王子様と… (4)
都に着いた頃にはすっかり陽が落ちて、馬車のカーテン越しから見える華やかな夜の街の灯りが眩しかった。
「…さて次は何に変えようか」
王子が呟く。今度はリースの胸の辺りに手を翳してブツブツと呪文を唱えている。
「えっ、また姿を変えるんですか?!」
ボンっ。
「おぉぉ。」
ラスティート様が感嘆の声を上げる。
目を空けて手元を見ると白い絹の手袋をしている。かっちりとした服装で肩の辺りが何だか窮屈だ。確かに休日といえどメイドの門限は夜9時だから姿を見られたらまずいけれど、そんなに遅くなるんだろうか…。まさか姿を変えて身元不明にして殺すつもりじゃあ…。
「男装させたが中身は変えていない。では行こうか。」
リースの心配を余所に王子がさっさと先に降りてからラスティート様が続き、手を差し出してエスコートしてくれた。
「ここは…。」
ラスティート様が少し口を開くと白い息が闇夜に溶けた。
目の前に現れたのは一軒の上品な建物だった。モノトーンの色調の建物はラスティート様の邸宅とは対象的で、生命を感じさせない無機質の美しさがあった。
「知っていたようだな。」
王子が扉を開けると、キリリとした眉と優しそうな瞳を持った色白の女が現れた。長い黒髪を左側に流してコーラルピンクの珊瑚で何層かの渦巻き状に束ねている。
「まぁ! ようこそお越し下さいました。どうぞこちらへ。」
人の気配のないフロアは外観のイメージとは少し違い、所々に豪華な調度品と絵画が自然に飾られている。
「貸し切りにしましたのでどうぞご安心しておくろぎ下さい。」
女に案内された深紅のソファーは見た目より大分フカフカして心地よかった。ずっと座っていたい…というかこのソファで眠りたい。
ふと隣を見るとラスティート様は前のめりの姿勢で、膝の上で組んだ手の親指をせわしなく擦り合わせている。
「これはヴァン殿下…まさか本当にいらっしゃるなんて。」
かつて慣れ親しんだ可愛らしいその声に心臓が大きく跳ねる。顔が上げられなくてうつむいたまま目線を声の方向へ移すと、今までに見たこともないような薄紫の高い高いヒールに小さな両の足がピタリと収まっていた。その造形美が完璧すぎて一つの美術品のようさえに見える。ふわりと漂う爽やかでほのかに甘い香りは恐らく以前ラスティート様からいただいた香水で間違いないと思う。
「突然申し訳ない。あなたと少し話しがしたくてね。」
王子が優しげな声で話しかければ、隣の男は両膝の上で拳を握り締めている。
「ま、まぁ。わたくしでよろしければ…。」
戸惑いの声にわずかな喜悦が交じったように聞こえたのは気のせいではなさそうだ。どうしよう…やっぱり顔が上げられない。
「これはセデム、私の従者だ。その奥は…お知り合いのようでしたね。」
セデム…変な名前。私のことか。
「まぁ、失礼いたしました。わたくしはルリアルと申します。ラスティート様! またお会いできて嬉しく思います。」
どうやらルリアル様はヴァン王子様しか見えていなかったらしい。恐る恐る顔を上げる。
煌めく装飾が背景の暗がりに浮かび上がった女は私の知るかつての主人とは少し違っていた。ルリアル様はどんなに年月を重ねてもどこか少女のように奔放で正義感が強く誇り高くて…何というか…他者に嫉妬する暇も与えような生粋の箱入りのお嬢様だった。
けれど今、目の前にいる紫とシルバーホワイトが銀河のようにせめぎ合うロングドレスを着たその人は、少女のような清らかさはそのままに、成熟した女性の艶やかさをふわりと器用に纏って怪しく不思議な魅力を放っていた。
「そんなに凝視して失礼ではないか。」
ヴァン王子がグラスを片手に口を開く。
「え? あ、申し訳ありません。あまりにお美しくて…。」
慌てて我に返って目についた小さなグラスに手を伸ばす。口に含んだ途端に鼻と喉が焼けるような強烈な刺激に思わず咳き込む。
「だ、大丈夫ですか?」
ラスティート様が隣にあった水をくれた。どうやらラスティート様用のウィスキーのストレートを飲んでしまったようだ。
「すまない。こういう所に不馴れな者を連れてきてしまって。どうしてもと言うから。」
王子が呆れたように笑う。無理矢理連れて来ておいて…。というか王子様やラスティート様はこういう所に慣れているのか。
「いいえ。お会いできて嬉しいですわ。セデム様。」
微笑んだルリアル様はまるで天使…いや女神様のよう。これはヴァン王子の心が動くのも納得できる。ラスティート様は良い方だけれど、やはりルリアル様は高嶺の花と言わざる負えないかもしれない。自分が女ということも忘れてヘラヘラ照れ笑いをしてしまった。たぶん赤くなっていたと思う。
「あなたの魅力にまた一人心を奪われてしまったようだな。無理もない、私も宴の日はあなたと踊っている束の間、忙しい政務に明け暮れる現を忘れて、あなたの可愛らしさに大いに心が癒された。」
王子は微笑みを浮かべてサラリと言った。私とラスティート様を前にルリアル様を口説く気だろうか。それなら一人で来ればいいのに。ラスティート様のお酒のペースが早い。
「ま、まぁ…可愛らしいなんて子供相手みたいですわ。」
ルリアル様はピンク色に頬を染めてラスティート様にさっきより薄めのお酒を作ってあげていた。かつての主人が着飾って男性に給仕する様をみてチクリと胸が痛んだ。
