憧れの場所 (6)
「それでは今日の講義はここまで。皆さん発音がまだまだですね、これではせっかく唱えたところで何の魔法も発動しません。教科書のページ開くと本がしゃべって発音のチェックもしますから明日までにきちんと復習してきて下さいね。おっと、最後に教科書と辞書を持ち運びやすく小さくする魔法をお教えしましょう。」
「ララティプラウラニュエトリスカー」
「さぁ、皆さんもどうぞ!」
「ララティプラ…えっと何だったけ。あっ!」
他の3人の教科書と辞書が見事に手のひらサイズになってる。
「ほほっ、残念でした。リースはそのまま明日も持ってきて下さい。他の3人は手出し無用ですよ。」
そう言うと先生はスウッと透明になってその場から消えていた。
「きっ、消えた!」
それにしても1回しか教えてくれないなんて! でもみんなは1回でできてる…。授業の疲れと重たい教科書と辞書にもうげっそりだった。
◇◇◇
「お腹空いたわ。」
フィリが伸びをしながら呟く。
「本当ね。お腹ペコペコ、食堂はどこにあるの?」
普段使わない頭をフル回転させたからか、パンを食べたにもかかわらず、信じられないくらいお腹が空いている。しかも軽い頭痛もする。
ただ、小さい頃母に教え込まれた読み書きのお陰で何となく先生の言葉のニュアンスを汲み取ったり、ノートを書いたりすることができた。ペンなんてもう一生使うことはないと思っていたのに。それにしても教科書と辞書が重くて身体ごと床にめり込みそうだ…
「あのぅ…お昼ご一緒してもよろしいでしょうか?」
遠慮がちに小さな声がする。振り替えるとナズナがニコッときこちなく微笑んでいる。
「ええ、もちろん。」
フィリが微笑み返すと、ナズナは安心したように少し近づいてきた。何だか小動物になつかれたみたいだ。
「よかったら…良いところがあります。」
ナズナは遠慮がちな態度とは裏腹に複雑な廊下を迷いなくスタスタと歩いていく。随分目まぐるしく周りの景色が変わっていくように見えるが付いて行くのに必死でそれをいちいち見る余裕もない。ラルファモート先生の話からして王宮殿のなかで迷子になることは命取りだ。
「まぁ、随分と城内に詳しいのね。」
フィリが関心して驚く。
「えぇ…。」
ナズナは振り替えらずに気まずそうに答える。
「ま、まだかしら…本が重くって…」
必死に付いてきたが、もう腕が限界だ。
「すみません、あっ、もうすぐそこです。右手の…。」
「わぁ…!!」
「まぁ。」
フィリも思わず声を上げる。薄暗い洞窟の中に幻のように浮かび上がるダイニング。食堂というよりはレストランという感じだろうか。不思議と人の気配が感じられず、知る人ぞ知る秘密基地のよう…。
中に入り席に着くと丁度3人を囲うように岩壁が現れ個室のようになった。
「いいところを教えてもらったわ。地下35階ね。」
フィリが微笑む。
「地下35階?!」
そ、そんなに下ってきたんだ…。全然分からなかった。むしろ上がっているのか下がっているのかもよく分からなかった…。
「お、王宮殿て地下何階まであるの?」
「すみません、それはわたしも知りません。」
「あら、ナズナさんが謝ることではないわ。探検しがいがあって楽しいわね。」
フィリは嬉そうにこちらを向いてニコニコしている。こっちは方向音痴と記憶力が悪いせいで、いつ闇の迷路に落ちるんじゃないかと恐怖でいっぱいなのに。
「あっ、フィリさん! リースさんも!」
聞き覚えのある声がすると思ったら昨日カウンターで一緒だったホリーだった。前髪を上げてコウモリみたいな真っ黒なコスチュームを纏って昨日より少し大人っぽくみえる。
「まぁ。」
「フィリさん! 昨日はありがとうございました! あ、リースさんももう具合はいいんですか?」
とって付けたように言ったわね…
「お陰さまで。昨日は突然倒れてごめんなさい。」
フィリに思いがけず会えてホリーは嬉しそうだ、お店のライトに少しキラキラした粒が見えたのは気のせいだろうか。
「こちらは同じクラスのナズナさん。こちらはホリー、昨日迎い部屋のカウンターで一緒にお仕事したの。入れてくれる飲み物がとにかくおいしいの。」
