憧れの場所 (3)
「リースさん! 早くこのオレンジジュースを注いで下さい!! 10人分です。」
カウンターで指図する男は自分と同じか少し若い位だった。銀髪で少女と見紛うような可愛らしい容姿だがその手つきの早さは尋常ではない。
「あぁそっちじゃないっ! 10分経ったものは注がないで下さい。絞りたてしか出してはダメです!!」
「嘘…なんてもったいない。」
何年かごしのスープを使い回していたリースには信じられない話だ。
「捨てるんじゃありません。お菓子や化粧品に再利用するんですよ! あぁこんなこと話している暇はないのに…!」
そう言いながらテキパキと、飲み物の種類や…時に特別な招待客に合わせたグラスやカップを準備していく。
目の前には大小様々なグラスがどんどん溜まっていき、気が付くと自分と同じ制服の女性たちが列をなしていた。
「早くして下さい。お客様が待っておられます。」
柔らかな表情こそ崩さないが、淡々とした口調には確かな圧力が感じとれた…それがまた怖い。
急かされれば急かされるほど混乱してグラスを持つ手が震え始めた。
何て混雑なの…これならマッサージの方がまだマシだったわ。
どうしよう…えーと次は12番のワインワイン…。
「あっ、ワインは僕がやります。運ぶ方も注意して下さい。」
そう言って丁寧に栓を抜いて慎重にワイングラスに注いでいく。こんなに忙しいのにこの僕ちゃんは何を!…と思った時、
「わたしもこちらに入ります。」
そういって現れた女性は艶やかな黒髪に長い睫毛、少し太めの眉をもった美しいメイドだった。貴族の令嬢としてドレスを着ていても何らおかしくない上品な雰囲気の持ち主にしばし見とれてしまった。
「私はフィリ。あなたと同じく昨日ここへ来たの。あちらにいると男性陣がしつこくって、ご令嬢方には睨まれるし…ここへ追いやられたってわけ。」
そういって彼女はメイド服のポケットから数十枚もの名刺を見せた。
リースでも一度は耳にした事のある名家がいくつも見てとれた。それにしても名刺自体の装飾がそれぞれ何とも美しい。
「すごい、何て美しい名刺かしら…。私はリース。よろしくお願いします。」
そういうとフィリは不思議そうな顔をした。
「よくある名刺に見入るなんて可笑しな娘。」
「リースさん!! 手を動かして下さい!!」
またもや僕ちゃんに急かされる。そう、フィリは会話しながらも手際良く仕事を捌いていく。その内、段どりをリースや僕ちゃんにも指示し始め、注文もスムーズに回り出していた。これで入ったばっかりなんて信じられないわ。でもグリーミュをみていたらこの位は当然かも。
◇◇◇
どのくらい経っただろうか…冬だというのに汗だくだった。となりのフィリも涼しい顔をしながらも、ふぅっと周りには分からないくらいの小さなため息を付く。
「今回の宴はここ50年で最大規模のようですからね。」
やけに僕ちゃんだけは元気だ。
「いつになったら人が少なくなるの?」
リースはうんざりした顔を隠さずに尋ねる。自分はここで何をやっているんだろう、いつ逃げ出そうか…でもどこへ…。
「またそんな顔して。いくら新人だからって怒られますよ。まぁピークは過ぎましたよ。ほら、入り口を見て下さい。」
そういえば、入り口付近の列が無くなってきて、あまり並ばずに室内に入れてい…
「!!」
あっ、あれはウィンティートの3姉妹!
ターネットを先頭にエミュレー、ルリアル、そしてグリーミュも続く。ターネットは何事もなかったかのようにリースが盗んだはずの桔梗のドレスを着ていた。
「あっ、リースさん何やってるんですか?!」
とっさにカウンター越しにしゃがんて隠れる。
「具合が悪いふりしてサボるつもりですか?!
ダメですよ、空いてきたとはいえまだまだ人が…むっ」
リースの頭上でフィリの人差し指が軽く僕ちゃんの唇に触れたのが見てとれた。どうやらフィリは瞬時に何かを察してくれたらしい。僕ちゃんは一歩後ずさり、動揺して真っ赤になっているようだった。
どうかどうか気がつかれませんように…!!
