王子様と… (5)
「どこへ行く?」
裏通りの路地に差し掛かったところでヴァン王子は現れた。
「あ…」
逃げられなかった。そもそもどこに行けばいいか分からなかった。
「あ、あのぅ…お腹が空いて。」
我ながら間抜けな言い訳だなと思った。でも立ち止まったのが丁度小さな屋台の前だったからこれが最適な文句だった。
王子は無言で粗末な屋台の木の椅子に座り、リースも遠慮がちに少し距離を置いて隣に腰かける。二人とも明らかに浮いていて、特に店主は怖がっているようにさえ見えた。
「こういうところには来たことあるんですか?」
「あるわけないだろう。」
そう言いながら王子の横顔はかなり疲れていて、汚れたグラスの水を一気に飲み干していた。リースも疲れてあまり食べたくはなかったけれど、暖かいスープを口にしたら意外に美味しくてスルスルと食べられた。
「…何故泣く。」
王子が頬杖をついたままこちらを見ずに呟いた。
「え?」
涙がスウッと頬をつたってスープに落ちたと思ったら、みるみる内に視界が歪んでいった。
さっき見た光景が信じられなかった。あの女は本当にルリアル様だったんだろうか。あんな世俗的で大人びた表情なんて知らない。ルリアル様は貴族の中の貴族だ。給仕する方でなく給仕される方でなくてはならかったはずだ。ましてや男性相手の夜の店…まだ信じられない。
「い、いえあんまり美味しいから。」
グリーミュの言った通り、わたしはウィンティート家のただの居候だったと思った。
「馬車で帰るぞ。」
王子が目を閉じたまま言った。
「え? 例の風でもいいですよ。ちょっと怖いけど一瞬で着くし。」
固い懐紙で鼻をかみながら答える。
「悪いが誰かのせいで、もうそんな魔力は残っていない。」
王子がため息く。
「え? 魔力にも限界があるんですか? だったらあんな花束を出したり格好なんかつけなければ…」
ガンッ。
王子は飲み干したグラスを木のテーブルに打ち付けてさっさと席を立った。
◇◇◇
帰りの馬車でもヴァン王子様はたいそう機嫌が悪そうだった。席が向かい合わせというのも何とも気不味い。それでも聞いて置きたいことが2つあった。
「ルリアル様を妃になさるおつもりですか?」
答えてもらえないかもしれないと思いながら恐る恐る顔を覗き込む。王子は目を閉じて腕を組んだまま口を開いた。
「…あの者がこの国の妃に相応しければそうなるまでのことだ。」
はっきりしない。
「じゃあ…わたしをもう殺そうとはしませんか?」
王子は微動だにしない。
「そうした方が良ければそうするまでだ。」
何という…じゃあまだ殺される可能性があるということか…妃のことはともかく命に関わることまでこんななるがまま的なことを言われたのではこっちはたまったもんじゃない。
薄暗い馬車の中で、僅なカーテンの隙間から夜の街の灯りがヴァン王子の髪から頬と肩から長い足の輪郭までを照らしている。ルリアル様のこともわたしの命のことも、まるで他人事のように同じ口調で冷たく言い放ったこの男を象るフォルム全てが美しすぎてとてもこの世のものとは思えなかった。
◇◇◇
いつ王宮殿に入ったのかも分からないほど自然に目的地に到着していたようだ。とは言っても宮殿内の森の中なので全く馴染みがない地点だ。
「あのぅ、メイド部屋はどこでしょうか?」
王子は一瞬信じられないといったような顔をした。
「ここを左に抜けるとバスティラの庭園だ。」
そう言うとさっさと行ってしまった。辺りは真っ暗で心細い。深呼吸をしてゆっくり歩きだすと5分くらいでバスティラの庭園に着いた。
よかった、意外と早く着いた。ここまで来れば何とか分かる。
まったく…エミュレーやルリアル様にはあんなに優しかったのに。私が使用人だからこんな扱いなのかしら。
「エセフェミニスト!」
「おい。」
後ろから王子の声がしたような気がした。
「忘れ物だ。」
「ひっ。」
ヤバ…聞こえてしまっただろうか。
振り返った途端、綺麗に折り畳まれたメイド服を渡された。そういえばラスティート様の屋敷で着替えたのを忘れていた。引きつった笑顔で受けとる。
「それからこれも。」
王子は自身のシーオンと月桂樹のブローチが輝く左胸ポケットから小さなメダイと取り出して、リースの手の平に乗せた。
「ありがとう…ございます。」
またここに戻ってきてしまったと思った。偽物の勲章をしばらく見つめて、再び顔を上げた時には既に王子の姿はなかった。
◇◇◇
ローズウッドの厚い扉を幾つか抜けて今日の部屋にたどり着いた。時計は12:00を回っている。
冬の夜の冷気を微かにその肩に残したヴァン王子は書斎の大きな椅子に身を預けて天を仰ぐ。机には今日中に目を通すはずだった書類が山積みになっている。明日までにサインが必要な書状も何枚かあった。
「…。」
本当はこのままベットに倒れ込みたい。だがまだ眠る訳にはいかなかった。
「レリ…いや…イーリスを呼んでくれ。」
「かしこまりました。」
5分と経たないうちにその男はやってきた。
「ご用でしょうか。」
「早いな。」
「…書斎に直接お呼びになるなんて。」
「これ以上動けそうになくてね。」
「何事ですか?」
いつもは隙一つない王子だったが、今夜の目を閉じて脱力している様子はいくらか無防備に見えた。
「今日ヘリオルス城の最上階にメイドが現れた。」
「ご冗談を。」
王子の閉じていた目が薄く開く。
「冗談を言うためにここまで呼んだと思うか。」
「信じられません。」
ヘリオルス城には結界が張られている。特に最上階のそれはより強力でイーリスも入れない。
「その女の過去も視えなかった。ラスティート邸でウーデンの実で湯浴みさせたが、それでも視えなかった。全く何もだ…。」
「そんなまさか…殿下でも透視できない者がいるのですか?」
イーリスが一歩前に出た。限られた魔法使いの間でしか知られていないが、黄金の実ウーデンは相手の過去をより鮮明に透視しやすくする効果がある。
「相手がわたしより魔力が高いか、もしくはその魔法使いの手に掛かっている場合は視えない。どうやら後者のようだ。」
王子の表情が険しくなる。
「この国に私より魔力の高い者が2人も存在するとはな。」
王子は銀色に輝く髪を掻き上げ深いため息をついた。
「ロド様に依頼してみますか?」
王子で無理となったらこの国で一番魔力の高い宮廷付き魔法使いの長ロドクルーン様に視てもらう他ない。
「…いいや。」
相当その女のために魔力を消耗したのかヴァン王子の表情は明らかに疲れていた。
「どういたしますか?」
イーリスの顔に僅な緊張が走る。
「リースというメイドだ。お前に見張って欲しい。」
意外な人物の名前にイーリスが拍子抜けしたように口を少し開けた。
「知っているのか?」
「…ええ。あの新米メイドですよね? 今バスティラの庭園の手伝いをしてもらっています。」
「庭園の手伝い?」
「宴の日に持ち場を離れたペナルティです。」
「…。」
不可解なのは、その娘がなぜ宮廷メイドになれたのか理解できないほど能力が低そうなことだった。だがメイドの採用に関して最終的な決定権を持つレリアの眼は絶対なはずだ。
「とにかく目を離すな。毎日様子を報告してくれ。」
「毎日ですか?」
「そうだ、私からは以上だ。」
それだけ言うと王子は頭の冴えるイエロー鼈甲の眼鏡をかけて、黙々と書状に目を通しはじめた。




