もう泣いてばかりいないから
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
高校に進学してから、涼音ちゃんはどんどん派手になっていった。肩までの黒髪を明るい茶色に染めて、メイクをして、耳にピアスの穴をいくつか開けた。きらきらした小さなピアスは、涼音ちゃんの美しく整った顔をちゃんと引き立てて、その役割を果たしている。
「なに見てんの?」
学校からの帰り道、並んで歩く涼音ちゃんの横顔をじっと見ていたら、不思議そうにそう言われたので、一瞬だけ視線を下に落とす。入学したてのころよりも短くなったスカートからにょきっと出ている形のいい脚がきびきびと動いている。涼音ちゃんの脚は長い。身長の低い私は、それをいつも羨望の眼差しで見てしまう。
「耳にいくつ穴が開いてるか、数えてたの」
「三つだよ」
涼音ちゃんは言った。
「数えるほどでもないでしょ」
「うそ。元からの穴を入れたら五つだよ」
私の言葉に、「なにそれ、屁理屈だ」と涼音ちゃんは拗ねたように口を尖らせる。
「穴がどうしたの。説教でもする気?」
「ううん。ピアスきれいだし、なんだか珍しくて」
私が言うと、涼音ちゃんは少し笑った。
「私も、高校卒業したら開けようかな、ピアス」
涼音ちゃんの耳がきらきらするのが羨ましくてそう言うと、
「やめなよ。順子は、そういうの似合わないって」
涼音ちゃんは少し驚いたように言う。
「私だって、眼鏡やめてストパーかけてメイクもしたら、もしかしたら似合うかもしれないよ」
そう反論すると、
「ほわほわのくせっ毛で、眼鏡の順子がかわいいのにな」
涼音ちゃんは勝手なことを言う。私の髪の毛は硬いくせにうねうねと波打ち全く私の思い通りになってくれない。「ほわほわ」なんて表現するようないいものではない。だから、もう面倒くさくなっていつも短く切ることにしている。中途半端に伸ばすよりも、短いほうが手間がかからないのだ。反対に、涼音ちゃんは、真っ直ぐでつやつやできれいな髪を持っている。色が黒でも茶色でも、涼音ちゃんの髪はきれいだ。涼音ちゃんは、私の欲しいものを全て持っているように思う。そんなことを考えていると、
「耳に穴を開けるなんてよくないと思うよ」
真面目な表情で涼音ちゃんが言うので、思わず笑ってしまった。棚上げがすごい。
私と涼音ちゃんは、幼稚園のころからの幼なじみだ。中学生くらいまでは、学校でもよく涼音ちゃんと過ごしていた。でも高校に入学してからは、涼音ちゃんはちょっと派手でスカートの短い人たちが集まるグループにいて、地味で膝丈スカートのグループにいる私とは、接点が全くない。
泣き虫だった私を、涼音ちゃんはいつもかばってくれた。男子たちに頭髪を天然パーマだとからかわれて泣いてしまった時も、いたずらで眼鏡を奪われて泣いてしまった時も、靴を隠されて泣いてしまった時も、涼音ちゃんはいつでも私のそばにいて、そしてひとりで男子たちに立ち向かって行った。いつも泣いていた私のために。
上履きを隠されたのは中学一年生の冬だった。放課後、オレンジ色の空の下、白い息を吐き出しながら、ふたりで靴を探した。
「あいつらの頭じゃ、どうせたいした隠し場所なんて思いつくはずないんだから」
そう言って、私の手を引いて涼音ちゃんはぐんぐん歩いた。私は上履きのままで涼音ちゃんの後ろをついて行く。靴は、学校の裏庭のビオトープの真ん中あたりに放り込まれているのが見つかった。
「ほら、あいつらの思いつく限りの陰険な隠し場所は、こういうところ」
涼音ちゃんは得意そうに言った。
「取ってくる」
そう言って、繋いでいた手を離し、涼音ちゃんはざぶざぶとビオトープへ入って行った。
「涼音ちゃん、いいよ、やめて! もういいよ!」
「平気だって、水も膝までしかない」
水の中から私の靴を拾い上げ、涼音ちゃんはざぶざぶと戻って来た。
