王子様と… (2)
目を開けると見知らぬ大きな部屋にいることに気付く。
「これは! ヴァン殿下!! いきなり応接室にいらっしゃるなんて驚きました…!」
目の前の大柄な男はお世辞にも格好良いとはいえないが、角張った輪郭と下がった目尻、自信なさげに少し竦めた肩からは謙虚そうな人柄の良さが滲み出ていた。
「急にすまない、事情があってな。」
王子は男に軽く耳打ちする。
「ええ、わかりました。ではお嬢様はこちらで。よろしく頼む。」
近くにいた優しそうな金髪のメイドに促されて部屋を出ると銀の唐草模様の刺繍にホワイトベージュの美しい絨毯が敷かれた長い長い廊下を歩いた。ところどころに活けられた可愛らしい花々が、見知らぬ広い広いお屋敷にいる緊張感を和らげてくれる。
「こちらへ。どうぞごゆっくりおくつろぎ下さい。」
「わぁ」
柑橘系のよい香りがすると思ったらお風呂だったようだ。
毎日布で身体を拭く程度だったからお風呂なんてウィンティートが全盛期だった子供のころ以来だ。ほのかに木の香りがすると思ったらバスタブ全体が木で出来ている。
「こんなのはじめて…」
たっぷりのお湯に浸かると溢れ出るお湯にいくつかの黄金色の果実がくるくると踊る。一つ手にとって絞れば甘酸っぱい香りが立ち込める湯気に溶けて心地よく鼻を擽った。
気持ちいい…ずっとこうしていられたらな…。
記憶にはないのだが、小さい頃、長い時間お湯に浸かっていたら湯当たりというものを起こして随分母親に叱られた。母親曰く、物事には節度というものがあり、ずっと心地よいベットで眠っていられないように、ずっと美味しいケーキを食べ続けられないように、ずっと気持ちのよいお湯の中にもいられないらしい。それらは全て良い仕事をするために「英気を養う」手段に他ならないだそうだ。母は馬車の事故で亡くなるまで毎日仕事漬けだったように思う。侍女頭になるまで出世したってそれで幸せだったようには思えない。
もう一度名前も知らない黄金のフルーツの香りを胸いっぱいに吸い込んでゆっくりと湯船を出た。
「あっ」
浴室を出ると目の前には上品な薄桃色のワンピースが掛けられており、着ていたメイド服はなくなっていた。
ど、どうしよう…汚れていたのバレたわよね…恥ずかしい。
用意された服に袖を通すととても良い肌触りだった。宮廷のメイド服も軽くて動きやすかったが、このワンピースは軽くて動きやすい上に気持ちまでリラックスさせてくれる。
「失礼します、お嬢様。」
先ほどの金髪の女性が小さなワゴンを引いてやってくる。
お、お嬢様なんて…。メイド服を着ていたんだから同じ使用人だと分かるでしょうに…。そのメイドは薄絹のカーテン越しの小部屋の化粧台にリースを座らせると、あっという間にお化粧を施して髪を美しく結い上げドレスと同じ色のネリネの花を左耳の少し下の辺りに飾り付けた。
「あっ、ありかとうございます。」
こんなことしてもらったことない。恥ずかしくて心地良くて何だかその場から逃げ出したいようなくすぐったい気持ちになる。
「とてもお似合いですよ。ではそろそろ行きましょうか、お二人がお待ちです。」
もと来た廊下を戻り、大きな一室に案内されるとそこに王子と例の男の姿はなかった。それにしても部屋の広さと調度品の多様さには目を見張るものがあった。王宮殿でも見たことのないような美術品の数々…。部屋の中央の香木のオブジェには珍しい色の宝石をあしらったアクセサリーがいくつも飾られている。
「まぁ、テラス席においででしたね。どうぞこちらへ。眺めがとても良いんですよ。」
「うわぁ」
案内されるまま外へ出ると、遠くには小高い丘とオレンジ色の実を付けた樹木がいくつかみえた。その手前には小川が流れ、水車がゆっくりと回っている。原っぱのような空間には揚羽蝶が舞って牛蛙の鳴き声まで聞こえてくる。目の前は一面マーガレットの花畑だった…。これは庭なのかしら。王宮殿の整然とした庭園とは全然違う…にしても広すぎてどこまでが敷地なのかもよく分からない。ふと遠くで馬車が止まる音が聞こえた様な気がした。
「座ったらどうだ。」
王子がこちらを見もせずに紅茶をすすりながら呟く。
向かいにいた男が立ち上がり椅子を引いてくれた。
「あっ、すみません。」
やっぱりレディファーストの優しい男性のようだ。
「すごいお庭ですね…。」
「いえいえ、庭と言えば聞こえはいいですが、だいだい購入した時の自然のままにしています。手を加えたのはほんの一部でして。」
はにかむような笑顔が可愛らしい。大きな体格に似合わず何て謙虚で良い男性なんだろう。
「そういえば自己紹介がまだでしたね、わたしは――」
その時、小川に架かった太鼓橋からよく知った女性の上半身が見えた。
「ブッ」
思わずハーブティーを吹き出す。
え、エミュレー?!
