悪魔、降臨しました
朝になり、私は早めに起きて学園に向かった。髪は肩あたりからくるんと巻いてもらい、カチューシャをつけて気分はウキウキだ。
さっそく今朝から着けてしまうなんて、私はなんてサレオスの言葉に惑わされる女なんだろう……。でも彼に見て欲しいんだもの!
ルレオードでのパーティーでは、エリー渾身のヘアスタイルを「すごいな」の4文字にまとめたサレオスだけれど、さすがに今日はかわいいとか似合うとか何かしらの感想を言ってもらいたい……そう思うのは贅沢かしら?
あぁ、それにしてもカチューシャってどうしてこうも両方の先端が頭にダメージを与えるの?
私は前世の記憶を引っ張り出し、カチューシャの端につけるシリコンもどきを探してほしいととエリーに頼んでおいた。シリコンもどきで皮膚との距離をちょっとだけ開ければ、じわじわとやってくる痛みも和らぐはずだわ。今日はもうひたすら耐えるとして、シリコンもどきを手に入れられることを期待する。
「クレちゃん!おはよう~!」
「おはようマリー様。あら、そのカチューシャは」
馬車の中で包みを開けたので、クレちゃんはこれを見るのは二度目になる。「とてもかわいいわ」とにっこり笑って褒めてくれた。あぁ、女神がそういうんだから間違いないわ。きっと大丈夫!
私は浮かれながら、クレちゃんと一緒に学園に歩いて向かう。歩いて10分もかからない道のりだけれど、ずいぶんと久しぶりで懐かしい気がしてきたわ。
途中、朝から一緒に仲良く登校していたアイちゃんとジュールに出会った。ニヤニヤしていると、「顔が気持ち悪いぞ」と言われた。もちろんジュールによ!もっと何か言い方があるでしょう!?私が気性の激しい女だったら、即お父様に言いつけているわよ!?
でもいいの。今日は浮かれているからそれくらい笑って流すわ。だって私、幸せだもの。
そう、このとき私は油断していたの。まさかすっかり忘れ去っていた悪魔が、史上最悪の爆弾を投げつけてくるなんて……。
学園の敷地内に入り、教室を目指して2階のロビーに上がったところでフレデリック様がいた。
私を見つけて美しすぎる笑顔を向けてくるフレデリック様に、「おはようございます」と挨拶をしたそのときだった。
「おはようマリー」
相変わらずパーソナルスペースという概念がない彼は、私のすぐ目の前までやってきた。今から教室に行く私を、完全に妨害しているように思える……。嫌な予感がした。
「ええっと、どうなされたのですか?」
粗相をしてまた何かに巻き込まれたくない私は、笑顔を取り繕って義務的に質問した。隣でクレちゃんが心配そうにしている気配を感じる。ええ、私も私を心配しているわ!
「マリー、君に言われたことを守ろうと思ってね」
「……私に?」
まっすぐにこちらを見つめる蒼い瞳が、キラキラと輝いている。どこか嬉しそうなところが不気味だわ。
「あの、私、何か言いましたっけ」
どうしよう、何も思い出せない。そもそも何か話したっけ。バズーカ事件のことが衝撃的で、記憶の中にはとにかく焦って証拠隠滅したことしか残っていない。
首を傾げる私に向かって、フレデリック様はスッと私の右手をとり、胸のあたりで握りしめた。
「マリー」
「……はい」
あぁ、フレデリック様。お願いだから手を離して。ぞわっとする……。
「私は君のことが好きだ」
「………………はい!?」
え?聞き間違い?今なんて?
好きだ、とか何とか聞こえたような気がするけれど……。
こ、これは確認すべき案件だわ!
「ちょ、ちょっとお待ちくださいね?」
私はいったんフレデリック様から視線をはずして、隣にいたクレちゃんの顔を見つめた。そこには驚きすぎて硬直している女神がいた。
え。
聞き間違いじゃないの!?まさか!?
クレちゃんをガン見する私に対し、フレデリック様が不服そうな声を漏らした。
「なぜこのタイミングでよそ見をしたのかな?」
はっ!
私はすぐに正気に戻り、目の前で涼やかに微笑む完璧無敵の王子様を見た。
「あ、あの、今なんて言いました?聞き間違いかと」
「マリーが好きだと言ったんだよ。うっかりさんだね、大事なことを聞き逃すなんて」
「はい!?」
「あぁ、大丈夫。マリーが誰を好きなのかも知っているよ。そのうえで、諦めるのは無理そうだからもう色々と遠回しに口説くのはやめにしたんだ」
にこっと効果音が出そうなほどの、美しい笑みを受け止められる心の余裕が私にはない。
「けっこう直接的に口説いてなかったか?」
あぁ、このタイミングで感想を言えるあなたはすごいわジュール。そのハートの強さをくれないかしら。
私は全身が硬直して汗だくで……何も考えられない!あぁ、急にカチューシャの両端あたりが痛くなってきたわ。どうしよう絶望で息がしにくい。
「フレデリック様がっ!いやあああああ!」
「ありえないわ!」
「そんな!何かの間違いよ!」
周囲には登校してきた生徒がたくさんいる。みんな遠巻きに私たちのやりとりをしっかり見ていて、フレデリック様がやらかした公開告白もばっちり聞かれてしまった!