「洗って乾かせば、まだ履ける」
私は涼音ちゃんの手から、靴を受け取る。
「ありがとう、涼音ちゃん」
ぐずぐずと泣きながらお礼を言うと、
「順子が泣いてばかりいるから、あいつらが調子に乗るんだよ」
涼音ちゃんは言った。
「そんなこと、わかってるよ……」
咽喉を詰まらせながら、私は答えた。
「うん。わかってるんならいい」
そう言って涼音ちゃんは、まるまった私の背中をぽんぽんとあやすように軽く叩き、そして「寒いね。帰ろっか、順子」と微笑んだ。落っこちそうな夕日と、涼音ちゃんのやわらかな微笑みを、その時の私は、美しいと思った。その美しいものたちを見ながら、私はもうからかわれても、いじめられても、二度と泣くまいと誓ったのだ。圧倒的に美しいものを目の前にして、私をいじめる彼らがとても矮小な存在に思えたのだ。
次の日、涼音ちゃんは風邪をひいて学校を休んだ。私は申し訳なさに泣きたいのを我慢して、学校帰りにお見舞いに行った。
「今日は泣かなかった」
私がそう言うと、涼音ちゃんは熱で潤んだ目を細めて、「すごい」と言って笑ってくれた。
私が泣かなくなったのでつまらなくなったのか、それ以来、くだらないいじめは徐々に収束していった。彼らも自分の中学生活を充実させることに忙しく、単純に、私にかまっている暇がなくなっただけなのかもしれないけれど。
高校に進学してからは、グループごとの隔たりはあるものの、目に見えるような嫌がらせやいじめみたいなものはなくて、少し安心した。だけど、そのグループごとの隔たりのせいで、涼音ちゃんと過ごすことはほとんどなくなってしまった。それでも、お互い今までの習慣が抜けきらないのか、学校帰りに友だちと遊びに行ったりしない時は、自然といっしょに下校している。
「順子ちゃん、昨日、石川さんと帰ってたね」
特別授業の視聴覚室への移動の廊下で優衣ちゃんに言われた。石川さんというのは、涼音ちゃんのことだ。
「うん」
高校生になってからは、私は学校では優衣ちゃんと過ごすことが多い。優衣ちゃんも眼鏡をかけている。私のよりもちょっとおしゃれでかわいい眼鏡で、実際、優衣ちゃんはおしゃれでかわいい。
「仲いいの?」
「うん。幼なじみなの」
そっか、と優衣ちゃんはほっとしたように頷いた。なにやらあらぬ心配をしてくれていたのかもしれない。
「実は、石川さんて怖い人かと思ってた」
「怖くないよ」
涼音ちゃんが昔よく男子の意地悪から私をかばってくれたことを優衣ちゃんに話した。
「わたしもね」
優衣ちゃんが言った。
「中学でそういう、いじめみたいなの、ちょっとあって」
か細い声で、ぽつんと呟くように放たれた言葉に、私は息を飲む。
「でも、誰もかばってくれなかったな」
そう言って、重くなった空気を誤魔化すように笑った優衣ちゃんは、「いじめられてる人をかばうのって、勇気がいると思う」と続ける。
「わたしが逆の立場だったら、わたしはわたしをかばえない。そんな勇気ないもの」
「うん」
私は神妙に頷く。私も、自分にそんな勇気があるとはとても思えない。
「だから、石川さんはすごいと思う。かっこいいんだね」
優衣ちゃんの言葉に、「そう! かっこいいの!」私はぶんぶんと首を縦に振る。優衣ちゃんの言葉で気がついた。そうか、涼音ちゃんは、勇気を持っているんだ。
視聴覚室の扉を開けると、涼音ちゃんと南田さん、そして西村さんの話し声が聞こえた。スカートの短いグループの三人だ。会話の内容を耳で拾いながら、席に着く。
「てかさ、どうすんの涼音、シュウ先輩のこと」
「どうもしないよ。こっちにその気はないんだし」
「でも、シュウ先輩って彼女いなかった?」
「ああ、いたいた。三年のあの目立つ人」
「彼女いるのに他の女に手ぇ出そうとするとか、マジでキモい」
「涼音ってそういうとこ潔癖だよね」
