしてしまい、人を見ると怯えて隠れるようになってしまって」
そんな娘を何とかしたいと思い、手を尽くして精神に介入できる魔術師を探しだしたという。しかし都合よく消したい部分だけを選ぶことはできず、六歳より昔のほとんどの記憶を意識の底に隠すことになったのだ。
侯爵はサレオスに、マリーの記憶をなるべく戻さないでほしいと頼む。
「私とメアリー、それにレヴィンの魔力量が多いことは気づいているだろう?本来ならマリーもそうだった、が記憶を抑え込むのに魔力量のほとんどを常に代償にしている状態でね……だからこそ、あの子には目の届くところにいてもらいたかった。これまでも、欲を言えばこれからも」
「……」
サレオスは、自分が魔力を流し込んだときの違和感を思い出す。話を聞いて納得しつつも、何も知らなかったはいえ自分がいかに危ないことをしたのかを悟り、背筋が凍るような気分になった。
「マリーの記憶が戻ったらどうなりますか?」
無理やりフタをしたものを、鍵もなく開ければどうなるか。嫌な予感ばかりが頭に浮かぶ。
侯爵はゆっくりと首を振り、それは誰にもわからないと答えた。
「自然に思い出すなら大ごとにはならないと。でも無理やり思い出させた場合はわからん。気を失う程度で済むのか、はたまたこれまでの記憶がすべて吹き飛ぶのか……命に別状はないということは魔術師のキャサリン様から聞いているが、それ以上のことは実際になってみないと」
歯切れが悪いのは、娘にとって良くないことをイメージしたくないからだろう。何にせよ、記憶を戻させないことが最善だとサレオスは思った。
「このことは他に誰が?」
「私とメアリー、レヴィン、それからエルリックは知っている。末娘のエレーナは何も知らない。クレちゃんにも話してない」
侯爵の言葉に、二人がわずかに反応した。
((クレちゃんと呼んでいる……!))
しかし本人は微妙な空気に気づかずに、真剣な表情でサレオスに頼んだ。
「絶対に他言しないと約束してほしい。……マリーにはすべて忘れて穏やかに生きてもらいたいんだ」
重苦しい空気が流れ、静まり返った部屋には暖炉の薪が燃えて弾ける音だけがパチパチと聞こえていた。
長い長い沈黙を破ったのは、サレオスだった。
「マリーには何も言わないと約束します、ただ……」
「ただ?」
二人の視線がぶつかった。
「夏にはトゥランに連れて行きたいと思っています。ルレオードではなく、ストークスホルンの城へ」
サレオスの言葉に、一瞬で顔面蒼白になる侯爵。イリスはそれをみて苦笑いする。
「ちょっ……え?ええ?あの……いやね、サレオス殿下、ちょっとそれは考え直してくれないかなぁ~なんて」
「申し訳ない、これはどうしても譲れないのです」
「ええ~、ほぉ~?ふ~ん……、でもマリーの記憶が」
「自然に思い出すなら大丈夫なんですよね?まぁなるべく思い出させないようにしますが」
「いやいやいや、記憶もそうだが、城に行くとなると国王や王太子殿下もいらっしゃるということでその、あれだね?そういうのはちょっと待ってもらえないかな~って思うんだよ私は」
「すみません、卒業までに時間がないもので」
「落ち着いて?ちょっといったん落ち着こうかレオちゃん」
「だからその呼び方はやめろ」
「いやだぁぁぁ!聞きたくない聞きたくないっ!マリーを嫁になんてやりたくないぃぃぃ!」
「……」
「あんなにかわいいんだぞ!?ちょっと思い込みが激しくてたまに挙動不審なところもあるが、素直で愛らしい娘なんだ!親としては22歳くらいまでは手元に置いておきたい!」
「……そうですね。本当に素直で愛らしい。あの何の穢れもない笑い顔なんて特に」
「おい、やめろ、他人のくせにうちのマリーを語るな。あれは私の娘だ、やらんぞ!まだやらんからな!」
「……チッ」
「おおーーい!舌打ちするな!」
「……」
二人の間に沈黙が長く居座る。二人があまり長く口を閉ざしていたことで、イリスが割って入ろうかと思い始めたとき、侯爵はスッと立ちあがり何も言わずに扉の方へと向かった。
「あの……?」
イリスがすぐそばに寄り声をかけようとしたとき、勢いよく振り向いた侯爵はサレオスに向かって大きな声で叫んだ。
「まだ!まだ娘はやらんからな!娘は神よりも尊いもんなんだよぉぉぉ!」
ーーバタンッ
扉が閉まる音だけが、静かな部屋に響いた。
「「……」」
イリスとサレオスは呆気にとられ、扉の中央一点を見つめる。
しかしすぐさまノブが下がり、ほんの少しだけ開いた隙間から侯爵がじっとのぞいていた。
ーーガチャッ
「だからストークスホルンには連れて行かないでくださいね……」
ーーバタンッ
扉の音と共に今度こそ静まり返った部屋で、しばらく二人ともその場から動けずにいた。父親という生き物の切なさをひしひしと感じ、何とも言えない空気が漂う。
随分と無言が続いた後、サレオスはイリスに向かって鋭い視線を投げた。
「おい」
「なんでしょう?」
「……朝の襲撃、おまえだろう」
長年連れ添った主人には見抜かれたか、と悪びれもなく笑顔を浮かべるイリス。
「バレました? まぁ、今日のは私が雇った刺客ですけどね、実際に侯爵を狙って刺客を差し向ける者は一定数います。だから絶対にバレません」
悪びれもなく笑うイリスに、呆れたサレオスは額に手をやり目を瞑った。
「おまえというやつは……」
「本当に殺せなんて指示してませんよ?」
「当たり前だ、そんなことになればマリーが悲しむ」
「でもアレのおかげで、障害がひとつ減ったでしょう?歪んでいると言われようが、結果が大事ですから」
「……」
苦い顔をしたままソファーに背を預けたサレオスを見て、イリスはくつくつと笑いながらティーセットの片付けをして部屋を出て行った。




