恋の代償 (11)
ターネット様から、至急ウィンテートの屋敷に来て欲しいと手紙が届いたのは、それから二日後のことだった。
「庭の草木が…」
以前、奥様の命日に訪れたときは、見違えるほど美しい庭になっていたのに、今は荒れ果てて、人が住んでいないかのような雰囲気すら漂っている。
「あぁ、よく来てくれたわね。」
「ターネット様。」
薄暗い玄関から現れたターネットは、化粧っ気がないのはいつものことだったが、ところどころ解れた髪と、疲れ果てたような表情が、随分と彼女を老けたようにみせていた。
「あの、メイド達は?」
この前は、確か二人はいたはずだったけど…。玄関から一歩廊下に踏み入れても、まるで人の気配がしなかった。
「みんな出ていってしまったわ。エミュレーのせいでね。」
時が止まったかのような静かなリビングに、ターネット自ら入れた紅茶のカップが、カチャリと鳴った。
改めて周りを見渡すと、部屋のどこにもかつての花瓶や絵画、調度品の一切が見当たらない。
「みんなあの娘が、壊してしまったの。」
ターネットが、ため息は吐きながら言った。そういえば、この家を飾っていた品は、ほぼ全部ラスティート様からいただいた物だったっけ…。
「今、エミュレー様はどちらに?」
「二階よ。部屋に籠りっきりで、ほとんど降りて来ないの。」
リースは、よく見慣れた階段の奥を、ちらりと眺めてから小声で話した。
「ターネット様、お手紙でもご相談がありましたが、魔力で人の気の病そのものを取り除くことはできません。」
頭を下げると、ターネットはもう一度ため息を吐きながら、口角を上げて首を横に振った。
「いいえ、無理な注文だったわ。でもあの娘は、ここ一週間ろくに眠ってもいないようだし、食事にもほとんど手を付けないの。私も何とかしようと毎日手を尽くしたんだけど…。結局、何を言っても、最後はラスティート様とのお見合い話を安易に受けた、私への恨みつらみをぶちまけて終わり…。もうお手上げだわ。」
そう言うターネットの両手の甲には、あがぎれのような引っ掻き傷のような赤い線が幾つか走っている。
「ターネット様、王宮内の安眠に効く薬草ドリンクと高カロリーグミをお持ちしました。グミは毎日一つずつでも召し上がって頂ければ身体の栄養の方は問題ないかと思います。」
魔法で小さくしていた、ドリンクとグミ、一ヶ月分の壺をテーブルの上で元のサイズに戻した。
「まぁ、助かるわ。お代はいくらかしら?」
ターネットは、恐らく魔法にも関心して目を輝かせた。
「いいえ、今まで散々お世話になりましたから…これくらいはさせて下さい。」
三年前までは、ほとんどこの家に、殊にルリアル様に養っていただいていたようなものだったのだ。
「リース…ありがとう。昔と雰囲気が変わったわね。」
「え?」
目を細めるターネットの熱のこもった優しい視線を、何故だか直視できなかった。
「まだ時間は大丈夫かしら?」
「はい、まだ大丈夫です。」
ヴァン王子との待ち合わせまで、あと二時間はある。
「…よかったら、エミュレーに会っていってもらえないかしら?」
「え?」
「無理にとは言わないけれど…」
ターネットは遠慮がちにうつむいた。
「…きっと私にお会いになっても、余計にご気分を害されるだけでしょうから。」
ただでさえ、適当な家事をして、散々エミュレーをイラ立たせてきた自分に、今さら何かができるとは思わない。
「リース…勝手なようだけど、あなたが宮廷メイドになった時は、あの娘も最初は騙されたなんて言ってたんだけど、社交界では大層自慢にしていたのよ。それに、魔術の研究生に編入したと聞いた時は、それはもう鼻高々でね。今のあなたならエミュレーも会うと思うの。」
こんなにすがるような、ターネットの表情は始めてだった。四六時中、エミュレーから目が離せない今の状況に、彼女も相当疲れているのかもしれない。
「では少しだけ…。」
「ええ、ありがとう、リース。」
一緒に二階へ行くと、部屋の前は不気味なほど静まり返っていた。
「エミュレー、リースが来てくれたわよ。」
ノックしてもしばらく返事はなかった。
「ターネット様、お休みになられているかもしれませんし…」
そもそも、ターネット様でも手がつけられないのに、過去の理不尽な仕打ちの数々が急に蘇ってきて、だんだん会うのが恐くなってきた。
「…どうぞ」
ドアは開かずに、小さく聞こえた声は思いの外無機質だった。
ターネットは、こちらを安心させるように頷いてから扉を開ける。
「エ、エミュレー様。お久しぶりでございます。」
緊張で声が裏返ってしまった。
「何しに来たの?」
口調こそ昔のままだが、こちらに背を向けたままで、ベットに横たわるエミュレーは今までに見たこともないほど線が細い。
「エミュレー、リースは―――」
「お姉さま…少し二人きりにしてくれないかしら。」
「えっ」
リースが引き留める言葉を探す前に、ターネットは、もう一度こちらを見て頷いてから、部屋を後にしてしまった。
「…いい気味だと思っているでしょう?」
「あ、あの…」
「私は、あなたを散々泣かせてきたわ。」
部屋の窓を締め切っているせいか、とても息苦しい…
「こんな意地の悪い女が幸せになるなんて納得できない。ずっと顔にそう書いてあったもの。」
「そんな…」
「いいのよ。でも別に謝る気はないわ。ムカつくのよ。お姉さまも周りの友人もお父様やお母様…使用人だったお前ですら…いつだって誰もがルリアルルリアルって…結局あのお方だって…」
そう言うと、まるで笑っているように肩が小刻みに震えている。
「リース、私が憎いでしょう? 子供の頃から、あなたを何度も何度も叩いたわ。殺してもいいのよ。天下の宮廷魔術師様だもの。それくらい訳ないでしょう?」
「エミュレー様!!」
まさかこの人の口からそんな言葉が出るなんて…
「殺してよ。これ以上何も見たくないの。こんなところに居たくないの。」
エミュレーが吐き捨てたセリフに込もった憤りが、伝染したかのようにリースの全身も熱くなった。
「…私は…今でも…エミュレー様が憎いです。それでも、もう自分はウィンティート家を出たのだから…もう自分とは何の関係もない人なんだからと、どんなに忘れたつもりでいても…ふとした瞬間に蘇ってくる過去が…あの痛みが…何故こんな目に逢わなければならなかったんだろうという怒りが…ずっと私を捕らえて離してくれません。」
「…だったら――」
「きっとあなたを殺しても、それは消えない。」
「…。」
「二年前にホロスウィアで、ラスティート様とエミュレー様をお見掛けしました。あなたは、それはそれはお幸せそうな笑顔でした。」
人の耳には聞こえない声量で、詠唱しながらゆっくりとベットに近付く。
「お許し下さいエミュレー様。自害ができないように魔術を掛けます。」
「何をっ!!」
振り返って力なく抵抗するエミュレーの両腕を抑えながら、その身体に手を翳すと、術が完成した証しに鍵とロープの刻印がエミュレーの首筋に現れた。
「今のエミュレー様のこのお姿…本当にラスティート様の事を想われていたんですね。どうぞもっと…もっと苦しんで下さい。」
涙で滲んだ視界に映った、小さく丸くなって泣きじゃくるエミュレーの姿は、まるで幼い子供の頃の自分にみえた。