恋の代償 (8)
ルリアル様が目覚めたのはそれから二日後のことだった。
「お姉さま…リース…ラスティート様…」
「ルリアル様っ!!」
本当に良かった…!ラスティート様は人目を憚らずルリアル様に抱き付いた。
エミュレー様という婚約者が在りながら不謹慎だが…ラスティート様の全身からその場の空気を震わすほどのルリアル様への想いが伝わってきて、思わずそれにも感動して涙してしまった。
「ラスティート様…」
ルリアル様はもう一度呟いた。
エミュレー様は今日もウィンティートの屋敷に戻っていた。
「ターネット様っ」
緊張の糸が切れたのかターネット様がフラリと崩れ落ちそうになった。
「こちらのソファーに…」
「いえ、大丈夫よ。あぁ…ありがとうリース。どうか殿下にも…」
ターネット様は涙を拭きながら小声で言った。
「ご安心下さい。この事は決して外部に漏れないように取り計らって下さっています。無事に目を覚まされたとこれから報告に言って参ります。」
法的に明確な罰則はないものの、製造中止の危険な薬を自ら口にしたとなればルリアル様の社交界での評判は地に落ちる…大ごとにしないためにも殿下はわざわざラスティート邸まで運んだのだ。
「よろしく頼みます。」
深くため息を付いてからターネット様はまたいつものようにスッと背筋を伸ばした立ち姿になった。
ルリアル様は仰向けのまま天井の一点を見つめて…傍らでなおもすがり付いて泣いているラスティート様の肩にそっと手を添えた。静かに閉じられた大きな瞳の端からは一筋の涙が音もなく流れた。
◇◇◇
「目を覚ましたか…。」
ヴァン王子は安堵のため息をついて黄色いメガネを外した。
「はい。詳しいご報告は後ほど医師からありますが、身体の毒もほぼ抜けて体力的にも心配いらないそうです。」
「そうか。」
目を細め口角を少し上げた安堵の表情にはこちらの胸までいくぶんか軽くなっていくようだった。
「リースもご苦労だった。」
顔を上げた王子と目が合う。
いつも鋭利な印象の表情が少し緩んだ途端にまるでおとぎ話の優しい王子様のように見えてくるから不思議だ。
「まだしばらくはお休みをいただいてラスティート邸でお世話をさせていただきたいのですが…」
「そうか。魔術の講師には話しを通しておこう。」
「ありがとうございます。またご様子をお知らせします。」
「うん。…まぁあの男に任せておけば安心だろうが…それでは手紙を頼む。」
「手紙?」
「あぁ。別に毎日でなくていい。外出できるくらいになったら教えてくれ。」
そう言うと王子はまたメガネを掛けて手元の文書に目を通し始めた。机の上には大きな書類の山が三つも…何だか日に日に量が増えてはいないだろうか…
「わかりました。あの…殿下。」
「何だ?」
「…。」
「褒美の件か?」
「え? あぁ…いえ…お顔の色が優れないようですが…」
そういえばロデンフィラムでファルーナ姫に変身していた時の褒美がもらえるんだったっけ…すっかり忘れていた。
「私のことは心配しなくてよい。用件が済んだなら――」
王子が早口になって手元の書類に全意識を戻そうとしている。
「あっ、あのっ! 褒美のことなのですが…何でも構いませんか?」
ちょっと声が大きくなり過ぎてしまった。
「…うん。あれだけの働きをしてくれたんだ。遠慮せずに言ってみろ。」
「では、ポーリンに一緒に行っていただけますか?」
すでに書類に走らせていたペンの音が途切れる。
「は?…誰と?」
「殿下とです。」
黄色いメガネ姿の驚いた顔が何だか可笑しくて、思わず吹き出しそうになってしまった。
「何だと? 意味が分からない。」
メガネを外したヴァン王子が眉を潜めた。
「今度メイドの卒業試験を魔術師としてサポートすることになったんです。あの一週間だけポーリンで宿を開くやつです。ポーリンは王家とも造形が深いの土地ですから、ぜひ殿下直々に案内していただきたいんです。
できれば毎年の試験の傾向と対策と…審査に加わるセレーネ王妃様の公にされていない好み何かも…こっそり教えていただけると大変助かります。」
「…。」
王子はあからさまに呆れ顔になった。
「反則ギリギリだということは分かってます。でもそこにはどうしても負けられない女の戦いが… い、いえ…私も魔術師の卵の一人として素晴らしい時空間を生み出してみたいんです…なんて…こんな無理なお願いは…ダメ…ですよね?」