「いやいや、涼音じゃなくてもそういうのフツーに嫌だって」
私と同じく会話を聞いていた優衣ちゃんが、「恋バナかなあ」などと、こっそり言う。
「恋バナにしては物騒じゃない?」
私の言葉に、「あー、確かに。男がクズっぽいもんね」と優衣ちゃんは頷いてた。意外にはっきりと言うもんだな、と驚いて思わず笑ってしまった。でも、それよりも会話の内容が気になる。私は、シュウ先輩という人のことを知らない。知らないけれど、優衣ちゃんが言うようにクズっぽい人だなという印象を先程の少ない情報からは受けた。なので、涼音ちゃんがそんな人に目を付けられているなんて、すごく嫌。話の続きを聞こうと耳をそばだてていたら、先生が来てしまい、それ以上の情報は得られなかった。あとで涼音ちゃんに聞けばいいか、とその時の私は思ったのだ。
「順子って、涼音の幼なじみなんでしょ?」
放課後の教室で、優衣ちゃんと少女漫画の男性キャラクターの中で誰がいちばんクズいかという話をしていると、南田さんが話しかけてきた。いつもいっしょにいる涼音ちゃんや西村さんがトイレにでも行っているのか、教室にはいなかったので、手持ち無沙汰だったのだろう。
「うん、そうだよ」
肯定すると、
「涼音がさあ、もう順子の話ばっかすんの」
南田さんにそんなふうに名前で呼ばれるほど親しい間柄ではないのだが、きっと涼音ちゃんが私のことを順子順子と呼ぶので、それがうつってしまったのではないかと推測する。
「どんな話?」
涼音ちゃんが私のことをどんなふうに話したのか気になって聞いてみる。
「漫画家の先生にファンレターを送ったらお礼の年賀状が届いてうれしくて泣いちゃったとか、いっしょに観に行った映画で感動して泣きすぎて映画館からなかなか出られなかったとか、雪見だいふくをまるまる一個床に落としちゃって泣きそうになってたとか」
「うわ、泣いてる話ばっかり。恥ずかしい」
しかも、最後の雪見だいふくに関してはくだらなすぎて余計に恥ずかしい。
「でも中一の冬からぴったり泣かなくなったとか、卒業式でも泣かなかったとか」
その言葉を聞いて、少し驚く。涼音ちゃんは、私がいつから泣かなくなったのか覚えていてくれたのだ。そのことが、妙にうれしかった。
「涼音は順子のこと、すごいって言ってたよ。あんなに泣き虫だったのに泣かなくなったって」
南田さんは言う。
「涼音ってさ、順子のことマジ好きじゃん。幼なじみってそんなもんなのかなあ。あたしには幼なじみなんていないから、あんたたちみたいなの、ちょっと羨ましいよ」
南田さんのことを派手で、自分とは話が合いそうにない人だと思っていたけれど、話してみると私と同じで普通の高校一年生なんだよなと実感する。私は、つい外見に惑わされて、そういう、人の内側を見ることを忘れがちだ。
その時、派手な音を立てて教室の扉が開いた。
「どうしよう! 涼音が……涼音が、シュウ先輩の彼女に連れて行かれちゃった!」
教室に飛び込んできた西村さんが、半泣きのような顔で息を切らしながら言った。
「うそ、どうすんの。やばいじゃん」
南田さんが焦ったように立ち上がる。
「他にも何人かいて、なんか、本当にやばいかも……」
こめかみのあたりがピリッと痺れたような気がした。涼音ちゃんが危ない。西村さんは少しパニックになっているみたいで、「どうしよう、どうしよう」と繰り返している。
「どこに連れて行かれたの?」
尋ねると、西村さんは初めて私の存在に気付いたようで、はっとしたような表情をした。
「涼音ちゃんは、どこに連れて行かれたの!?」
「たぶん、部室棟の裏のほうだと思う。先輩たち、よくそこで溜まってるから」
西村さんがそう教えてくれる。
「私、行ってくる」
「なに言ってんの、危ないよ順子」
南田さんが言った。優衣ちゃんはおろおろと私と南田さんたちを交互に見ている。
