隣国のお姫さま (9)
「リース…」
まだ夜も明けきらない早朝…マシュマロ部屋の大きな出窓には黒蝶のような衣装の男が腰かけていた。
「ロ、ロド様?!」
ロド様がその長い人差し指を軽く自身の唇に当てたのと同時に声が出なくなったのは魔術か否か…。
「いよいよですね。リースならきっと大丈夫だ…。」
そう言うとファルーナ姫の私物のアクセサリーのいくつかに紫色の粉を吹き掛けた。
「ふっ、これは君を守るまじないです。それと…一つ頼みがある。」
「頼み?」
いつの間にかしゃべれる…。
「『禁忌の書』をこの国に持ち帰った暁には…殿下よりも先にまず私のところに持ってきて欲しい。」
「え?」
ロド様の瞳がブラックホールのような渦を巻く。
「それは…」
そんなことが許されるんだろうか…確かにヴァン王子には何も言われていないけど…
「一つ確かめたいことがありまして…確認したらすぐ殿下にお返しいたします。もちろんリースにも悪いようにはしない…。もしそうしてくれたら君に城門の装飾を任せることを確約してもいい。」
「え…」
思わず身を乗り出す。
「君は何のために王宮殿に来たのか…想い出してごらん…」
ロド様から放たれる言葉は次第に愛の囁きのように甘く響いて…まるで呪文のように心地よく体内に染み込んでゆく…
「わたし…は…」
そうだった…わたしはこんな危険なスパイのようなことをするためにここにいる訳じゃない…
「わか…り…ました。」
「いい娘だ…」
軽く頭を撫でなられれば深い夜の闇のような静寂のベールに全身を包まれて、いつの間にか再び深い眠りに落ちていた。
◇◇◇
「それでは愛しいわたしの姫…またいずれ…」
宮殿内でもファルーナ姫はまもなく見つかったことになっており、原因も軽いホームシックということになっていた。
姫を馬車まで優しくエスコートするヴァン王子は最後まで周囲がうっとりするようなラブラブな雰囲気を醸し出しており、姫が失踪したことなどなかったかのような幸福感あふれる空気が王宮殿全体を包んでいた。
(ここまで完璧な演技を見せられるとついこちらまで王子に恋しているかのような甘やかな気持ちになってきてしまう…。いかん…この男はあくまでも私の魔力を利用したいだけの男だ…騙されてはいけない…。)
「これを」
その時、王子の声のトーンが変わった。
「え?」
王子は自身の左胸に輝くシーオンと月桂樹のバッジを外してリースの手に握らせた。
「これは…」
確かこのバッジは王族だけが身に付けることを許された特別なものだったような…
「役に立つこともあるだろう。必ず無事に帰って来い…リース。」
多少の憂いを含んだ真剣な瞳に嘘はないようにみえた…なぜだろう…胸が痛い。
王子はまたすぐ元の微笑を湛えた演技モードの表情に戻り、姫の頬を優しく撫でてからゆっくりと馬車を離れた。
◇◇◇
「それ…ホリーから?」
不満気なロデンフィラムの侍女達を抑えて何とかフィリを一番近くに伴うことに成功したので二人きりの馬車では多少くつろぐことができた。
「え? ええ…いらないと言ったんだけど…」
バスティラの花をあしらった可愛らしいピンクのレースの包みのお弁当と青空模様の水筒まで付いている。
「食べたかったら食べてもいいわよ。」
フィリに水筒ごと渡される。
「またそんな…」
ここ一年フィリはホリーのお店にはほとんど行っていないようだった…。
「やっぱり酔いそうだから止めておくわ…。」
開いたお弁当の包みの中はフィリの大好物ばかりだった。
長旅を気遣った献立に彩りも美しく…どんな言葉よりもこんなに明快な愛の表現が料理人にはできるのだなと感動してしまった。
「あらそう…」
水筒のノンアルコールの青いサングリアだけ一口もらって結局お弁当はフィリが全部食べた。
馬車に揺られながらふと窓の外を覗くと見知らぬ農村の小高い丘の上から少女達が振っている色褪せたピンク色のショールが灰色の空に溶けそうにたなびいていた。
◇◇◇
「うわぁ…キレイ…」
ロデンフィラムの王宮に到着したのはそれから三日後のことだった。
抜けるような青空の下、シンプルなオフホワイトのお城を中心にいくつかの庭園を配した崖の上にあるロデンフィラムの王城はアルシェンヴァーユ国のそれよりも大分規模がは小さかった。
お城へ登る際に通る大きな滝には三本の虹が架かって、周囲の大自然と見事に融合したそれはなかなかの迫力があった。
「魔力の効きやすさは?」
フィリが耳打ちする。
「王宮殿の半分…」
半分もないかもしれない…それでも旅してきたこの国の土地の中では高い方だった。いかにアルシェンヴァーユ国土が魔法に恵まれた土地なのかを思い知った。
「だ、大丈夫?」
フィリが心配そうな顔をする。
「ええ…今のところ…一ヶ月は固いわ。」
魔力の制御リングが外れたお陰でしばらくは大丈夫そうだ…本物のファルーナ姫の捜索には大体一ヶ月くらいかかる予定だからそれまでに『禁忌の書』を見つけ出して、ロド様が過去の記憶操作をした状態のファルーナ姫と入れ替わる手筈になっている。
ラミドール国王とイハンナ王妃に続いて大勢の使用人たちが立ち並ぶ青い絨毯の廊下を進んでいると…後方から微かに女性達の黄色い声が聞こえてくる。
「これは…」
嫌な予感がして振り替えると早くもイーリス様の美貌にあてられた女性達の浮わついた空気がこちらにまで流れてくる。
「くっ。」
何と…ここにきてライバルが一気に
増えるなんて…絶対一ヶ月で帰らなきゃ…!!
