ハルシュタットの青い傘
アンリ様主催「クリスマスプレゼント企画」参加作品です。
「だーかーらーっ! UMBRELLA! I'VE LEFT MY UMBRELLA HERE!
「You know right? It's the blue one! I'm just here to pick it up!」
苛立って声を張り上げるも、禿げ上がったジジイは薄笑いを浮かべたまま、首を傾げている。
ハルシュタット。
美しい景観の、世界遺産に登録された湖畔。
ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』のロケ地。
古代ローマ時代から現在まで採掘の続く、世界最古の岩塩坑を擁する街。
ハルはケルト語で塩。シュタットはドイツ語で場所のこと。
塩の場所。塩の街。
俺は今、そのオーストリア・アルプスの麓にある、まるで童話の世界のような街の、童話の世界のようなカフェレストランで、店主らしきハゲ頭に、通じない英語で喚いているところだ。
人のよさそうなジイさんに、ガキらしく、理不尽な癇癪をぶつけて。
仕事が入る度、俺を放って海外に飛んでいたランさん――『母さん』呼びを禁止されてる、俺の生みのハハオヤ――は、俺が自分で自分の面倒を見られると判断すると、海外に同行させてくれるようになった。
そして、放置。そして、このザマ。
「傘、持って出なさいよ」
ヒールにつま先を滑らせるランさんの肩に、コートを当てる。
裏地の背中上部に『Aquascutum LONDON』のロゴと、歴史がありそうなかっこいい紋章みたいな図柄の刺繍、それから『CRAFTED IN ENGLAND』の文字のタグが縫い付けられたトレンチコート。
ハンフリー・ボガートが愛用していた、イングランドのレインコート。
「雨?」
「そう」
袖に腕を通すと、ランさんは扉に立てかけてあった青い傘をちらりと見た。
「この傘。ランさん、覚えてる?」
どきどきしながら口にしてみる。
やめときゃいいのに、わざわざ血の池にダイブする俺は、犍陀多を笑えない。
「ここで買ったっけ? 綺麗な色ね。ここの湖に似てるわ」
「……そうだな」
頬にキスされ、「外に出なさい。色んなものを見なさい。ただし、面倒ごとはやめて」とランさんは仕事に出た。
カツカツとヒールを響かせ、高そうなコートに高そうなカバンを持って、背筋を伸ばした後ろ姿。
バリバリのキャリアウーマン。子供の影なんてどこにもない。
ランさんは傘を持っていかなかった。
俺の青い傘の隣りに並ぶ、ローズピンクの傘。
どこかのブランドの高そうな傘は、持っていくのを忘れたのか、不要だからなのか。
必要になったらビニール傘でも買うか、取り引き会社の人間や部下から渡されるんだろう。
昼飯は一人で適当に食え、と渡されたユーロ紙幣と硬貨――14歳未満だからと、クレジットカードは預けてもらえなかった――をブルゾンのポケットに突っ込み、ホテルを出た。
雨の中、観光がてらブラブラ。
冬ではないが、観光のメインシーズンではない。
雨が降っているからか、出歩く観光客はあまり目につかない。
時折カメラを構える人を目にしたが、カメラが濡れることを恐れてか、すぐに退散していった。
傘の柄をクルクル回し ハルシュタット湖沿いの広い一本道を歩く。
視界はすべて、霧雨のカーテンで灰色がかっている。
鮮やかで明るい色で彩られているはずの壁や屋根、看板は雨粒の煙で白み、ぼやけているし、湖の水平線も山の稜線も。かすんで境目がない。
湖畔沿いの道を抜け、木造の古い家々の並ぶ狭い道に入ってみれば、上り坂。斜面に並び立つ建物はどれも童話の世界のようで、自宅マンションのある南麻布の景色とは、まるで違う。
そのまま突き進んで、石畳の細い階段を上って、右手には山、左手には湖、前後には山肌に並ぶ木造の家、というおとぎの世界をぐるりと見渡す。
もう十分だ。
昼飯を食おう。
元来た道を戻ろうと足を踏み出すと、濡れた路地に足をとられそうになった。
石畳はこれが嫌だ。
滑るし、つま先を引っかける。
舌打ちして、足を蹴り上げると、つま先から雫が飛び散った。
雫の先にはハルシュタット湖。
ランさんがこの傘の色と似ている、といった湖は、雨と分厚い灰色の雲とで、今は暗く澱んでいた。
一本道を進むとマルクト広場に抜ける。
そこで古めかしいけど気取らない、さほど高そうには見えないカフェレストランに入った。
金持ちの外国人観光客、その子供が一人なのか?