「大丈夫。なにか武器とか探して行くから」
「でも」
南田さんが心配そうに言い、
「だ、だめだよー、やめなよー。順子、あんたそんなちっちゃいのに、三年生相手に無理だよー」
西村さんはべそべそ泣きながら私を止めようとしている。でも、私は行かないわけにはいかない。だって、涼音ちゃんの身が危険なのだ。
「いいから、みんなは先生呼んで来て」
「うん、わかった」
はっきりとそう返事をしたのは優衣ちゃんだった。その返事を聞いて、私は教室を飛び出す。大丈夫とは言ったものの、なにがどう大丈夫なのか全くわからない。武器もどういうものを示しているのか自分でもわからない。とにかく、涼音ちゃんが危ない。頭の中にあるのはそれだけだった。涼音ちゃん、なにされるんだろう。殴られちゃうのかな。そんなの嫌だ。絶対に駄目だ。どうか、涼音ちゃんが嫌な目に遭っていませんように。
廊下を走りながら、途中の手洗い場付近に置いてあった消火器を、武器として持って行くことにした。消火器は想像よりも重かったけれど、抱えられないほどではない。ふらつきながら私は廊下を走り、裏口から上履きのままで外に飛び出した。
部室棟の裏に到着した時には、私の咽喉はぜえぜえ鳴っていて、明らかに酸素が足りていなかった。緊張と酸素不足で視界が狭くなっていて、涼音ちゃんの姿しか目に入ってこない。少し視線を動かすと、涼音ちゃんと同じように髪を明るく染めた女子たちが三人いるのが確認できた。上履きの色で三年生だとわかる。彼女たちも上履きのまま出てきたらしい。私が涼音ちゃんの名前を呼ぼうとしたその瞬間、三人の中で一際目立つ先輩が涼音ちゃんの太ももに軽くだけど、蹴りを入れた。
「なにしてるんですか!」
思わず叫んだと同時に、狭まっていた視界が開けてくる。涼音ちゃんがこちらに気付き、
「順子?」
目を見開いて私の名前を呼んだ。
「なんなの、チビちゃん。こいつの友だち? 邪魔だからあっち行ってなよ」
涼音ちゃんに蹴りを入れた先輩が私をちらりと見て、顔は笑っているのに、そうは思えないような冷たい口調で言った。
「うちらは、こいつに話があるだけだから」
私の頭は、状況を把握しようとフルスピードで動いている。
驚いたことに、涼音ちゃんを羽交い絞めにしているのは男子だった。上履きの色で、彼女らと同じ三年生だとわかる。その状況を見て、すごく、もう本当にすごく腹が立った。涼音ちゃんが、見ず知らずの粗暴そうな男に拘束されていることに対し、ありえないくらいの嫌悪を抱いてしまった。我慢できなくて、髪の毛が逆立って真っ直ぐになってしまうんじゃないかというくらい頭にかあっと血がのぼり、私の全身は熱くなる。
「女のもめごとに男がしゃしゃってんじゃねーよ!」
大きく息を吸い込んで、お腹にぐっと力を入れて出した言葉は、今まで遣ったことのないような種類のもので、そして、その声は自分でも驚くほどよく響いた。あれ、これって男女差別になるのかな、などと頭の隅の冷静な部分で倫理的なことを考えながら、かまうものか、と私は続けて声を張り上げる。
「あんた、なんなの? 女子に顎で使われてんのかよ、ダッセーなあ!」
「え、なになになに」
三人の先輩たちは戸惑いの声を発し、男は一瞬ぽかんとしたような表情をして見せたが、徐々に地味で眼鏡でちんちくりんの一年生が自分を侮辱しているということを理解したようで、「あ? なんだてめー」と、低い声で応戦してきた。
「離せよ」
私は男に言う。
「涼音ちゃんは、あんたみたいなやつがそんなふうに雑にさわっていい人間じゃないんだよ」
「は?」
威嚇のように聞き返してきた男から目をそらさず、私は、防災訓練の時に説明を受けた通り、まず消火器の黄色いピンを引き抜いた。そして、ホースを外し、噴射口を火元に向ける。この場合、火元とは涼音ちゃんを拘束しているこの男だ。
