嵐のあと (1)
リースは冷たく暗い石造りの牢の隅に座り込んでまだ降りやまない雨の音を聞いていた。
「せ、先生?!」
しばらくして手錠をされたラルファモート先生がやってきた。両側にいる兵士の間から厳しい目つきでリースの方を一瞬見やった後、すぐ正面に向き直る。すぐ隣で耳障りな金属音がして隣の牢に入ったことが分かった。
「先生…一体何が起こったんでしょう…」
急に涙が出た。
「…リース、あなたは発音が全然ダメです。」
ラルファモート先生は深いため息をついた。
「わたしはね…休みが取れるとよくオブコニカに旅行に行くんです。」
「え?」
「アーモ諸島の一つの小さな国です。海が澄んでいてとても美しいところですよ。」
「はぁ…。」
牢に入れられたショックで急に脳内トリップしているんだろうか…。
「そこはあまり魔法は発達していなくて不便なところもありますがね…人々は穏やかでこちらの心まで和やかになってくるんですよ…暮らしぶりを見ているとね…どうやらあまり個人の所有欲がないようだ…良い悪いではありません。搾取という意味合いの単語すらなく…そのせいか恐れや不安の感情がこの国の民よりも圧倒的に少ないようだ…それはとても幸せなことかもしれません。」
「…そうですか。」
まさか先生はそこに逃げるつもりなんじゃあ…
「定年したら移住してもいいと思っていたんですがねぇ。」
「ラルファモート先生、お呼びです。」
赤茶色のローブを着た青年が現れる。
「リース、覚えておきなさい。魔法は一つの手段に過ぎない。使わないのも一つの選択だ。魔力の強さとあなたの幸せとは関係がない。」
「先生っ…。」
その声は今までのどの講義よりも力強く、先生は驚くほど優しい笑顔で微笑んだ。
◇◇◇
「おーいブス~! 早く来いよ!!」
「坊っちゃま、ブスではなくわたくしにはグリーミュという名前がございます。」
「ふんっ、ブスにブスと言ってなにが悪いんだっ。早くお菓子を持って来いっ!!」
広大な庭園の大きなクリ木の下で生意気なクソガ…いえ…少々やんちゃなお坊っちゃまのお相手をして差し上げる。
「おいブスっ、あれをとって来い。5秒以内だっ。」
ファルレード大臣のご子息サンタ様は高い木のてっぺんに引っ掛かったオレンジ色の紙飛行機を指差した。
「…かしこまりました。」
こんな時は魔法が大変役に立つ。
5秒も立たない内に小さな紙飛行機はそれよりも小さな手の平にふわりと舞い降りた。
「ふんっ。」
次の瞬間、上質な紙で作られた飛行機はビリビリに破かれて風に飛んでいった。
「…。」
話は3ヶ月前に遡る。
「ごめんなさい! グリーミュ、お給金がこれ以上支払えそうにないの。」
申し訳なさそうに瞳を潤ませる可憐な乙女はウィンティート家の三女ルリアル様だった。
「よかったら来月からファルレード大臣のお宅で働かない? ご子息の侍女でお給金は月500ピオみたいなの。」
「!!」
なんと破格の厚待遇…!! しかし今ウィンテート家を離れていいものか…。ルリアル様は明らかにセレーネ王妃様に気に入られている。
王宮殿のサロンや個人的にお2人でお会いになることもあるくらいだ。
給金が払えなくなった理由は分かっている。最近王妃様の目を気にして夜の仕事をお辞めになったから…。
こう言っては何だが、ルリアル様に夜のお仕事は大変向いているようだった。それなりに辛いこともあったようだが、少女のような面立ちに時々現れる妖艶な笑みは多くの男性を虜にした。加えて努力家で父親譲りの聡明さは知識と会話の豊富さにつながり、高級役人クラスの上客がたくさんいたようだった。本人も仕事を通じて得られる情報の貴重さを充分に分かっていたし、悩んだ末の決断だったんだろう。
そしておそらくファルレード大臣の侍女のツテもそこで得たものに違いない。
「ですが…」
「気にしないでいいのよ。あなたにも目指すところがあるのでしょう?」
ルリアル様は焦げ茶色の瞳に頑なな意思を宿して優しく微笑んだ。そう…わたしにも目指すところがある。それは絶対に譲れない夢だった。宮廷メイドになってレリア様のお側で働くこと…。
「申し訳ありません。このご恩は決して忘れません。」
深々と頭を下げた。
「それはこちらのセリフだわ。」
正直レリア様がいらっしゃる以上、ルリアル様が王太子妃になるのは難しいかもしれないが、きっと幸せになっていただきたいと心から願った。
◇◇◇
「今月分のお支払ですね。」
ベージュの壁にフカフカの白いソファー、ところどころに飾られたバスティラの花の待合室は、いかにも女性的な空間が演出されている。中央のカウンターで支払いをする女性は薄布の頭巾にフェイスベールまで被っているが、スタイルはもちろん遠目にも相当な美人であることが分かる。珍しい紅色の瞳だけが外界に晒されて宝石のような輝きを放っていた。自分もあんなに美しく生まれ変われるだろうか…。
宮廷メイドの採用試験に年齢制限はないが試験を受けられるのは一人3回までと決められている。残されているのは後1回だけだった。決して決してブスではない…が…生まれつき地味なこの容姿のせいで不採用になっている可能性もゼロとは言い切れない。
宮廷メイドに比較的美人が多いのも事実だった。最後のチャンスに不安要素は残せない。魔法で美しく姿を生まれ変わらせてくれる美容サロンは金銭的にもかなりの負担だが利用しない手はない。
あと半年もファルレード大臣のお屋敷で勤めれば分割支払いの目処が立つ。
今まで何人もの侍女や家庭教師があの生意気なクソガ…坊っちゃんのせいで辞めていったようだが、どんなに手強くても何とか踏みとどまる以外自分に道はないのだ。
「今日はもう受付けが終了しましたのでまた後日お越しください。」
「そんな…」
予約殺到のサロンの受付嬢は事務的で冷たかった。
「分かりました。また後日…」
それから休みの日毎にサロンに通ってようやく1か月後に半年待ちの予約を入れることができた。
手続きを終えて建物の外に出た時には今朝の予報に反して黒い雲が空を覆い、ポツポツと雨が降り始めていた。
お土産に買ったサンタ坊っちゃんが大好きないちごとミルクたっぷりのロールケーキが濡れないようにグリーミュは近くの馬車まで走り出す。