「あの…あの……」
あぁ、どうしよう。何を言えというの。え?そもそも何か言うべきなの?悪魔はにっこり笑っているけれど、私はまったく笑えないわ!
焦った私は今一度クレちゃんの顔を縋るように見た。が、やはりフリーズしていて目が合わない。うちの女神も動揺するこの事態を、私にどうやって解決しろと言うのだろう。
「マリー、なんで今このタイミングでまたよそ見を?私はこんなに君のことを見つめているのに」
あわわわ、フレデリック様が私の行動を見張っている宣言だわ!でも本当に私のことが好きなのかしら……?
そう思った瞬間、記憶の片隅からまるで人生最期に見るといわれる走馬灯のように様々な言葉が蘇ってきた。
『君がもっとがんばれと私に言ったから……これからはそうしようと思うんだ』
『君は私の唯一無二の存在だからね』
『王子としてじゃなく、ひとりの男として君を守りたいんだ』
うえええええええ!?も、ものすごく露骨に口説かれてるじゃないの!!!なんでこれで気づかないの私!
完璧王太子のフレデリック様からの愛の言葉の数々を思い出し、私は一瞬で赤く……ならずに真っ青になった。
こんなに囁かれ続けた愛の言葉をエグいほど無視し続けて、今さら返す言葉なんてない。
「マリーが言ったんだよ?告白してダメなら諦める。諦められないなら好きでいればいいと」
いやいやいや!まさか私のことだって思わなかったんだもの!でもこんな風にみんなの前で好きだって言わなくてもいいじゃない!
私が震えながらフレデリック様を凝視すると、ちょっと悪い顔でふふっと笑った。
……わかっているんだ。ここまでしたら私がばっさり断ることができないって。じわじわと外堀を埋めて、檻に入れる気なのね……!何て恐ろしいんだ悪魔の所業は!!!
「返事は急がなくていいよ。卒業するまで、十分時間はあるからね」
「時間は、ある……とは?」
「これからは容赦しないよ?マリーと二人で過ごす時間をたくさんとって、お互いをもっと知っていけばいい。それでマリーの心が私に動いてから婚約しよう。私はそれまで待つつもりだよ。少なくとも一年は、ね」
ひぃぃぃ!フレデリック様の目が怖いぃぃぃ!お父様ぁぁぁ!!!今すぐ私を国外に逃がして!
しかも今、さらっと一年って言わなかった!?一年だけ?一年経ったらどうなるの!?
目を瞠り、茫然とする私は全身がガクガクと震えだした。
「マリー、その驚いた顔もかわいいね。また惚れなおしたよ」
そういうとフレデリック様は、私の右手の甲にそっと口づけた。
「「「「きゃぁぁぁぁぁぁ!!!」」」」
周囲の女子たちの絶叫がこだまする。天井の高いロビーに、悲鳴が反響して耳が痛くなるほどだった。でもこの中で一番悲鳴を上げているのは、誰でもない、私よ……。心の中では三回くらい気絶したわ。
とにかく私は手を無理やり引っ込め、不敬だけれど何も言わずにその場から走って逃げた。
「テル嬢、どこ行くんだ!?」
「……洗いに行ったんでしょう」
「あのっ私、お薬をっ……!」
あぁ、みんなが困惑している空気を感じる。猛スピードでお手洗いにかけこむ私を、後ろからアイちゃんが必死で追ってくるのがわかった。
どうしよう、このままトイレに籠ってしまおうか……。でも「あいつお腹痛いんだってよ」疑惑が浮上したら乙女のイメージが死ぬわ。それでフレデリック様が嫌いになってくれるなら籠る価値があるのに。
――ドンドン!
「マリー様!マリー様!」
あぁ、アイちゃんが個室の扉をおもいきり叩いている。
「大丈夫です!大丈夫ですから……とにかく手を洗いましょう!早い方がいいですわ!」
はっ!落ち込んでいる場合じゃなかった!手を清めなきゃ!!!
私は個室から飛び出し、アイちゃんと一緒に右手の甲をゴシゴシ洗った。そして例のどす黒い薬を塗ってもらう。もういっそ、このまま帰ってしまおうか……そんなことが頭をよぎった。でもだめよ。フレデリック様に発言を撤回してもらわなきゃ。
「マリー様。保健室で休まれますか?顔色が悪いですよ……?」
あぁ、アイちゃん、心配かけてごめんなさい。でもここで逃げるわけにはいかないのよ。問題解決は早い方がいいって言うし……。何とかフレデリック様に考えを改めてもらわなきゃ。だって私はサレオスのお嫁さんになりたいんだもの!
私はアイちゃんの細い体を全力で抱きしめて、どうにか気合いを入れなおす。
「マリー様、大丈夫?」
クレちゃんも動揺しているみたいで、少し顔色が悪い。くっ……!うちの女神になんてことしてくれるんだあの悪魔は!
「絶対……絶対にフレデリック様との婚約なんて無理!」
何が何でも諦めてもらうわ。私はそう強く決意し、教室へと向かった。