「姫様っ、前!」
壇上の階段一歩手前でフィリは周囲に分からないように瞬時に無理矢理前姫の顔を前に向けて、少し離れた所定の位置へ移動した。
正面の王座にラミドール国王、すぐ隣にはイハンナ王妃、右の斜め側面には長女リアーナ姫と三女ルティ姫…次女のファルーナ姫はその間に座る。階下にはイーリス様とゼダ君が片膝を付いて頭を垂れ、その少し後ろにフィリが続いている。
「ようこそ我が国へ。ファルーナの婚約を機に両国の絆もますます深いものとなるだろう。魔法に関しては貴国の方が進んでおられるので学ばせてもらうことが多いかもしれないが…我が国特有の魔法も多く存在するから新たな発見もあることだろう…イーリス殿、ゼダ殿、存分に勉強していきなさい。」
「ありがたき幸せにございます。」
ほぅ…やっぱりイーリス様はステキ…こんな場面でも落ち着いておられるわ。
「そしてフィリ殿。」
国王自ら使用人に声を掛けるなんて…フィリは驚いているが周りは平然としている。
「よくファルーナの世話をしてくれたね。これからも末永くよろしく頼む。」
「畏れ多いお言葉にございます。」
フィリは少し感動して涙ぐんでいるようだった。本当に優しくて温厚そうな国王陛下…とても危険な『禁忌の書』を隠し持っているようには見えない。
それからイーリス様とゼダ君は別棟の魔法研究室に、フィリは侍女長に連れられて王城の外へ行ってしまった。
◇◇◇
「ロデンフィラムは数年前に身分制を廃したそうですね。」
その日は王族の食卓にイーリス様とゼダ君も招かれてささやかな歓迎の場が設けられた。イーリス様の影響かゼダ君も今では落ち着きを取り戻して緊張しながらも瞳を輝かせて多少の好奇心が芽生えるまでになっていた。
「うん、まだ混乱はあるがね。明らかな強弱の立場の差はいきすぎた支配と極端な隷属を招く場面がある。身分によってもたらされる秩序は結果的に国の益にはならないと判断したんだ。」
ゼダ君ももう少し分かりやすい事を話題にしてくれればいいものを…。
「失礼ですがそれは王族にとっては…」
イーリス様のロデンフィラム語の流暢なこと…。
「うん。身近な者からは王族の存続自体を揺るがしかねないと反対もあったんだが…それでもわたしは民に寄り添う人物で在りたい。」
ラミドール国王はイーリス様とゼダ君に穏やかな表情を向ける。
「ただね…どんなに一見素晴らしい政策を行っても自分と他者を分けて捉える分断の意識から一人一人が抜け出さない限り本当の意味での調和はあり得ないんだよ。」
あれ…ロデンフィラム語の辞書は入れてもらったのにラミドール王の言っていることがよく分からない…後でフィリを介して教えてもらおう…というかどうかこっちに話題が振られませんように…三人の会話に巻き込まれないようにしばらくうつむいてメインディッシュを頬張る。
「ファルーナ」
「はい…お父様」
ヤ、ヤバ…
「アルシェンヴァーユでの二ヶ月間のことも皆に聞かせておくれ。」
よ、よかった…これは準備していたから何とか話せる。アベリアの庭園のことと湖の渡り鳥…ノースアプリコットのパンの素晴らしさとポーリンの自然の雄大さ…それと本人からの念押し通りヴァン王子がいかにこの国に友好的でお優しいお方であったかということをゆっくりと…しかし質問の隙を与えないようにひたすらに話した。
「まぁ、無口なファルーナがこんなに喋るなんて…よっぽど楽しかったようね。」
イハンナ王妃は驚きながら…しかし嬉しそうに微笑んだ。
「エトーナ海のフィルダとアロエのフェリーネルです。」
やっとデザートまで来た…緊張でどの皿の味も良く分からなかった…毎日これでは身が持たないかもしれない。就寝前になってようやく側に戻ったフィリと自室で相談してニ週間に三日くらいの割合で具合の悪い作戦を決行することにした。