「きったねー手で涼音ちゃんにさわんなっつってんだよ!」
私のその言葉に反応した男は、涼音ちゃんを乱暴に突き飛ばすと、私のほうに向かって加速してきた。
「涼音ちゃん、避けて!」
私は、消火器のレバーを力いっぱい握った。ボッという音がして、薄桃色の粉がホースから噴き出す。周囲からきゃあきゃあと悲鳴が上がった。粉の噴射をまともに胸に受けた男は、声にならない叫びを上げ、その場に尻もちをつく。私は、今度は涼音ちゃんに蹴りを入れた先輩に個人的に復讐するためにそちらに噴射口を向けた。悲鳴と共に、あたり一面が薄桃色の煙で覆われる。
「順子ちゃん、石川さん! 先生連れて来たよ!」
「涼音、大丈夫だったの?」
「うわっ、なんだこれ!? なにがあった!?」
優衣ちゃんたちの声と先生の驚いたような声が微かに聞こえた瞬間、ホースから噴出していた粉の勢いが弱まり、そして止まった。消火器の中身が空になったらしい。
「涼音ちゃん、大丈夫?」
消火器をその場に放り、頭を両手でかばいうずくまっている涼音ちゃんに駆け寄る。涼音ちゃんの制服や髪の毛は、消火器の粉を結構かぶってしまっていた。でも顔は無事だったようだ。
「汚しちゃって、ごめんね」
「あはっ」
顔を上げた涼音ちゃんと目が合った瞬間、涼音ちゃんの口から、笑い声がこぼれた。涼音ちゃんは泣き笑いのような顔をしている。
「あはははははは!」
笑い声はどんどん大きくなる。
「馬鹿なんだから」
笑いながら涼音ちゃんが言った。
「ほんと、馬鹿なんだから、順子」
笑っていたかと思うと、今度はぼろぼろと涙を流し始めた涼音ちゃんに両手を差し出すと、涼音ちゃんはすがりつくようにこちらに両手を伸ばしてきた。
「びっくりしたよ。順子、すごい」
ふたり、粉まみれでその場にへたり込み、抱き合いながら涼音ちゃんは言う。
「あいつ、力すごい強くて、全然動けなくて」
泣きながら弱々しく言い、
「来てくれて、ありがとう」
そう言ったのを最後に、涼音ちゃんは私の肩に顔を埋め、うっうっ、と咽喉を鳴らしてしばらく泣いていた。
「これ、順子がやったの? どうやったの?」
粉まみれの先輩たちや地面を見て、南田さんが言い、
「やばーい。おとなしいやつがキレたら怖いって、本当なんだねー」
西村さんが感動したようにパチパチと手を叩きながら言う。
「こわかったよー」
思わず本音を呟いた瞬間、ぶわっと堰を切ったように涙がこぼれた。
「あっ、泣かずの順子が泣いてる!」
南田さんが声を上げる。いつの間にか変な二つ名を付けられている。そんな大層なものじゃないのに。
「あの人が、シュウ先輩?」
涼音ちゃんに、粉まみれでむせている男のことを尋ねると、
「ううん、違う。全然知らない人」
涼音ちゃんは言った。そして、
「順子が言ったみたいに、たぶん本当に、顎で使われてたんじゃないかな」
神妙な声でひそひそとそう言った。
「あの三人の先輩の中の誰かが好きなのかもしれない」
「ここでも恋バナなのかあ」
私は力が抜けてしまう。こんなふうに人間を突き動かしてしまう衝動。恋というものは、おそろしい。涼音ちゃんに蹴りを入れたシュウ先輩とやらの彼女も、涼音ちゃんを拘束していた男の先輩も、みんな誰かのことが好きなのだ。私は、また外見に惑わされて人の内側を見失っていたのかもしれない。でも、涼音ちゃんにひどいことをしようとした事実はやっぱり許せない。私も、私の中の衝動に突き動かされてしまった一人なのだ。
「順子ちゃん」
気が付くと、優衣ちゃんが私の隣にしゃがみ込んでいた。
「なんだか、みっともないところを見せちゃって……」
自分のしたことが急に恥ずかしくなって言うと、優衣ちゃんは、「そんなことない。かっこいいよ」と笑ってくれた。
「きみたち、とりあえず顔を洗って、ジャージにでも着がえて、職員室に来なさい。全員から話を聞くから」
粉にまみれてむせている関係者たちに先生が言った。
