臨時休暇 (1)
とても暖かくて心地よいところにいる。
身も心も真綿ですっかり優しく包み込まれているみたいだ。
許されるならずっとずっとここで微睡んでいたい。
そうしてここから一人動かず…大きな喜びはないけど、誰かを傷付けたり傷付けられたりせずに、ただただ静かに穏やかに過ごしたい…。
「目が覚めたかね。」
「…。」
黙って放っておいて。
「リース」
「…。」
もう誰も私を呼ばないで。
「…寝たふりかね。もういいだろうに。
丸2日も眠っていたんだから。」
「え…。」
驚いてリースは目を開ける。
「やっぱり起きてたね。」
「こっ…ここは?」
起き上がろうとして急に頭を持ち上げた瞬間、クラクラして体勢を崩しまた枕に舞い戻る。
どうやらこの場にいるのが声の主である白髪のお婆さんと自分だけと分かって、寝たままの格好で尋ねた。
「ここはどこですか?」
「大通りの宿だよ。」
げっ。
宮殿に続く道の宿なら一泊でもかなりの値段がするだろう。一刻も早くここから脱出しなければ。
せっかく宮殿までたどり着いたのに、まだウィンティート家には帰りたくない。
「おばあちゃんが助けてくれたんですか?」
「そうさね。宿の目の前で倒れられちゃあね。」
城門の前までは辿り着けなかったみたいだ。確かに城門の装飾を見たような気もするのだけど。
「ありがとうございました。お陰さまで大分回復しました。それでは私はこれで。」
宿代を請求されるまえに逃げられたら逃げようと思って身体を起こそうとする。
「ちょっとお待ちなさいな。」
そう言われた瞬間、またクラクラして布団に舞い戻る。
「あら?」
「まだ少し熱があるようだよ。それに今は夜中だ。」
部屋の隅にある大きな木製の古時計をみたら12:00を廻っていた。
大人しくもう一泊しようかなと諦めかけたが、いかんせん宿代が気になる。
でも尋ねてしまったら支払わざる負えなくなる気がするし…とりあえず黙っておこうっと。それにしてもこの布団の心地よいこと…。
「もう一眠りするのかい。よく寝る娘だね。寝る前にスープはいかがかい?」
「…いただきます。」
スープは一体いくらなんだろう。でも既に何ともいえない香ばしい良い香りが漂ってきていて、断るなんて考えられなかった。
ようやく身体を起こしてスプーンを口に運ぶと、今までに食べたことのないような味に驚く。
透き通った黄金色でさらさらしていてシンプルな見た目なのに、何が溶け込んでいるか分からないような複雑な味がした。
そのよく分からない味が、疲弊した身体に染み渡ってとても幸福な気分にさせてくれる。
思わず一気に飲み干してしまったら、おばあちゃんは何も言わずにもう1杯よそってくれた。
2杯目を飲もうとした時、そういえば目覚めた時名前を呼ばれたような気がしたことを思い出した。
「あの、そういえばさっき私の名前を呼びました?」
「あぁ、リースとね。」
「どうしてそれを?」
「ほらアレだよ。」
ドアの入り口の壁に掛けてあったコートを指差す。
「コートの襟の裏に刺繍があったろ。
持ち主の名前かなと思ってね。珍しい生地のコートだったからつい目がいってしまってね。」
それは唯一の母の形見のコートだった。
まだウィンティート家が豊かだったころに奥様が母親にプレゼントしてくれたものだ。
トリーという希少な動物がその生涯で一度だけする脱皮の皮を鞣して作られたもので、軽くて風を通さない上にそれ自体が暖かい。刺繍がされていたのは今まで気づかなかったが…誰がいつしたのだろう。
ともあれ雪の中ここまで歩いてこれたのもこのコートのお陰といってよかった。
「母親の形見のコートです。名前は私ですが。」
「そうかい。」
「…母親も私と同じ召し使いでしたが、お仕えしていた主人の奥様と親友でもありました。
これは母が奥様からいただいたコートです。」
「主人から召し使いに贈り物かね、それは珍しいことだね。」
「母は召し使いの長で、仕事ぶりも素晴らしくご主人様や奥様の信頼も厚かったようです。」
何故会ったばかりでこんな話をしているのか自分でも分からない。
おばあさんはうつむいてまん丸の眼鏡をかけて何か細かい編み物をしながら耳を傾けていた。
もうすぐ2杯目のスープも飲み終えるかというところだった。
「ですがわたしは…」
そう言った瞬間、先日のエミュレーの激しく泣き怒った顔が浮かんでまたひどく胸が痛んだ。
『わたくし達と母親は関係ない』
と、最後に叫んでいた言葉がやけに耳に残っている…。
そう、使用人が1人また1人と辞めていく中で、最後までウィンティート家に残れたのは母親のお陰だった。
特に母親が亡くなってから奥様には本当に良くしていただいた。
ウィンティート家が貧乏になってからも奥様は嫌な顔一つせず一緒に家事もして下さった。
それで距離がとても近くなったせいか、いつの間にか奥様を母親のように感じるようになっていった。
「わたしは…母のようには…」
僅かにカップに残ったスープに涙の粒がポタポタと落ちる。
「わたしは、わたしは母親のようにはなれませんでした…」
泣きながらリースは思った。
そうではない。
なれなかったのではない。なろうとしなかった。
真心を込めてお仕えしようという心がどうしても自分には足りないのだ…。
「母親のようになりたかったのかい?」
いきなり核心を突いたことを聞かれた。
「…分かりません。」
おばあちゃんはそれきり黙って傍らで編み物を続けていた。
◇◇◇
朝の光がシルクのカーテンごしに差し込む。
泣き疲れて眠ってしまったみたいだ。
昨日は気づかなかったけれど、部屋はそこまで広くないものの、家具や調度品などは一流のものらしいことはリースの目でも感知できた。
きっとお金持ちの貴族の方々の御用達なのだろう。
リースは手持ちでは一泊でも支払えるかどうか不安になった。ベッドを出ると
「あら?」
身体がとても軽い。
しかも文字通り泣き腫らしたはずの目はぱっちりと見開かれ、エミュレーに叩かれて腫れた頬や切れた口の中の傷も跡形すっかりもなく消えていた。
「こんなことがあるなんて…」
と感動したのも束の間、ドアの外で人の声がする。
どうやらフロントが近くにあるらしい。
早朝に宿を出る貴族の男性二人組のようだ。
耳を凝らすと宿代は2泊でリースの手持ちの倍以上だった。
「ど、どうしよう…。」
もう3泊もしてしまった。
でも待ってよ…。私はこの宿に泊まるなんて一言もいってないし、それこそ勝手に助けたのは向こうなのだ。
運よくここは一階で大きめの窓もある。ただ看病してくれたおばあちゃんにはちょっと罪悪感が残り、
『ごめんなさい。いつかお金を渡しにきます。』
と書き残して、窓をいっぱいに開けて外へ脱出した。
宿の外壁も思ったほど高くなく、リースはすっかり元気になった身体で難なくよじ登って裏通りの人の流れに紛れ込むことに成功した。