フィリに誉められてホリーはますますデレデレになっている。急にテーブル上の照明がいっそう輝きながらくるくると踊り出す。
「これって?」
指差しながらリースがホリーに尋ねる。
「映心光虫…。店主の心を反映して光る虫の照明です。お店の雰囲気が変わったと思ったら君でしたか。とても純粋で美しい光だ。」
「ラルファモート先生!!」
突然ホリーの背後に現れた男に生徒3人が驚いて口を揃えた。
「失礼、通りがかりだったもので、わたくしはこれで失礼しますのでみなさんごゆっくり。」
先生はまたもや蜃気楼のように揺らめきながらスウっと消えていった。
それにしてもせっかく秘密基地みたいなところに来たのにホリーや先生にまで出くわすなんて世間は何て狭いんだろう…。ホリーは目を瞑り小さくコホンと咳をして
「今日はブロブフィッシュの煮込みスープがオススメです、飲み物はサービスするので何杯でも召し上がって下さい。」
「えっ本当に?!」
ラッキー! ここに来るときはフィリと来よう。
というか1人じゃ道も分からない。
「ありがとう。」
フィリが微笑んで、ナズナは軽く会釈する。
「はぁ…もうこれここに置いていきたいな。これで3ヶ月なんて信じられない。」
目の前の教科書と辞書をうんざりした気持ちで眺める。
「ふふふ。」
フィリが笑う。ナズナが辺りを見回した後に真顔で口を開いた。
「ええ…。これが3年も続くのかと思うと…。」
「3年?」
どういうことだろう…3ヶ月の聞き間違いだろうか。
「あ、すみません。あの、リースさんは違うのですか?」
ナズナが前のめりで近づいてくる。グリーンイエローの大きな瞳が暗がりの洞窟の中で宝石のように光る。
「わたしも3年のつもりなの。」
先にフィリが口を開く。
「そ、そうですか。」
ナズナがフィリの方を向く。
「失礼…。ナズナさん、もしかしてあなたはドレルッド大臣のお嬢様ですか?」
ナズナは観念したように目を伏せる。
「え、ええ…その通りです。もう許嫁もいるんですが、結婚前に3年間宮廷メイドとして花嫁修行してくるように父から命じられているんです。」
メイドの仕事が花嫁修行…? 意味がよく分からない。結婚したって使用人の仕事なんて貴族の女性はやらないだろうに。
「フィリさんもお相手が?」
「いいえ、わたしはいないけれど、良い男性と結婚するためにここに来たの。」
やっぱり意味が分からない。
「良い男性って…昨日あんなにたくさん豪華な名刺をもらっていたじゃない。わざわざ大変な思いをしてここで働かなくても…。それに3年て?」
フィリとナズナは目を見開いて顔を見合わせる。
「…宮廷メイドを勤めていたということは大変なステータスなの。昨日の名刺なんて比べ物にならないくらいハイクラスの縁談も引っ張りだこだし。それに使用人の仕事内容や魔法の基礎知識も解るから、嫁いだ後も一目置かれて大切にされるのよ。3年ていうのは契約更新が3年毎だから。宮廷メイドとしての基本的な一通りのカリキュラムが終わる期間でもあるわ。」
フィリが先生にみえてきた。
「それじゃあ3年経ったら2人ともメイドを辞めるの?」
「はい。」
「ええ。」
当然のように二人は頷く。
「すみません、てっきりリースさんもそうかなと思って…。」
ナズナはバツが悪そうにしている。
何ということだろう…。ナズナはおそらく父親のコネだろうが、宮廷メイドになるのは相当難しそうなことなのに、それを3年で手放してしまうなんて。使用人としての一生に命を掛けているようなグリーミュが聞いたらなんと言うだろう。ともあれ新人4人のうち2人は花嫁修行で1人はニセモノだなんて…。いや、待てよ…3年何とか我慢したらその後は薔薇色の人生が待っている。何とか上手くごまかしてここに留まれないだろうか…。でもいくらなんでも3年は長すぎる。中途退職じゃ価値が下がるんだろうか…。真剣に考えていると、ふと目の前にオレンジ色の密度の濃い湯気が現れる。
「さっ、どうぞお召し上がり下さい!」
何も知らないホリーが、コラーゲンぷりぷりの巨大な鍋を運んできた。相変わらず暗闇にキラキラと輝く照明が眩しかった。