再び王子様と… (1)
今度こそ殺される――!!
ギュッと目を瞑った瞬間、また嫌な風が全身を包んだ。
◇◇◇
「うわぁぁぁぁっっ!!」
到着したのはフカフカのソファー…ではなく屋外の白いテーブルの上だった。ガラスや陶器が割れる派手な音と共にいつかの大男を巻き込んで三人の男女が芝生に倒れ込む。
「う…イタたた…。」
ゆっくり起き上がって下を見るとすぐ下にはヴァン王子、その下にはラスティート様が下敷きになっていた。ヴァン王子はいつの間にかきちんと正装している。
「もっ、申し訳ありません!!」
慌てて身体を退けると、ヴァン王子の口元と、ラルティート様の額に切り傷が見えた。
「どっ、どうしましょう殿下! お顔に傷が…!!」
とっさにヴァン王子にさっきラルファモート先生から借りた涙や涙以外の水分でグシャグシャになったハンカチを近づけたらものすごい勢いで手をはね除けられた。せっかく王宮殿のメイドらしく振る舞ったのに…。
「すまない、ラスティート。」
ゆらりと立ち上がるヴァン王子が怖くて一歩下がる。どことなく精気がなく虚ろな目をしている。
「いいえっ、すぐに医師を…!」
後頭部を抑えて身体をお起こしながらラスティート様が侍女を呼ぼうと立ち上がる。
「いや待て。」
ヴァン王子がラスティート様に目配せをすると、挨拶もそこそこにあれよと言う間に何故か前回と同じ湯殿の前にいた。
「まっ、まさか…!」
不安になってスカートを軽く確認しても別に濡れている様子もない。
「ど、どこか汚かったかしら…」
両肘の辺りにをクンクンと嗅ぐと若干汗臭いような気もするが…。
「…。」
今回は黄金のフルーツに加えて紅色の大きな花びらまで浮かんでいる…。花びらの色をじっと見ていたら、まさかこれで殺されてしまうのではという恐怖が湧いてきた…。
「い、いえ…ラスティート様はきっと大丈夫よ。」
あの男は人を殺めるなんてできない…。リースはそう思ってオレンジの湯に冷えた爪先を預け入れる。
「あれ? 殿下は?」
無事にお風呂を満喫して庭園へ戻るとラスティート様しか見当たらなかった。さっきの光景はなかったかのように、既に新しいテーブルや花瓶がセットされている。
ただラスティート様の額に貼られた白いテープだけは妙にと存在感を放っていた。
「今お部屋で爆睡しておられます。昨日徹夜なされたようで…。」
「そうですか…。」
何となく…湯船に浸かりながら予想はしていたがさっきいたのはやはりヴァン王子の寝室だったんだと思う。
今度こそお命を狙ったと思われてもおかしくない…。
背中を冷たい汗がつたう。その時ふと斜め後ろに気配を感じて振り替えると、小さな化粧鉢に桜の花木がたくさん並べられていた。白から赤に近いピンク色へとグラデーション状になって並んでいる。
「うわぁ、かわいい!」
思わず駆け寄る。
「すごい! こんなに微妙な色合いの違いがあるんですね~。」
目を輝かせるリースの後ろでラスティート様は困ったように笑った。
「あ、あの…リースさん! 実はこれからウィンティートのお嬢様方がいらっしゃいます。そ、その…殿下にこのことは…。」
そうか…きっとこの鉢植えの小さな桜はルリアル様のためだろう。ルリアル様はヴァン王子を見て頬を赤く染めていた…絶対に二人を会わせたくないはずだ。
「ええ、もちろんです。ここにいらっしゃることは決して言いません。」
ラスティート様は安心したように深く息をついて頭を下げた。そういえば以前ルリアル様の件に関して協力すると言ったのを今さらながらに思い出した。最初の頃は手紙のやりとりだけしていたのだが最近はめっきりそれも途絶えていた…。ラスティート様からも何もおっしゃってこなかったからすっかり忘れていた。
「あの…実はお妃様選びの話題が、例の王妃様のサロンが終わった辺りから宮殿内でも一切されなくなってしまって…本当にどうなっているか分からないんです。」
聞かれてもいないことをわざわざ話すのもどうかと思ったが…何だかラスティート様は勝手に人の心を開かせる不思議な魅力がある。
「お役に立てず申し訳ありません…。」
リースは頭を下げた。
「とんでもない。動きがないと教えて下さっただけでも…ありがとうございます。」
ラスティート様は申し訳なさそうに言った。
「あの…不躾で申し訳ありませんがエミュレー様とは…。」
上目づかいで恐る恐る聞いてみる。ラスティート様は黙ってうつむき、その目は死んだ魚のようになっている。こちらも動きがないようだ…。
遠くで馬車の音がする。
「さ、リースさんもお部屋を用意しましたからしばらくそちらで身を隠して下さい。」
我に返ったラスティート様が手際よくいそいそと侍女に指示を出す。
「お気遣い感謝いたします。」
そういって通されたのはヴァン王子が寝ている部屋の隣の客室だった。たぶん万が一王子が目覚めたら庭へ出るのを食い止める任務を負わされたらしい。
◇◇◇
