嵐のあと (3)
「これを解き放ったのはお前か?」
夜明け前の水仙の庭でヴァン王子の足元には可愛らしい二匹の白い子犬がじゃれあっている。
「いえ…空に龍が現れた時、急に2匹が騒ぎだして自ら檻を破って飛び出していったのです。」
イーリスは嵐が去った後の庭園でもろもろの修復作業をしていた。
「何のための檻だか…」
ヴァン王子は半眼になってため息を付いた。
「どうなりましたか?」
イーリスは手を止めることなく王子に尋ねた。
「表向きは本人の意思という形だが…メイドのままでいるのは難しいだろうな。」
「レリア様は何と?」
王子は無言になって空を見つめた。
「…うん。レリアには激怒されてしまった。ろくに口も聞かん…あとで機嫌をとっておいてくれ。」
王子は疲れた顔で頭を掻いた。
決して一時の衝動で動くことなどなかったお方が昨日はリースさんの進級試験見たさにいきなりお茶会の場に飛び込んでしまった。そして今はその後の自分の言動も後悔しているようだった。
「進級試験が終わったら必ずリースさんを殿下のところへお連れすると申しましたのに…。レリア様の機嫌を取るなどわたくしごときには到底無理でございます。ご自分で何とかなされて下さい。」
庭園を派手に荒らされたことへの憤りも手伝って、イーリスは張り付いた笑顔で王子をふり返ってそうい言うと、白いフワフワした2匹の子犬を優しく撫でて檻に戻した。
◇◇◇
目を開けた途端に身体がフワフワした。どうやら熱があるようだった。
「じゅ…授業は…。」
時計を見ると講義の時間をとっくに過ぎている。あ、あれ…目覚ましを掛け忘れた…?!…と思ってから急に昨日の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡る。
「そうか…昨日は進級試験で…」
まだ夢だったんじゃないかとすら思えてくる。とくに牢に入れられてからは全てがまるで自分とは別のところで起こっている出来事のように思えた。それでも何らかの罪で罰を与えられることはなさそうな状況に安堵のため息が漏れた。とりあえずもう一眠り…。
ガチャ――――
現れたのは大きなポットを持ったリジェットだった。
「レリア様から薬湯よ。」
「あ、ありがとう…。」
少しの間リジェットはドアに立ったままなかなか距離を縮めなかったがリースの左手首の腕輪を確認するとゆっくりと歩を進めた。
「全員進級きたわよ…最も点数はリースが最下位だけどね。」
「えっ!」
う、嘘…!! 最後はあんなことになってしまったし…無効になるんじゃないかと思っていたけど…喜んでいいのかは分からないが素直に嬉しかった。
「でもあなた宮廷魔術の研修生になるの?」
リジェットは机の椅子に浅く腰かけて薬湯をかき混ぜてくれていた。
「ううんまさか! リジェットだって一年間一緒にいたんだから、わたしになんて無理だって分かるでしょ?」
香ばしい匂いの薬湯を一気に飲み干してからリジェットの方を向く。
「私、あなたのそういうところが嫌いよ。無理かどうかは私じゃなくてあなたが決めるのよ。」
「はぁ…。」
この気の強さはグリーミュと同じ…やっぱりリジェットは苦手だ…フィリだったら同じことを言うにしても前半部分は削ってもっと柔らかい口調で言ってくれるはずだ。
「リジェットは休暇中に故郷に帰らないの?」
進級試験の後は何と一週間も休暇がもらえる。一年ぶりに進級の報告も兼ねて家族の元に帰る者がほとんどだった。
「明日帰るわ。1000ピオ届けにね。」
「そ、そう…。」
コインのことは忘れていたのに何も蒸し返さなくても…。
「リースは?」
ついでのように質問された。
「わたしは別に身寄りもないから…。」
実は密かに手紙のやり取りをしているラスティート様やルリアル様からそれぞれ休暇中にお宅に招かれていたのだが、当人達が非常にややこしい状況のため、全く赴く気になれない。休暇は神経ごと休ませてはじめて休暇といえる。
「そう…。」
リースの悩ましげなため息をリジェットは別の意味で取ったらしい。
不思議とすぐに立ち去ろうとはせず、バスティラの庭園でイーリス様と剪定した時のことやこの一年間の出来事を時間を忘れて色々話してから、最後にはついでだからといって夕飯のお粥まで用意してくれた。
◇◇◇
「おかしいわ…。」
次の日、レリア様の薬湯のお陰ですっかり体調の戻ったリースはフィリとナズナに誘われてホリーのお店に来ていた。のっけからフィリの表情が険しい。
「お茶会では最善を尽くしたのに…一つも…一つもお見合いの話が来ないの…一つも…。」
まだお酒も飲んでいないのに頭痛がするのか両手で自分のこめかみを押さえてグリグリしている。
「あの…聞いた話だとパフォーマンスが素晴らし過ぎて…未来のメイド長を早々に嫁としてもらうのは恐れ多いと…皆さん口々に…。」
ナズナがフィリの迫力に押されながらも恐る恐る口を開いた。
「やり過ぎたのよ。」
リースがハチミツ水を口に含む。
「リースにだけは言われたくないわ。」
フィリに睨まれてしまった。
「昨日聞いたらリジェットは4、5人からお見合いの話があったそうよ。最も受ける気はあんまりなさそうだったけど…。」
そう…リジェットにお見合いの申し出があったお相手は大臣の息子から宮廷魔術のエリートまで一流の中の一流ばかりだった…。
「何ですって?! そんなに…。」