「あの万華鏡のようなドレスはどうされたのですか?」
二人の間の空気に耐えられなくなったのか、ヴァン王子が口を開く前にラスティート様が遮る。
「…たまたま使用人が魔法が使える者でしたので。でもまさかドレスに魔法をかけたなんて知らなくて、本当に驚きました。」
知らなかったのはたぶん…いや絶対嘘だろうなと思った。
「あれは美しかった。」
ヴァン王子が呟く。
「ドレスがですか?」
ルリアル様がイタズラっぽく微笑む。その表情は本当に可愛い。女の目でこれほどなのだから王子とラスティート様の目にはどれほど魅力的に映っているんだろう。
「あのドレスの魔法さえ霞むほど、あなたの美しさの方が遥かに奇跡だ。」
王子様はわざとらしくルリアル様のお手をとって軽くキスをする。
「まぁ、からかわないで下さいっ。」
ルリアル様はますます赤くなって、ヴァン王子は満足そうに声を出して笑う。
何これ…こんなイチャイチャを見せつけるために同席させたんだろうか。くっそ…わたしもイーリス様辺りとこんな素敵なやり取りをしてみたい。しかし他人のそれを強制的に見せられるのは何て心理的苦痛を伴うんだろう。法律で罰金にして欲しい。
「そういえば以前の使用人が行方知れずだそうですね。」
王子の視線がふいにこちらに流れた気がした。
「え、ええ。何故それを?」
ルリアル様の表情から一瞬笑顔が消える。
「今日ラスティートの所でエミュレー嬢にお逢いしました。」
カランッと王子のグラスの大きな氷が溶ける。お酒の酔いも手伝って心臓の鼓動が早くなる。
「そうなんです。心配で探してはいるのですが。」
伏し目がちにルリアル様がため息を付く。
「心当たりは?」
隣にいるのに何故わざわざそんなことを…? 思わず王子の方を向いたが、王子はちらりともこちらを見ない。不安になってラスティート様の方を見るといつの間にか姿がなかった。
「えぇ、都とポーリン辺りを探しています。都は仕事と…美味しい物がたくさんありますし、ポーリンは都ほどではないですが賑わっていて…温泉にいってみたいと言っていましたから。」
さすがはルリアル様。
「そうですか。ちなみにその者は魔法は使えますか?」
王子はグラスをテーブルに置いて身体ごとルリアル様の方へ向けた。
「魔法ですか?いいえ、今の者と違って使えません。」
「そうですか。」
「無事で元気にしてくれているといいのですが。」
もう聞きたくなかった。ウィンティート家に…ルリアル様に身限られたあの日はもう思い出したくなかった。
「あの、ルリアル様はいつからこちらでお仕事を?」
さっきは気が付かなかったが少年ぽい声になっている。
「失礼。これの質問には答えなくても結構です。」
王子が左手をリースの前に掲げて遮る。
「いえ、いいのです。こちらでは2年。それ以前はホロスウィアのカフェで5年働いていました。」
「!!」
知らなかった…ルリアル様がそんなに長く働いていたなんて。全然気づかなかった…帰りが遅い日は貴族のご友人と会っているものだとばかり思って…。旦那様の遺産なんてとっくに底をついていたんだ。
「おかしいでしょう。こんな貴族がいるなんて。お恥ずかしいです。」
うつむいて首を振ることしかできなかった。何ということだろう。ルリアル様は私には働けと言わなかった。相談すらしてもらえなかった。
「殿下…あの、今日セレーネ王妃様にお会いしました。ここのことは…」
ルリアル様の大きな瞳が揺れる。
「あぁ、母上は頭が固いからね。もちろんここで働いていることは黙っておくよ。父上が病で寝たきりだから母上も話し相手が欲しいようだ。たまに付き合っていただけるとありがたい。あなたのように聡明な女性なら安心だ。」
王子はルリアル様を安心させるようにしっかりと目を見て穏やかに話す。
「わたくしでよろしければ…光栄にございます。」
ルリアル様は少しはにかみながら胸に手を当てて感謝の意を示した。
その時ふらふらになったラスティート様が席に戻ってきて、何を思ったか王子様とルリアル様の間に勢い良く割って入り、そのままヴァン王子の肩に倒れ掛かり潰れて眠ってしまった。
「まぁ、ラスティート様!」
王子は呆れたようにため息を付く。
無理矢理誘ってしまって本当に申し訳なかったと思った…。
「迷惑を掛けてすまない。今日はこれで失礼しよう。いくぞセデム。」
王子は自分よりも大きな男を軽々と担いで扉へ歩き出す。
「少し休まれていかれなくても大丈夫ですか?」
ルリアル様も心配そうに立ち上がる。
「家まで直接送り届けるから心配ない。今日は急に申し訳なかった。」
「いえ、とんでもございません。…また…」
ルリアル様の声が少し震えていた。
王子は軽く振り返り左指を鳴らすと薄紅紫色の大きなバスティラの花束が現れた。
「また逢おう。今日はありがとう。ルリアル嬢。」
花束を受けとるルリアル様はとても嬉しそうで言葉もでないようだった。
◇◇◇
「ここで待て。ラスティートを自宅へ戻す。」
馬車は待機していたが、ラスティート様の状態では無理だと判断したんだろう。王子とラスティート様は、例の風に包まれて姿を消した。
今なら逃げられるかもしれない…ふと思った。
でも、どこへ…?
リースはキラキラした都会の夜道をふらふらと頼りなく歩き出した。




