「桃山ーー天下人の100年」 感想
上野の美術館でやっている「桃山ーー天下人の100年」展を見てきました。漠然と感想を書こうと思います。
私が見たかった絵画は、長谷川等伯の水墨画「松林図屏風」でした。この絵に関しては、結構有名なので、見た事がある人もいるかもしれません。
絵は松を書いているのですが、心惹かれたのは、その実存的とも言っていい独特の風格です。自然の豊かさや柔らかさよりも、自然の厳しさ、冷厳さというのを徹底して描いたものに感じて、心のどこかに引っかかっていました。それが見られるというので、見てきました。
結果的には、見て良かったですし、素晴らしい絵でした。ですが、正直こちらのテンションもあって、ひどく感動したというわけではありません。今丁度、宮崎市定の中国史を読んでいて、頭がそちらで一杯になっていたせいもあります。あまり絵画を見られるような精神構造ではないというか、そういう影響を受けるのが難しくなってきているのかもしれません。
他には、狩野探幽の「雪中梅竹遊禽図襖」なんかも素晴らしかったです。広告に使われている「唐獅子図屏風」も良かったです。平凡な感想ですが、力強いものを感じました。
それから茶碗も置いてありました。ああした茶碗などの骨董品は凝ると厄介なもので、そのあたりは小林秀雄が詳しく書いています。美とは何かというのは難しいですが、仮に、国宝だとか重要文化財だとか、そういう肩書なく100円ショップに有名な茶碗が並んでいても、ほとんどの人は素通りするだろうと思います。私も素通りする気がします。
しかし、一つの茶碗(名前を忘れましたが)を見て、静かに光沢を放っていて、その曲線もなんとも優美に見えて(これはいいなあ)と感じました。もっともこの感じというのも当てにならない。
ただ、美というのは何かという事に関して言うなら、ほんのこの心の引っかかり、私の心に生じた、100円ショップに並んでいる茶碗にはおそらく感じないであろうものを感じたその引っかかり、この引っかかりを捉えてどこまで推し進めていく事に名人芸とか名品とかいうものがあるかもしれないと思いました。…しかし、先に言ったように、こんな話も素人の与太話であまり当てにならない。
今の茶碗の話もそうですが、考えてみれば呑気な話とも言えます。一人の人間として生まれてきて、この茶碗がいいだのあの茶碗がいいだの…馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しい。もっとも、全ての芸術はそのように馬鹿馬鹿しいものを含んでいます。しかし、これが馬鹿馬鹿しく見えくなる、ある「視点」というものがある。その視点を捉えると、むしろ芸術の観点から世界を眺める事ができなくなる。芸術に入っていった人間はみんなそんな魔境を通っていたのではないかという気がします。
茶碗なんかもそうですが、そういう高度芸術というのは、貴族的なものだと感じます。「桃山ーー天下人の百年」ですから、当時の芸術家らは大抵、武将とか将軍とかいったパトロンに抱えられていたのでしょう。それでパトロンに嫌われたらにっちもさっちもいかなくなって死ななければならない運命になる。そういう運命が控えているとしても、芸術はその発生に関しても、その成長に関しても、貴族やブルジョア、王侯といった人達が自分達の富を誇り、自分達の力を示す過程で現れてきたのだと感じました。
私は見ていて、バタイユの「消尽」という概念を思い出しました。芸術というのは生命力の発露であり、偉大な消費、「消尽」的行為であり、同時に文化的頂点でもある。内藤湖南が「文化とは歴史に咲いた花である」とどこかで言っていた気がしますが、芸術も社会の力の高潮と共に現れる花である。そう感じました。すると偉大な作品一つ出てくるにも、一つの高度社会を必要とします。それはやっぱり真実なんじゃないかと思います。
そうなってくると、今の大衆社会と芸術というのは相性が悪いという結論になってきます。今までのエッセイで色々書いてきましたが、単純に「大衆社会においては芸術は低下し、娯楽が上昇する」と言ってもいいような気がします。現代を支配しているのがサブカル、娯楽なのは見えやすい所です。今から振り返れば、糸井重里、村上春樹、高橋源一郎といった世代の人達はカルチャーをサブカルチャーに繋ぐ役割を担っていたという風に考えられます。それで、彼らの担った役割が完全に果たされてしまうと、逆にその世代の人達がそこそこに高度で、高尚なものに見えてきたという事です。
あとはそれほど言いたい事もないですが、付け加えると、贅を尽くした着物であるとか、趣味を凝らした茶碗であるとか、そういうものが当時にあってはどれほど貴重なものに見えたのか、今から考えるとよくわからなくなっていると感じました。例えば「赤」という色は、当時は花ぐらいなもので、鮮烈な赤というのはそれほどなかったでしょう。それが着物の色として現れた時、当時の人にどれほど鮮烈に見えたか。我々は色々な物を見慣れてしまっているので、かえって、少数の物に込められた精神性が見えにくくなっている気がします。そうすると、光溢れる世界には光そのものは見えないように、見えすぎる事が見えない事になってしまう。
昔を想うとは、昔の色々な残酷や酷白を想う事でもある。暗さの中に明るさがある。ですが、明るさの中にある我々には、茶碗一つに込められた精神は見えにくくなっている。現代においては、芸術を作るとはおのずから、光を映えさせる暗色を作り出す事なのか。…私はそういう事も必要だと感じています。以前、レンブラント展を見に行った時、その色調の暗さに驚きましたが、対比としての光を暴き出すレンブラントの技術にはより一層驚きました。芸術を理解するにも、部屋の電気を消して、暗い中で光を当てて対象を見る必要があるのではないでしょうか。そんな事もふと考えました。