目の前のウェイトレスらしき中年女の不審そうな表情からは、そんな台詞が聞こえてきそうだった。
なるべく無邪気そうにニッコリ笑って、首からぶら下げた映画製作関係者証を持ち上げてみせる。
オバさんは露骨にひそめていた眉を上げ、観光地の人間らしい、余所余所しい営業スマイルを浮かべた。
映画製作関係者の子供なら、仕方ない。
きっとそう思ったんだろう。
映画業界は音楽業界と並んで、信用がある。
重そうな焦げ茶色の木製のテーブルについて、置かれたメニュー表を眺めるも、全然わからない。
ドイツ語、英語、あとはよくわからん他国言語。
観光地なら、料理写真くらい載せとけよ。
内心舌打ちして、さっきのオバさんを呼ぶ。
英語のメニューを指さされた。そして、読めないのか? と聞いてくる。
うるせぇ。読めるけど、読めねぇんだよ。
メニューには料理名と、その料理の説明が書いてあって、説明がよくわからないのだ。
単語はわかる。だけどイマイチ想像がつかない。
オーストリアの郷土料理なんざ、調べていない。
ニッコリ微笑んでカタコトのドイツ語を口にしてみる。『旅行者のためのドイツ語』みたいなドイツ語会話集で読んだフレーズ。
「ヴァス・エンフィーレン・ズィー?」
おすすめは何ですか?
オバさんは脂肪で奥まった緑っぽい目をキラキラさせて、白い顔を真っ赤にして、俺を見て頷いた。
そして太くてシワシワの指で一つの料理名を示す。
ニジマスの塩焼き。
ハルシュタット湖で穫れるニジマスに、ハルシュタット名物の塩。
あとはサラダにパンだった。
オーストリア到着初日に食べた、平べったくてデッカイ豚カツみたいな揚げ物は、悪くはなかったが、豚カツの方が断然好きだと思った。
それからハルシュタットに移動して、ホテルで提供される、バターや脂でコッテリとしたメイン料理に、しょっぱすぎるサイドメニュー、モソモソとした小麦ボールみたいな、味のないよくわからない物体、そしてそれらが何人分なんだよ! と突っ込みたいくらい盛り沢山、といったオーストリア料理にはそろそろ辟易していた頃だった。
そんなわけだから、あまり期待していなかったのだが、シンプルに塩で焼いただけのニジマスは、とても美味しかった。
「レッカー!」
皿を下げにきたオバさんに言うと、オバさんは笑って頷いた。
店を出ると雨は止んでいて、俺はまたブラブラと歩き回ろうと辺りを見渡す。
どこに籠もっていたのか、先程は見当たらなかった観光客がわらわらと沸いている。
それからホテルに戻ってしばらくして、傘を忘れたことに気がついた。
そして冒頭に戻る。
結局、ディナータイム前になると、昼間のオバさんが再び店にやって来て、オバさんが俺を見てランチタイムの観光客だと気がついてくれた。
そして傘を手渡される。
どうやら、俺が忘れたのをオバさんが気がついて、店の裏に保管してくれていたらしい。
「ダンケ・シェーン!」
手を振って店を出ると、オバさんとジイさんが揃って手を振ってくれた。
傘の、少し緑がかった青。
赤ん坊の頃の俺の目と同じ色だとランさんが言っていた。
懐かしそうに目を細めたランさんの横顔。
クリスマスプレゼントはその傘がいい、と口をついて出た。
昨年のクリスマス。
当日になってランさんが、俺にクリスマスプレゼントを買ってやると言い出し、カップルやら家族やらがごった返す恵比寿に連れ出された。
「なんで恵比寿なんだよ?」
「恵比寿のイルミネーションが一番好きなの」
「この時期、どこだって同じじゃん。つーか、恵比寿って、俺が好きそうな店あんの?」
「さあ?」
「さあって……」
大人っぽく洒落た店ばかりが並ぶクリスマスの恵比寿を、ランさんと二人で歩く。
確かにイルミネーションは綺麗だ。
冬のツンと張り詰めたような空気に、オレンジ色一色のライトが飾り付けられ、光が滲む。
特に、レッドカーペットの先にある、バカラの巨大シャンデリアは、確かにランさん好みだ。
ランさんは、なんだかんだ言ってミーハーだし、なかでもクラシックハリウッドが異様に好きだ。
「げっ。雨降ってきた!」
ポツリと頭に落ちた雨粒が、次第に大きく、激しくなっていく。
俺達は慌ててガーデンプレイスに逃げ込んだ。
突然降り出した雨を凌ぐのに駆け込んだ、恵比寿三越で買ってもらった傘。
雨上がり。澄んだ空気の満ちたハルシュタット湖。
その水の色に似ている、と思った。
マルクト広場の雨に濡れた石畳。
空を覆っていた分厚い雲は抜け、淡いローズクオーツの交じった、ラピスラズリのような神秘的な夕暮れ空。
街頭で照らされたピンクや黄色、水色のカラフルでオモチャみたいな壁。
深緑色の木々に、灰色の山肌。残雪を被るダッハシュタイン山塊を仰ぎ、ホテルに戻った。
ランさんが、昨年のクリスマス、雨の恵比寿を覚えていなくても構わない。
この傘は、ハルシュタットの青。ハルシュタットの青い傘だ。