憧れの場所 (7)
「今日から毎日お掃除をお願いします。昨日は宴があったから今日から3日間は大広間とそれに連なる部屋を午後いっぱいでキレイにして下さい。3日後の夕方にレリア様のチェックが入るからしっかりね。」
宴があった昨日と変わらないテンションで張り切って指示を出すのは迎い部屋を仕切っていた例のベテラン女だ。
午後の柔らかな日差しが差し込んで大広間は昨日とは打って変わって静かで厳かな雰囲気さえ漂っている。
「こんな広いスペースを5人だけで?!」
思わずリースが前のめりになる。
ベテラン女と集められたメイドは新人4人のみだ。迎え部屋だけでも相当な広さなのにさらに巨大な大広間とその他、休憩室やパウダールームなどいくつも部屋がある。
「あら、2日間でもいいかと話していたところなのよ。ちなみに私は途中で抜けますけど。」
「ええっ?!」
フィリは相変わらず表情を崩さず、ナズナは少し疲れたようにうつむく。リジェットはこの状況に何だか燃えているようだった。
「話をしている暇があったらとっとと始めましょう。道具と薬品の説明から入ります。」
…道具なんてウィンティート家ではせいぜい箒と雑巾くらいで、雑巾も年に一、二回水拭きすれば良いくらいだった。ましてや薬品なんて使ったことがない。目の前の数十種類はあろうかという大小様々な容器の薬品の細かい用途なんて覚えられる訳がない…。
それでも午前中の講義と違うのは共同作業ということで…分からなければ聞けばいいし…万が一終わらなくてもみんなの責任だしまぁいいやと気楽な気持ちになってくる…。
「じゃ、リジェットとナズナは大広間のシャンデリア、フィリとリースはパウダールームからお願い。私は大広間にいるから分からないことがあれば聞いて。」
よかった、フィリとペアなら心配なさそう。
「それにしてもシャンデリアまで掃除するのね。宴前にキレイにしないのかしら。あんなに巨大で複雑な造りだし掃除しづらそうね。」
パウダールーム組で本当に良かったと思った。
「そうね、宴前にも磨くけど大勢の出入りがあった時は、細かい調度品も含めて一度全て磨くみたいね…おかしな魔法や念がついていないかこの薬品を使って磨くと分かるみたい…ってデディさんが言ってたでしょう。」
フィリは微笑んだがちょっと呆れ顔になっている。
あのベテラン女はデディというのか。それにしても『魔法や念が付く』ってどういうことだろう…聞こうと思ったけどやめておいた。フィリの機嫌を損ねて見捨てられたら宮廷生活は終ってしまう。
「うわっ。」
パウダールームは大きく汚れてはいないものの、噎せかえるような甘い匂いがして、それは決して心地の良いものではなかった…。
「はい。」
フィリがマスクを渡してくれる。
「あ、ありがとう。」
「…香水やお化粧品も一つ一つは良い香りなのに。何とか見初められたいっていう大勢の強い念が入ると1日でこんなに重苦しい空気になってしまうのね。」
念てそういうこと?!
そんなバカな…今までそんな現象聞いたことがない…王宮殿とは真に摩訶不思議なところだ。
「はい、このブルーの薬品を使って、透明になるまで全部磨くそうよ。これはシャンデリアより手強いかも…。」
フィリがその上品な眉を潜めたのを見てリースは不安に思った。そしてその予感は見事に当たっていた。
◇◇◇
「ぜ、全然透明にならないんだけど」
一旦マスクを外してリースがフィリを振り替える。
「こっちもよ…。薬品は間違いないはずなのに。」
2人がパウダールームに入ってかれこれ3時間は経過していた。
フィリは前のめりにゴールドで細工された野いちごの蔦に縁取られた三面鏡を磨き、リースはしゃがんで緩やかなカーブを描く白い化粧台の椅子の猫足を磨いていた。どちらも数十あるうちの1つ目だった。
始めは簡単なゴミの片付けやモップがけをしてパウダールーム全体の見た目はキレイになったものの、例のブルーの薬品を使い始めたらどんなに布で磨いても透明にならない。
「専用のスポンジでもあるのかしら…ちょっとデディさんに聞いてくるわ。」
このままでは3日間あってもパウダールームすら終わらない。フィリが動く。
「待って待って、私も一回この部屋を出たい。」
何だかマスクをしていても独特の甘い匂いが漂ってきて胸やけがする。
パウダールームを出ると、まるで重力から解放されたように身体が軽い。
「く、空気がおいしい…。」
「本当ね。」
マスクを外したフィリの首もとをすうっと一筋の汗が伝う。迎い部屋のカウンターではどんなに忙しくても涼しい顔をしていたのに、さすがに今は余裕がなさそうだ。
「専用の道具? それはないわね。その薬品でひたすら磨くしかないわ。」
