隣国のお姫さま (10)
「いらっしゃいませ~」
ファルーナ姫は失踪してからわずか四日後に見つかってしまったらしい。
「ナズナさん! 7番のテーブルに桃とクルミのチーズパイを!」
ホロスウィア一番とも言われる繁盛店の仕事は毎日が体力勝負だ。
「おぉぉぉ~!!」
計算が苦手なのでお会計は未だに手が震えてしまうが…魔法で紅茶を入れたり注文のパイを踊らせながらテーブルまで運ぶとお客さんは喜んで拍手までしてくれる。今ではこの魔法ショーがちょっとしたこの店の名物になりつつあった…まさかメイドの一年生で勉強した内容がこんなところで活きるとは。
「ありがとうございました! またお待ちしております。」
ヴァンテリオス王太子殿下とファルーナ姫様の婚約の儀が終わった後、王宮殿の地下牢から出ることを許された私はその後しばらくは自宅軟禁の予定だったのだが…。
「ナズナ、混雑が落ち着いてきたから裏で洗い物をしてくれる?」
デディさんは毎日17:00に王宮殿での仕事を終えて17:30にはお店の手伝いに入る。働き詰めといえば働き詰めなのだが…。
笑った時のえくぼが可愛い長女のレティージアちゃんは子供とは思えないほどの器量良しで店の手伝いもテキパキとこなしてくれて…人見知りで少しおっとりした長男のピータ君もヴァイオリンが上手で奏でる純真な音色はいつも店を明るく活気づけた。
何より少し太った旦那のランセリコ様のいかにも情に厚そうな温かみのある雰囲気は作り出すパイの味そのもので食べているこちらまで自然と優しい気持ちにさせてしまう…デディさんに「今幸せですか?」と聞くこと以上の愚問は世界中を捜してもなかなかないと思う…。
軟禁中に反省の色をみせない私に父は怒り狂いまもなく勘当されて途方に暮れている最中に…こんなに素晴らしい環境で働くことを提案してくれたレリア様と快く承諾してくれたデディさん一家には感謝の気持ちでいっぱいだ。
「いらっしゃ…」
昼でも夜でもない時間に現れたその人はずっと会いたかったような会いたくなかったような人だった。
「久しぶり。楽しそうだね? ナスナ…。」
ハロックル様の姿を見た途端にデディさんは強制的に休憩を言い渡し、店に残っていた女性客の色めき立つ視線を察知するや否や奥の個室に案内した。
「…。」
確かに毎日が新鮮で楽しいのは事実だった…特に料理の助手もさせてもらえるようになった最近は特に…。しかしここで頷いてはいけない雰囲気がハロックル様からヒシヒシと伝わってくる。
「ご、ごめんなさい。」
自分は一体何を謝っているんだろう…ファルーナ姫様を逃がしたことを…父親に勘当されてしまったことを…それとも毎日が思いの外楽しいことを…。
「僕には一言も相談してくれないんだね。」
ハロクッル様に相談…? 何を? 姫を逃がすことを? まさか…そんなことしたら…
「君は僕を全然信頼してない。」
え? これキレてるの? …こんな表情のハロックルはじめて…。
「よかったらどうぞ。」
デディさんがこの店一番人気のペリソナの花のシチューパイを持って来てくれた…こんな時にこんなパイを…
「ごゆっくりどうぞ。」
挨拶もそこそこにデディさんは行ってしまった…再び気まずい沈黙が流れる…。
「こ…これ美味しいのよ! お店で一番人気の愛の花ペリソナのシュチューパイ!! 今朝は私も仕込みを手伝ったの。あぁ…お腹がいっぱいだったら無理をしなくていいんだけど…よかったら一口だけでも…」
だんだん自信がなくなってきて語尾が消え入るまでに小さくなる…『愛の花』は余計だったかなと発言を後悔しながらうつむいていると…ハロックルは黙って一切れを口に運んだ。