一体自分は何を言ってるんだろう…無言の時間が居たたまれなくて今すぐにでもこの場から逃げ出しくなってきた。
やがて王子は深いため息をつくと胸元のポケットからシーオンの懐中時計を取り出した。
「…10日後だ。」
「え?」
「それ以外は空きがない。」
「えっ、いいんですか?」
思わず身を乗り出す。
「…それを褒美として望むならば仕方がないだろう。」
王子の声は不満気ではあったがうつむいた表情に不快の色はあまりみえなかった。
「あっ、ありがとうございますっ!」
「殿下! シリオウルス国の使者がお待ちで―――」
「すぐ行く。」
立ち上がったヴァン王子に軽く肩を叩かれたと思ったら、王子と一緒に執務室のドアの扉の前にいた。
「おや? 今日はお揃いで?」
恭しく礼をとりながらバテ君がきょとんとした表情をした。
「バテ、お前もご苦労だった。」
ヴァン王子が指を鳴らすとシーオンの金貨がバテ君の手元に落ちた。
「やった! ありがとうございます殿下!! リース、早速これで高級カフェにお茶しに行こっ。」
「ちょっ…」
気安く腕を組んでくるバテ君から一歩後ずさり、ヴァン王子の胸に頭が当たったかと思って振り返った時には王子の姿はもうなかった。
◇◇◇
「送り迎えも今日で終わりかぁ~。寂しいな。」
バテ君は結局、最後まで王宮殿とラスティート邸を往き来した。
今後はルリアル様が回復されるまでラスティート邸でお世話をするつもりだからしばらくは王宮殿には戻らない。
「たまに遊びに行っていい?」
「ダメに決まってるでしょ。」
即答するとバテ君は子供のように拗ねた表情になった。
「第一なんでこんなに私に付きまとうんですか?」
「…リースの周りは面白いからね。」
バテ君はうつむきながら目を細めて紅茶を啜った。
「…困ります。」
立ち込めた花木果実の香りは心地よく空間を包む。
「敬語はやめてよ。本当にリースと会えなくなるのが寂しいんだ。」
白鳥が象られた金細工のカップを置いたバテ君が切なげに微笑む。
「ご冗談を。」
この悲しそうな顔もどうせ演技か何かだろう…。
「僕はね。実は養子なんだ。」
「え?」
「サールサザガリ…僕は阿呆な王の失政で滅んだあの国の出身でね。」
「えぇと、何だっけ…確か無理な農耕地の開発をして砂漠化が進んだとかで…」
ロデンフィラムに行く前、レリア様から習った世界史の付け焼き刃の知識だけど…
「そっ。細かい原因は色々あるけどそんなとこ。僕は歌うたいで稼いで何とか食い繋ぎながら、各地を転々としていたところをロド様に拾っていただいたんだ。」
バテ君は言い終えると空の青しか見えない窓の外を見て遠い目をした。
「そう。バテ君も苦労したのね。」
何の悩みもなさそうな、ただの自己中ワガママお坊っちゃまかと思っていたのに意外だわ…
「でもロド様に出逢えたのは幸運だったよ。他国に売られた妹も見つけ出して、一緒にスチュワート大臣の養女にしてくれてね。」
「そうだったの。」
「でも国の文化が違うからかな…未だに王宮殿の研究生には馴染めなくって…僕は皆と仲良くなりたかったのに…結局友達一人できないまま六年生になっちゃって…。」
「そんな…」
そういえば同じ色のローブ姿の同級生もバテ君をみたら背を向けてそそくさとその場を立ち去ってしまったことがあったっけ。バテ君は容姿も目立つし、きっと最速で飛び級したやっかみもあって仲間外れにされてるんだわ…
「リースがこの国ではじめてできた友達なんだ。」
「バテ君…」
バテ君が長い睫毛を湛えた薄水色の瞳を伏せると、真珠のような滴がティーカップのちょうど真ん中に落ちた。
「泣かないで。私でよければいつでも…」
「会ってくれる?」
「もちろんよ。」
「ありがとうリース! 嬉しいっ。じゃあこれからも毎日いつもの時間にラスティート邸に行くね!!」
「へっ、毎日?!…あっ!!」
自然と左手が持ち上がったと思ったら、部屋に置いてあったはずの貝殻のブレスレットが柔らかな光と共にピッタリと手首に巻き付いた。
「ちょっと勝手に…あれっ? 外れないっ?!」
「なくされたら悲しいから…友情の証っ!!」
何よ、その屈託のない笑顔は…涙もすっかり消えちゃって…まさか過去の話も含めて全部フィクションだったんじゃあ…
「ちょっとバテ君―――」
「それじゃあ、僕これから午後の講義があるから! また明日ね、リース!!」
研究生の一ヶ月分ほどの給金にもあたるシーオンの金貨をそのまま置いて、バテ君は魔法で一瞬にして消えた。