フィリが愕然とする。
「まぁ、消去法でリジェットさんに集中したんでしょうね…。」
ナズナが巨大なお鍋をかき混ぜる。
「…。」
ナズナは既に婚約者がいる…フィリは未来のメイド長…赤龍を呼んだリースは問題外ということだったようだ…。
「こんな…こんなことって…。」
興奮したフィリの魔力が漏れだしてまだ口を付けていないワイングラスがグラグラと揺れ赤い液体がパチパチと弾け出す。
進級試験の結果は見事1番手のリジェットを押さえて1位がフィリ、2位がリジェット、そしてナズナ、リースの順だった。ちなみにフィリとリースの点差は2倍近くあり、それは来年度の給金にそのまま反映される。
「今日はフィリの奢りね。」
リースは早くも鍋のフタを開けようとしてナズナに遮られる。
「…ロド様のところには行かないの?」
頬杖を付き半眼になったフィリに尋ねられる。
「行かないわ。」
リースは即答する。
「そっちに行ったらきっとダントツでリースの給金が高いわよ。」
「冗談でしょ。私には無理だわ。」
いくらお金が良くても勤まらなければ意味がない…あのヒステリックでナルシストそうな宮廷魔術師筆頭の顔が浮かぶ。
「じゃあまた来年もみんな一緒ですね。」
ナズナは嬉しそうだ。
「それにしてもハロックル様はステキだったわねぇ。ナズナが羨ましいわ。」
フィリはうっとりとため息を付いた。お茶会では気づかなかったが、後で聞いた話だとハロックル様がみんなを避難させて水の防御魔法で嵐から宮殿ごと守ったのだそうだ。
「惚れ直したんじゃない?」
それは他でもない自分のせいだったのだが…リースは悪びれもせずナズナをつつく。
「もともと惚れてませんから…。」
ナズナは子供のように口を尖らせた。
「フィリさんはじめ皆さん進級おめでとうございま~す! これは僕からお祝いです…ちなみにお代はハロックル様から事前に多めにいただいてるのでじゃんじゃん注文して下さ~い。」
ホリーが持ってきたお皿はスモークが出ていて全貌が良く見えない…が現れたのは新鮮そうなピンク色のお肉だった。
「わぁ~!!」
目を輝かせようやく元のテンションに戻りつつあるフィリの隣でナズナは苦虫を噛み潰したような表情になった。
「こういうところが嫌い…。」
「え? 何か言った?」
上等な肉を前にはしゃぐ2人の声に
ナズナの呟きはかき消された。
◇◇◇
「お腹痛い…。」
昨夜は進級試験が終わった解放感と気兼ねがいらないタダ飯に調子に乗って食べ過ぎてしまった…。
フィリとナズナは今日から里帰りするらしい…最も2人ともあまり気乗りしていなかったようだが…今日は一日寝ていようとお昼は過ぎにも関わらず布団を被った。
「リース。」
ドアのノックと同時に聞こえた声の主はレリア様だった。
冷たさを残した風の中にも密かに春めいたバスティラの庭園には既にたくさんの品種が綻びはじめていた。
「具合はどう?」
レリア様はカリンのベンチを魔法で暖めてくれた。
「はい、お陰さまで。薬湯をありがとうございました。」
まさか昨日食べ過ぎたとも言えない。
「申し訳ないけどあなたをメイドに採用した時のことをあまり思い出せないの…。」
体温の通わない陶器のように透き通る白い肌に映えるサファイヤの瞳がリースを捉える。
「…はい。」
怖い…偽物とバレたらどうしよう。反射的に顔を伏せる。
「前メイド長の時代だけど…あなたと同じように高い魔力を保持したメイドが宮廷魔術の研修生になったことがかあったそうよ…。」
「そうなんですか?」
「でもね…結局最後は行方知れず…今となっては生死も分からないわ。」
「えっ。なっ、何故ですか?!」
思わず顔を上げた。
「もう随分昔のことだから…スパイ活動のようなことをしていたという噂もあるけど…詳しくはよく分からないわ。」
「ス、スパイ…。」
「リース…宮廷魔術師になるということは将来的にこの国の第一線に立つということよ。高度な魔法を扱うから授業自体も危険を伴うこともあるわ。それに今は平和だけれども一旦戦争となればそのために魔力を使うことになる。お茶会でのあなたの魔力をみる限りその可能性は高いわ。そうなった時にあなたに命を掛ける覚悟はある?」
「ありません。」
冗談ではない…いくら給金が高くたって命あっての給金だ。
「そうでしょうね。」
即答するリースに半眼になりながらもレリア様は深く頷いた。
「このままメイドとして働かせていただくつもりです。」
「賢明な選択だわ。根回しはしておくから…あなたは一年間の復習をしっかりしておきなさい。特に発音のね。」
思いがけず親しげに微笑むレリア様はその容姿によく似合うバスティラの庭園を後にした。
「どうしてこんなことに…」
誰もいなくなった庭園でリースはぼんやりと湖を眺めた。よく見ると所々に嵐の爪痕が残っており、ガーデナーのイーリス様のことを思うとチクリと胸が痛んだ。
「何で龍なんか…」
思い出しただけで足が震えた。空に現れた龍やシーオンも恐ろしかったが、ヴァン王子のあの全身を突き刺すような瞳の黄金が何より恐ろしかった。あれが王者の証であるならば自分はこの世で最も恐れていたものを…この世で一番見たくないものを目にしてしまったような気がする。
「とにかくあれはわたし自身の魔力ではないわ…。」
休みはあと4日ある…リースは街であの魔法使いのおばあちゃんを探してみようと思った。