今見つかって宮廷メイドでないことがバレたら確実に牢獄行きだ。盗んだターネットのドレスを着て宮殿へ入ろうとした時はもうどうなってもいいと思ったのに、いざとなると怖くなって身体が震えた。
『きっと大丈夫よリース、この部屋は何千人と収容できるくらい広いし、それこそ大広間へ言ってしまえば、まず見つかることはないわ』…と、パニックに陥りそうな自分に言い聞かせる…
「あの、64番のワインとお水をいただけますか?」
な?! グリーミュの声!! 震えが止まらない。無意識に僕ちゃんの足にしがみついていた。
「っ!!」
僕ちゃんの身体が強張る…
「あら、係のものに注文していただければお持ちしましたのに。」
訳もわからず動揺を隠そうとする僕ちゃんを余所にフィリは平然としている。
「差し出がましいとは思いましたがお忙しそうでしたので。」
グリーミュの声が少し緊張している。
「まぁ、恐れ入ります。とても助かるわ。お待ちの間どうぞ。」
フィリはグリーミュに果物のジュースを差し出した。
「いいえ、わたくしはっ」
「今日の宴は特別ですから、お付きの方も皆さんにお勧めしておりますの。それとも他の飲み物がいいかしら?」
「いいえいいえっ、こちらで結構です。…では、ありがたくいただきます。」
グリーミュはまるで王族にでも会ったかのような恐縮ぶりだ。
とにかく早く飲んで立ち去ってー!
「あの…わたくしはグリーミュと申します。突然こんなこと…申し上げてもよろしいのか、でもいつか…いつかわたくしもあなた様のような宮廷メイドとして王宮に上がりたいと考えております!!」
聞いてもいないのに自己紹介なんかしてっ…もう十分知ってるから早く向こうへ行ってー!!
「まぁ、わたしはフィリです。グリーミュさん、いつか一緒に働けるのを楽しみにしているわ。」
フィリが飲み物をグリーミュに渡したようだ。
「あ、ありがとうございます…。」
グリーミュの声が心なしか涙ぐんでいる。それ以上言葉が出ないようだ。
「さぁ! ご主人様が待っていますよ!!」
フィリが促すとやっとグリーミュはその場を離れてくれたようだ。
「ちょっと、もう離して下さいよ!」
上から僕ちゃんの声がする。
カウンター越しにそっと遠くを覗くと大きなソファーにエミュレーだけがもたれかかりワインをガブガブ飲んでいる。
ターネットとルリアルは立ったまま水を口に含む程度だった。
この懐かしいような気持ちはなんだろう…もう話しかけることも許されない。今朝一緒に朝食をとったのに…それももう随分昔の出来事に思えてくる。
「もう、大広間に行ったから大丈夫よ。もっともお付きの娘は大広間には入れないから別の控え室にいるけれどね。」
「ありがとう。よくあの人たちだとわかったわね。」
ふふっ…とフィリは微笑んだきりだった。
何だかフィリは同姓なのにその意味深な表情に少しドキドキしてしまう。
「貸しが一つできたわね。それよりもホリー、ワインの注ぎ方はあれで大丈夫だったかしら?」
「ええ、フィリさん! 完璧です!!」
ホリーという名前だったのか。それにしても昨日入ったというこの新米メイドは貴族の男性だけでなく、ここにいるホリー、そして何故かグリーミュの心までも鷲掴みにしてしまったみたいだ。ともあれフィリもホリーもそれ以上なにも聞かないでいてくれたのでほっとした。
「そろそろ時間ですね。」
迎え部屋にいる人数もほぼいなくなったころ、ホリーが大広間の方をみた。
「さっ、どうぞフィリさん、しょうがないからリースさんも。」
しょうがないとは何だろう…でも憎まれ口をたたきながらもホリーはノンアルコールの真っ青なサングリアを作ってくれた。
「お…美味しい!!」
汗を掻いたからなのか、一口含んだだけでえもいわれぬ幸福感に満たされる。
「でしょ。僕のオリジナルです。」
ホリーは得意気だ。
「ええ本当に。それじゃあ、悪いけど少しの間ここを離れてもいいかしら?」
フィリが両手を顔の前で合わせていたずらっぽく笑う。
「え?」
確かに人はいないけど、持ち場を離れてもいいんだろうか。フィリがいないと不安だし。ちらっとホリーを見ると、一瞬捨て犬みたいな表情をしたものの、
「もっ、もちろんです。ここは僕たちに任せて下さい!」
胸に手を当てて精一杯の笑顔を作る。
ここにいて欲しいくせに格好つけちゃって…
「ありがとう! それじゃあ、1時間くらいで戻るわ。」
と言って何とそのまま大広間に消えてしまった。
「え、入ってもいいの? しかも1時間も。」
「本当はダメですけど。もうすぐダンスがありますからね。フィリさんも見たいんでしょう。ここはお客様もいないし、手伝いということで入れるかもしれませんね。でもリースさんはもちろんダメでしょうけど…ってアレ…まさか。」
ホリーがグラスを片付けながらしゃべり終えて振り替えると既にリースの姿はなかった。
「もう! 登城して2日目でクビになっても僕は知りませんよ!!」
大きなカウンターにポツンと一人…ホリーは深いため息をついた。