「もう限界だ…。」
1時間半を経過した辺りだろうか…。トイレに行きたくて行きたくてたまらなくなってきた。幸い隣のヴァン王子の部屋からは物音一つ聞こえてこない。
ただラスティート邸は広く王宮殿ほどではないが造りも複雑なので無事に行って戻って来られるだろうか…。
気を紛らわすために体操でもしてみようか…。
「イッチ、ニッ、サッ…」
カッツーンッッ
巨大な陶器の壺が、リースの手の甲の骨とぶつかって大きく振動する。
「…っつ…くっ…」
隣の部屋でヴァン王子が起きてしまっていないか耳を澄ませる…どうやら大丈夫そうだ。ついでに陶器の無事も確認してから意を決して少しドアを開ける。
「あ…。」
来るときは気づかなかったけど、ほのかに黄金のフルーツの匂いがしてきた。確か湯殿の近くにお手洗いもあったはず…。
「よかっ…!!」
ドアを出てすぐだった…。
「リース?」
レモン色のドレスを着たルリアル様がいた。そしてルリアル様が立っている扉の向こうにはヴァン王子が眠っている。
「どっ、どうしてこちらに?!」
むしろ王子の存在がバレて会いにきたんだろうか…。
「今日はラスティート様にご招待いただいて姉達と3人で伺ったの。」
そうではなくて…。
「表にいたのだけど…良い香りがすると思って廊下を歩いていたらここまで…。リースは?」
「いえ、あ、私は…て、手伝いで…そう、手伝いでたまたま参りました。」
どうやら王子のことは知らないようだ…。
「そう…。グリーミュから聞いたわ。王宮殿のメイドに合格していたなんて…本当にすごいわ。」
ルリアル様の懐かしい大きな瞳を…どこか寂しそうなその瞳を見ていたら何故か逃げ出したくてたまらなくなった。
「い、いえ…ルリアル様。でっ、では私はこれで。」
思わずその場から走り出すと、
「待って!」
ルリアル様に袖を掴れる。
「リース…!!恥を忍んでお願いがあるの。」
「?!」
「ごめんなさい…本当に…。」
一瞬ルリアル様が躊躇う。
「あ、あの…。」
どうしてよいか分からずその小さなお顔をのぞき込む。ルリアル様はうつむいたままワントーン低い声を絞り出した。
「あのお方…セレーネ王妃様の侍女レリア様を王太子妃にお選びになるのか…。」
美しい声はまるで別人のようにリースの耳に響く。
「え?」
思わず一歩下がると今度はがっちりと両腕をつかまれてしまった。
「宮殿内で何か情報があれば教えて欲しいの。」
どこか憂いを帯びたこげ茶色の濡れた瞳がすがるようにこちらを捉える。
「リース…私はあの宴の夜から殿下に心奪われてしまった…。」
「ルリアル様…。」
「宴から少し経って王妃様のサロンが開かれたの。」
「は、はい…。」
「明らかに王妃様の目に留まった妃候補が集められた会だったわ…。」
ルリアル様は廊下の丸みのある大きな金の縁の出窓から外を眺めた。
「一切の振舞いからドレスの着こなし…会話、唄や詩を読んでも誰一人…何一つとしてあのお方に敵う女性はいなかった。あの時誰もが…王妃様でさえレリア様が王太子妃にふさわしいとお認めになったはずよ…。」
「そ、そんな…。」
正直、王宮殿でもレリア様とはほとんど会うことがない。たまに朝礼で遠目でお姿を見るくらいで、それもいつも涼しい顔をしていて何を考えているか分からないと思っていたが…まさか王妃様のサロンで王太子妃になるべくそんな猛アピールをしていたなんて…。
「それでもあれから一年経つわ…何故まだ動きがないのか…待つ間に殿下を諦められない気持ちに気付いてしまったの…。」
肩をふるわせるルリアル様の背中を見ていたら不思議な感情が沸き上がってきた。
「私にお力になれることがあればなんなりと…。」
そっとルリアル様の背中を撫でながら無意識にそう言ってしまった。言ってしまってからしまったと思った…。
ラスティート様に協力するつもりだったのに…。そもそも進級試験のプレシャーに耐えられず王宮を出ようと思っていたのに…。
「ルリアル様!」
ラスティート様がものすごい勢いで走ってきた。2人の居所みて一瞬青ざめたが、すぐ目配せをするとやや固い表情のまま頷いた。
「なかなか戻られないので心配いたしました。さぁ…こちらへ。」
ラスティート様の素早いエスコートを、ルリアル様は一瞬制してリースの両手を固く握る。
「リース本当にありがとう! いずれまた!!」
潤んだ瞳に天使のような笑顔を残してルリアル様はその場を去っていった。何であんなこと口走ってしまったんだろう…恐るべし恋する乙女の魔性の目力…
キィィィィ――
後ろからドアが開く音がする。
「殿下…」
黒地に金刺繍の夜着に白銀の髪は少し寝癖で逆立っている。
「あの…聞いていらっしゃったのですか?」
「…。」
「お会いにならなくてよろしいのですか?」
「…。」
「あの! さっき――」
次の瞬間、王子のお腹からものすごい音が聞こえて、リースは自分がトイレに行きたかったことを思い出した。