もしかしたら停学にくらいなるのかもしれない、と覚悟をしていたのだけれど、関係者全員、それぞれの担任と生活指導の先生から事情聴取をされた上、めちゃくちゃに怒られただけで事は収束した。あの後、粉まみれになった部室棟の裏を掃除させられたのは、三年生の先輩たちだったらしい。南田さんと西村さんが、先生に一生懸命事情を説明してくれたのだ。ただ、家には私のしでかしたことの連絡がきっちりと入り、家でもこっぴどく叱られた。
「もう、一生分怒られたかもしれない」
涼音ちゃんといっしょの帰り道で、私はため息を吐く。
あれから数日が経った。私には、「消火器の人」という不名誉な呼称がついてしまった。さすがに面と向かっては呼ばれはしないが、影で呼ばれているのを知っている。聞こえてるんだよ。
「あたしなんて、髪色とスカート丈とピアスまで便乗で怒られちゃったよ。今回のこととは関係ないのにさあ」
今日の涼音ちゃんはメイクも薄めで、髪の色を黒く染め、ピアスを樹脂の透明なものに変え、さらにスカートは膝丈になっている。しばらくおとなしめの格好をしているつもりらしい。
「ほとぼりが冷めたら、また戻すけどね」
南田さんと西村さんも涼音ちゃんに付き合ってなのか、同じように地味な格好をして、「コスプレみたい」「こういうのも結構イケてんじゃん?」などと、はしゃいでいた。
「スカートの丈、どうやって伸ばしたの?」
「腰で折ってたのを戻しただけ」
「そうやって短くしてたんだ」
私も、スカートの腰の部分をくるっと折ってみると少し丈が短くなった。
「へえ、便利だね」
こんなふうに真面目な格好をしている涼音ちゃんは、とても清楚なお嬢さんに見える。なので、今日の涼音ちゃんを見る男子たちの態度が妙にそわそわしていて、涼音ちゃんの外見を褒めたたえるひそひそ声が教室には蔓延していたのだ。私はそれが気に入らない。涼音ちゃんがギャルだった時は、怖がって避けていたくせに。
「私、涼音ちゃんはギャルっちい格好してたほうが安心するな」
「どうしたの、急に」
だって、ギャルじゃない涼音ちゃんはモテてしまう。そう思ったのだけれど、言わなかった。涼音ちゃんはギャルでもモテていた。彼女のいるシュウ先輩とやらに懸想された結果がこれなのだ。
「でも、涼音ちゃんは黒髪もすごく似合う」
「どうしたの。やけに褒めてくれるね」
「どんな外見でも、涼音ちゃんは涼音ちゃんなのにね」
「順子だってそうだよ」
涼音ちゃんが言う。
「本当は、順子だってピアス開けていいし、眼鏡やめてストパーかけてメイクもしたっていいんだよ。順子がしたいなら」
「前に似合わないって言った」
「言ったけど、それはあたしが単に嫌だっただけ」
「どうして?」
「順子がおしゃれして、今よりもっとかわいくなっちゃって、告白とかされて彼氏とかできちゃって……って想像したら、なんか嫌だなあと思ったの」
「大丈夫だよ。私、男の子より涼音ちゃんが好きだもん」
私が言うと、涼音ちゃんは照れたように、ふふふ、と笑った。なんだ。涼音ちゃんも、私と同じようなことを考えていたのか。そう思って、私もなんだか照れくさくなり、ふふふ、と笑う。
「あ。ねえ、順子。今度、いっしょにイヤリング買いに行こうか」
唐突に涼音ちゃんが言う。
「イヤリング?」
「ピアスじゃなくても、イヤリングならとりあえずは耳に穴開けなくていいし。順子に似合うの、いっしょに探そう」
「うん」
うれしくなって、私は頷く。
泣き虫だった私が泣かなくなったのは、涼音ちゃんがいてくれたおかげだ。きっと、涼音ちゃんが持っている勇気を私に分けてくれたのだと思う。もう泣いてばかりいない私は、あのころの私よりも、たぶん少しだけ強い。
「楽しみだね」
ほんのちょっと先の未来を想像して、私たちはふたりで笑い合う。
了
ありがとうございました。