「うん、美味しいよ。」
そのあまりに寂しそうな笑顔に…急に胸がかきむしられるように騒いで慌てて自分もパイに手を伸ばす…焼きたてのそれは舌が蕩けるほどに美味しい。
「ナズナ…婚約を解消しようか…」
「え…」
「僕が養子になればいいだけの話だ。」
冷めかけた紅茶はゴクリとパイを流し込むには丁度よい。
「…はい。」
カップルで一緒に食べれば必ず結ばれるというペリソナの花のシチューパイは冷めても絶品だった。
「…だいじょぶ?」
一人残された部屋に私にも人見知りをしていたはずのピータ君が渡してくれたキレイな青いハンカチは私の水分でただのグシャグシャの塊になった。
◇◇◇
「ファルーナ姫様、陛下がお呼びです。」
夕食後にファルーナ姫がお好きらしい伝記を読む振りをしてイーリス様との二回目のデートを妄想していたところに急に侍女長からのお呼びが掛かる…あと少しで二人の想いが通じ合う最高の場面だったのに…。
「…今参ります。」
こんな夜遅くに一体何だろう…フィリが交代で近くにいないので不安を分かち合う相手もいない。
「入りなさい。」
ラミドール王の書斎の家具はシンプルながらもどれも少し大きめでいかにも男性的な重厚感が漂う。
「失礼いたします。」
ゆったりとしたソファに腰かけると王は人払いを命じた…何だか急に緊張してきた…。
「ヴァン王子はあの書について何か言及は?」
い、いきなりきた…。
「両国の平和条約の締結と共にアルシェンヴァーユに返還をお望みのようですが…」
王は眉を潜めた。
「…お前は何と?」
「いえ…わたくしには分かりません
と…」
レリア様に教えてもらった通りなるべく顔を上げてきちんと目を見て答える。
「…うむ。」
王は立ち上がり窓際に立った。
「現ゼウエ王は今は病に伏せっているが…圧倒的な魔力で我が国に侵攻しようとしたことはまだ記憶に新しい…。」
…これもレリア様の集中指導の中で聞いてた衝撃ニュースだった。
「大々的な宣戦布告前だったので一部を除いて両国民はその事実さえ知らない。戦力の差は絶望的…諦めかけた私を救ってくれたのがあの『禁忌の書』だ。これさえあれば向こうも我が国に一切手出しをすることが出来ない。戦の直前に幸運の女神が私に味方をしてくれたんだ。」
ラミドール王の目線は何もない暗闇の窓の外にあった。
「お父様、ヴァン殿下は決して我が国を侵略しようとするようなお方ではございません…むしろこの国の政策にご興味と尊敬の念すら感じていらっしゃるようにお見受けしました。」
練習の甲斐あって上手く言えた…難しいセリフだった…。
「お前にたった二ヶ月で何が分かるというんだ…!」
いつも温厚な王は珍しく語気を荒げた。
「仮にこのままゼウエ王が目覚めなかったとしても…あの王子は実に危険だ…魔術に取り憑かれたような瞳をして…あれは腹の底では誰も信用しておらん…故に魔力で己が身をどこまでも武装して…それはいつか彼自身ばかりではなく国自体を滅ぼすことになるだろう…。」
「そんな…」
何でこんなに胸が痛いんだろう…。
「ファルーナ…あの書のことは何としてでも先延ばしにするんだ。そして予定通り男児を産んで王位に就けなさい。王位継承が確実になった時点でヴァン王子を暗殺するんだ…そのための魔術は既に何度も教えてある…姉妹の中でそれが出来得る魔力を持つのはファルーナ…お前だけだ。」
――――――――!!
手の…手の震えを止めなければ…。
「大丈夫ですか、姫様…」
やっとのことで自室に戻ったもののその夜からしばらく熱が出て具合の悪い作戦には大幅な狂いが生じてしまった。