憧れの場所 (10)
「くっ、ダメだわ…。」
パウダールームの鏡を磨きながらリースが項垂れる。
「こっちもよ。」
フィリもお手上げと思ったのか既に手が止まっている。
時刻は夕方17:20を廻っていてタイムリミットはあと40分だった。いや、片付け時間が20分いるから、実際掃除ができるのはあと20分か…。デディさんには必ず18:00には仕事を切り上げるようにと厳しく言われていたのだ。パウダールーム以外はフィリの的確な指示により効率的に片付いたが、パウダールームに関しては数十ある鏡と椅子の、どちらも1つ目すらまだ終わっていなかった。
宴に持ち場を離れたペナルティの庭園に取りかかるどころではない。デディさんは昨日進み具合を確認してくれると言っていたのに昨日も今日も特にここには現れなかった。リースは別に掃除が終わらなくても、もうこれで充分だと思った…が、ふと嫌な予感が頭をよぎる。終わらなくてまたペナルティが付いたらどうしよう…。エミュレーに理不尽な目に合わされ続けてきただけに自動的に悪い方へ考えてしまう癖がついている。もっともそんな時はルリアル様のお陰で何度も救われてきたけれど。
ルリアル様か…王子様とのダンスは本当に素晴らしかったな。お可愛らしいだけでなく凛として…堂々としていてこちらまで誇らしい気持ちになった。一番信じていたお方だったのに…クビを切られたあの日を思い出すと、まだ胸が焼けるようにチリチリと痛んだ。
「浸け置きしてみましょうか。」
ふとフィリが呟く。
「え?」
今、浸け置きと言ったかしら。
「このままでは終わらないわ。別の策を考えないと。とはいえ薬剤は間違えないしあまり方法はないのだけど。」
フィリは提案したもののまだ少し考えている風だった。
「やってみましょう!」
リースは2つ返事で同意する。もうペナルティなんてまっぴらだ。例のブルーの薬剤をパウダールーム全体にたっぷりと塗ってその日の掃除は終了した。
◇◇◇
「イーリスと申します。詳しくはレリア様から聞いております。最初に僕が説明しながら手本を見せますから同じようにやってみて下さい。」
そう微笑むガーデナーは意外にも細身で長身の…小麦色の肌にフィリと同じ艶やかな黒髪の青年だった。
(す、すてき…!)
長い髪をベル型のクレマチスを象った銀飾りで一つにまとめている。瞳の色だけ薄いパープルブルーをしていて、無表情だと切れ長の目も手伝って鋭利で無愛想な雰囲気だったが微笑んだ顔は何とも上品で優しそうだった。
メイド3人の心は既に奪われていたかもしれない…あのリジェットまで表情が柔らかくなっているようにみえる。
薄暗い庭園にほんのりピンクのライトアップ、ときどきキラキラッと空中にピンクゴールドの小さな粒々が舞い、バスティラの花の周りを気まぐれに妖精達がフワフワと通り過ぎていく。
「何てロマンチック…。」
これは残業と言う名のデートかしら…私とマンツーマン指導でもよかったのに…。リースがうっとりとしていると…
パッ、と急に視界が明るくなる。
「作業しづらいと思うので」
イーリス様は魔法を使ったらしく3人の頭上に小さな太陽のような光の玉が現れた。あのままでよかったのに…急に現実に引き戻されて何だか掃除の疲れがどっと蘇ってくる。
「1株終わったら教えて下さい。」
背丈より少し大きい枝葉の多いギュネタタという木を前に3人はもくもくと作業を始めた。
「終わりました。」
1時間と経たない内にフィリが手を挙げる。
「ええ、合格です。あなたはもう今日まででいいですよ。」
イーリス様がその甘いマスクで微笑む。
「えっ?!」
3人の驚きの声がシンクロする。まだ大きな庭園の1株目なのに。
「あぁ。聞いていないかもしれませんが、これはノルマはありません。」
何?! じゃあ一株終わればいいのか。さすがはお優しそうなお方…。フィリもイーリス様の美貌にやられたのか、一瞬拍子抜けしたような残念そうな顔をしたが、すぐホッとした表情になってこちらに手を振り宮殿へと戻っていった。
隣では悔しそうなリジェットがペースを上げでバキバキとはさみを入れている。それにしてもこの木…。枝や葉っぱがやけに多くてモサモサしている。切っても切っても全然イーリス様のお手本のようにならない。むしろ切っているそばから枝が伸びているような錯覚さえする。首が痛くてもう腕も上がらない。隣を見るとどうやらリジェットも同じようだった。
「う~ん、今日はここまでにしましょう。お嬢様方。」
お、おじょ…聞き間違えだろうか。そう言うとイーリス様はダンスにでも誘うかのように優しくリースの手を引いて、もう片方の手の長い親指でリースの頬を撫でる。
なになに?! これはまさかキ、キスされ…どうしよう…反射的に目を閉じた瞬間――
「お疲れさま。」
イーリス様は人差し指と中指に小さな葉っぱを挟み、ニコリと微笑む。
は、葉っぱが付いてたのか…気づかなかった。しかし、このフェミニストの思わせ振りな仕草はクサいな…非常にクサい…。でも嫌じゃない…全然嫌じゃない。
「それではまた明日。安らかな夜を。」
ふっと頭上の小さな太陽が消えて、綻び始めたバスティラの花のアーチの内にイーリス様は吸い込まれていった。