命綱をつけてシャンデリアを磨くナズナとリジェットに指示を出しながら、当然のようにデディさんは言い放つ。
リジェットは随分アクロバテッィクな体制になっており両手にクジャクの羽はたきを持っている。
うわ…こっちはこっちで大変そう…。
「このままでは3日間で全て終わらせるのは難しいかと。」
フィリが一歩前へ出る。
「…進捗状況は私が確認して判断します。まだ1日目よ、諦めずに最善を尽くし…」
「ぎゃぁぁあっ」
ナズナが体制を崩して宙ブラリンになってしまった。しかもスカートがすっかり捲れて…パンツがまる見え…。
「ぅっつ、うぇぇっ」
泣きそうな嗚咽が聞こえたと思ったら、逆さまになった状態で口元を必死に押さえている。そういえば昼間のスープが美味しくて皆でおかわりまでしてしまったことを思い出す。それにしても大臣のお嬢様に何という拷問だろう…。
「あらま、吐きたいなら我慢しなくていいわよ。今行くから落ち着いてね!」
デディさんが水筒のようなものを腰に巻いて細長い脚立をギシギシと昇り出す。
「だ、大丈夫かしら。」
ナズナも脚立も…。
「デディさんなら心配ないわ。わたしたちは戻りましょう。」
フィリと諦めて大広間を出る。
「ねぇ、別の部屋からお掃除しない? あの甘い匂いでもう私も吐きそうだわ。」
身体があのパウダールームに入ることを拒否している。
「うーん、そうねぇ、このままでは終わらないし…。別の部屋であの薬品を試してみましょうか。」
やった! フィリが融通の効く人でよかった。これがエミュレーの命令だったら終わるまでパウダールームから出してもらえないだろう。…エミュレー様か…もう会うこともないだろうけど。
「あっ、透明になったわ。」
休憩室のダークブラウンの椅子を磨くとブルーのゼリー状の液体は一度くすんだ藍色になったが、やがて段々と色が薄くなり最後は透明になって吸収されていった。椅子は目にみえて新しく生まれかわっている。
「この薬品で間違いないわね。とりあえずここから終わらせましょう。」
パウダールームから一時であれ解放された喜びからか、順調に掃除は進んでいった。フィリが数種類の薬剤を何度がブレンドしたりして細かく指示を出した。いざ磨き終えると元々ブラウンを貴重とした重厚な雰囲気の部屋だったが、それに加えて何とも言えない落ち着いた艶やかさが増して、ある種の魅力的な大人の男性のような色気と包容力に満ちた空間へとグレードアップしていた。
「さすがフィリ…。掃除だけでこんなに部屋の雰囲気が変わるなんて。」
正直な感想だった。掃除とはこんなに奥深いものだったのか。
「ふふ、大袈裟ね。問題はこれからよ。」
そう言いながらもフィリの表情は少し和らいでいた。時計を見ながら、
「もう一度20分パウダールームを磨いて、透明にならなかったら今度は迎い部屋を始めましょうか。」
うっ…またあの部屋に戻るのか。
タイムリミットはあと1時間ほどだった。もう休憩室をあれだけキレイに磨いたのだから終わらなくても褒められこそすれ責められることはないんじゃないかと思う。でもさすがに宮廷メイドに『この辺でサボろう。』とも言えない…。
「だ、ダメだわ…。」
「残念ながらこっちもよ。」
何だか吐き気と目眩までしてきた。
強くこすっても優しくこすっても上等な絹で磨いてもたっぷり薬剤を使ってみても椅子をひっくり返ししてみても、どうしたってブルーの液体には変化がなかった。
恐るべし玉の輿スピリットを持つ女の執念…。
結局その日は迎い部屋のモップがけを始めたところで終わった。
「デディさんは?」
大広間に戻るとそこにいたのは髪の毛がボサボサになった美女が2人だけだった。ナズナは心なしか目が潤んでいる。
「デディさんは17:00までよ。王宮殿には毎日通っているの。」
フィリがいつものように教えてくれる。
「通い?!」
住み込みじゃないメイドなんて聞いたことがない。
「レリア様が許したそうよ。今はお子さんも小さいし。」
こ…子供がいたのか、どうみても仕事一筋という感じだったのに。ということは…
「旦那様はホロスウィアの裏通りでお店をやっているそうです。そちらの手伝いもあるそうだとか…」
ナズナが付け加える。しゃべる気力はあるみたいだ。
「お店…」
どういうことだろう…宮廷メイドは貴族の男性に引っ張りだこではなかったのだろうか。
「フィリ、リジェット、リースは30分後にメイド長室へ、いいわね!」
大広間の入り口から鋭くよく通る声が響く。距離がありすぎて顔は分からないが細身の美しいスタイルの先輩メイドのようだ。
「はいっ。」
忘れてた…。昨日の宴で持ち場を離れた3人がレリア様に呼び出されていたんだった。
長い長い1日はまだ終わらない…。