ま、まぼろしだろうか…目を擦ってもう一度目を細めて見ると確かにエミュレーだった。あのショッキングピンクのドレス…間違いない。幸いまだこちらには気づいていないようだった。
「だ、大丈夫ですか?! ナフキンを…」
男は驚き、王子は明らかに不快そうな顔をしていた。
ヤバイヤバイどうしよう…クビにすると聞いてヤケになってターネットのドレスを盗んでウィンティート家を飛び出した宴の日を思い出す…合わせる顔なんてない…しかも相手はあのエミュレー…どうしようどうしよう…隠れている暇なんてない。
そっ、そうだ!
「ヴァン王子!! わたしを魔法で別人にして下さい!」
「何?!」
王子は先ほどリースが吹き出した紅茶がかかった自分の袖をナフキンで拭いていた。
「何でもします、何でもしますからっ!!」
涙目で訴えると王子は半眼になって無言でリースの額に手を翳す。
ポンッ。
「うわぁっ」
男の驚く声が聞こえる。
目を開けるとぼんやり王子の金の刺繍が入った白い革靴がみえた。
「ワワンっ(どういうこと?!)」
げっ、い…犬?! 下を見ると手元は白く縮れた毛で覆われていた。別人て言ったのに…。
「ラスティート様!」
よく知った女の声が響く。
やっぱりね。それはそうでしょうね…。そうだと思いましたよ。
「これはエミュレー様! どうかなさいましたか?!」
「あら、用事がなければ会いに来てはいけないかしら?」
「いえっ、そんなことはっ。」
ラスティート様は気まずそうに笑う。
「まぁ! これはヴァンテリオス王太子殿下!!」
エミュレーは驚いて口を少し空けたまま、ドレスの裾を摘まんでおじぎをする。
「ウィンティートのエミュレー嬢でしたね。宴の日はよく来てくれたね。」
さっきまでとは全然違う優しい声色に少しムッとする。
「まぁ、一度お会いしただけで覚えていただいていたなんて。光栄にございます。お話中でしたら私はこれで…」
エミュレーは目の前の椅子には座らずにもう一度おじぎをする。ほっ、このまま帰ってくれるならよかった…。
「いいや、こちらもたまの休日に訪れたまでのこと。もしよろしかったら少しお付き合い願いたい。」
そういうと王子はそっとエミュレーの肩を抱き自然と椅子に座らせた。
何を余計なことを…。にしても振る舞いは至って紳士だがけっこう強引だ。
エミュレーはポッと顔を赤らめてまんざらでもない様子できこちなく微笑む。
「お嬢様…こちらを。」
若いメイドが大きな包みを抱えてきた。
「あぁ、そうだったわ。いただいたランの花とウィンティートの屋敷近くのヘデラで寄せ植えをつくってみましたの。」
メイドが包みを開けると白い陶器のポットに可愛らしい紫の花と明るいグリーンが見事に調和した鉢植えが現れた。
「ほぅ。王宮にはない素朴な美しさで心が洗われるようだ。素晴らしい婚約者を得てうらやましい限りだな、ラスティート。」
王子はにっこりとラスティート様とエミュレーを交互に見た。
ラスティート様は困ったように笑って、エミュレーは頬を薔薇色に染めて言葉少なに嬉しそうにしていた。
何あの鉢植え…。エミュレーは毎日食べてばっかりで土いじりしているのなんてみたこともないし。絶対グリーミュに作らせたんだわ。面白くない…ラスティート様がこんなにステキな男性だったなんて…そりゃ美男子ではないけれどお金持ちだし人柄が良さそうだし…「結婚するならこんな男性がいいわ」と一般の女性逹が想像する男性の典型といっても良いかもしれない。そう、恋をするならヴァン王子やイーリス様のような容姿端麗な男性と夢見ごこちに華やかなデートでもしてみたいが、結婚となると話しは別だ。たとえ結婚したってライバルは多いし女性関係を心配しながら、隣にいて見劣りしないように自分にも磨きを掛けながら気の置けない一生を過ごすというのはけっこう辛いはずだ。
ラスティート様…成り上がり貴族と聞いてもっと年配で背が低くて強欲そうな男を想像していたのに…くぅッ…エミュレーがうらやましい。
「ワンッ (帰りましょう!) ワンワンワワンッ (私たちはお邪魔ですよ!) 」
王子の方を見て吠えてみるが、チラッとこちらを見ただけで無視された。
「あらまぁ、可愛い。こっちへいらっしゃい。」
エミュレーが聞いたこともないような猫なで声でこちらを見て微笑む。怖っ…とっさに王子の足元へ隠れた。
「まぁ、殿下がお連れになったのですか?」
「まぁ、そんなところです。」
「抱っこしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。」
やっやめ…ひょいと王子に持ち上げられると暴れる暇もなくエミュレーの腕から膝の上に乗せられた。
ぎゃ~~~!!
「うふふ、緊張して固まっちゃって可愛い。怯えなくても大丈夫よ。」
今まで叩かれたことしかない恐ろしいエミュレーの手が、毛並みに沿って背中を優しく這う。
う、うわぁぁぁ~~気持ち悪い気持ち悪い!!
「ワンッ(おろして下さい!)」
「ん? 気持ちいいの? もっと撫でであげましょう、ふふふ。」
ち、違う…。助けて~!! ラスティート様に向かって微笑み掛けるエミュレーはいささか動物好きアピールをしているようだ…ダシに使われている…く、くそ~!!
「お名前は何というのですか?」
「リースと言います。」
王子はショートケーキのイチゴに銀のフォークを刺しながらサラリと言った。いつの間に私の名を…。
「え?」
背中を撫でていたエミュレーの手が一瞬止まった。




